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昔の映画における「過去への追想」と、現代の映画における「過去への対峙」との違いについての考察(「アベンジャーズ/エンドゲーム」を例として)

#映画 #アベンジャーズ #ジェレミー・レナー

昔の映画でも「過去への追想」というのはあった。

しかしそれらの手法は既に使い古されている。

そんな気がする。

多くの映画で似たようなストーリーと、似たような展開、似たような回想シーンが使い回されてきた。

手垢が付きすぎていて、更に今それを繰り返すのはどうなのかと思う。

しかし今は映像技術も進化して、特殊技術(SFX、CG)で現実ではあり得ないような映像も見る側に提示できる。

それならばSF的に、時間や空間の制約や束縛から逃れたものもできるはずだと思う。

そこに見応えのあるヒューマン・ドラマを乗せて底上げすれば、決してチャチなものにはならず、多くの人々に評価される作品になるだろう。

クリストファー・ノーランの「インセプション」などはいい例だが、ある程度大作や人気作で利ざやを稼がざるを得ない昨今の映画界では、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)のように、もともとどこかで人気になっていたものを再利用して、新しい形にして見る側に提示するような形が最も効率が良いのかもしれない。

はてなブログで、映画「アベンジャーズ/エンドゲーム」でデシメーションを生き残ったアベンジャーズ達の過去への対峙について をアップした。

映画「アベンジャーズ/エンドゲーム」がクリント・バートン (ジェレミー・レナー)とその家族のシーンから始まるのは決して偶然ではなく、むしろ必然に近いものかもしれない。

何故ならジェレミー・レナーほどヒューマン・ドラマの中で熱く語り、また存在感を露わにできる俳優は少ないからだ。

結局どんな映画も行き着くところはヒューマン・ドラマである。

その意味で意外に若い俳優よりもベテラン俳優を優遇し、重んじるMCUの姿勢は正しいと言えるのかもしれない。

「アベンジャーズ/エンドゲーム」の前半は重だるく、見ていてつらいところもあるが、クリントがアベンジャーズに合流する頃から徐々に歯車が回り出す感があり、まさに復讐(アベンジ)の始まりである。


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