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亞人的ミニマルへの遠い道のり

ミニマル
「できるかぎりわずかの」「可能な限り少ない」を意味する形容詞で、端的に言うと「最小限であるさま」を指す。

ちなみに、1960年代前後から広まった「ミニマリズム」という表現スタイルは、ミニマルを語源する言葉。これは、アートやデザイン、音楽などの芸術分野において過度な装飾を省いた手法のこと。


先日
池間さんと折坂悠太のライブを観に行ったあとに友人宅に泊まった。
「普通にめちゃくちゃ歌が上手いな!声量が、、、声量がぁぁ、、、」
「ライトがバン!バン!右!左!ってすごかった!」
と、魅力ある視点や奥ゆかしさのある感想も言えずにビールを飲む。

私は基本的にお酒を飲んだら全然動けないので
夕飯で食べたパスタのお皿を洗って、カーリングのごとくタオルで食器を拭いてる友人を見てびっくりした。
フォークもピカピカに磨き上げられて
同じ向きで並ぶ。
その空間の中に(テーブルという舞台の上)飲みきれなかった未開封の缶ビールを
酔ってて適当にテーブルの上に置いたんだけど

耐えきれなくなって
ラベルをなんとなく揃えて
フォークに絵柄を魅せるように並べて置いてみた。
その風景がBGMだとするのならば、BGMにノってそうさせられたの方が近いかも。

お友達に
「あー、もーダメ!私の歯磨きしてぇー」
と言いながら
友人がテーブルを布巾で拭いてる音を子守唄のように聞きながら眠りについた。


翌日、いつもの時間に起きて
自分で!歯磨きをして
そっとお手洗いを借りると
(お風呂とおトイレが一緒)
お風呂場にはアレッポの石鹸がポンとありボトル類は無い。

私は、ほとんどお湯シャン派なんだけど
(夏とかは臭いと家族に言われながらも)
夫は泡への信仰があってパックスナチュロンのボトルが並んでる。
けど、詰め替えの時に目に入る黒カビや、底の方のヌメリは気になる、、、。
1週間に一度のペースでコスコスと健気に
カビと戦う。
(私しか気にならないらしい)

ぁあ、もし、お家がアレッポ石鹸だけで済むならば、このコスコスタイムは省けるんだ、、、。
プラスチック容器の構造を恨むことなく、そしてお風呂場掃除セットを必然と少なくなる。。

現状

スティーブ・ジョブスが
思考のノイズを省く目的でファッションを変えていないみたいなお話は有名だけど

買わずとも
子供のおもちゃを中心に
あれよあれよと増えていく家の中のもの。




だけど、工房が出来て今まで窮屈だった部屋にゆとりが出来たら、あまり夫とも喧嘩をしなくなった。それどころか、お花を飾ったり手元にある本の把握が出来るくらいのゆとりは出来たし掃除の時間が短くなった。
我が家の経済的な範囲内でデザイン的にも機能的にも、いい感じの食器やツールを若干買い足していく。
昔亡くなった祖母の食器棚と鏡は現役選手で
オイルをたまに塗って管理しながら割れたら直して使っている。


捨てても捨てても
だけどやっぱりまだまだ物は多いし
使うかどうか分かんない
けどなんか使いそうだけど
え、使うの?使わないの?どっち?

みたいな念には念をという物が多い。
現に断捨離祭りだぁぁぁぁ!!
と捨てた後に、やっぱり必要だったみたいな事は
少なからずある。

どんなものにも
背景には人がいて
断捨離をする事への罪悪感みたいなものはどうしても拭えない。

こんな扱いをされるために
クリエイティブや労働をしているわけではないのだろう。

心がチクリチクリと痛くなるけど
安易な気持ちで購入した責任だよね。

こんなに片付け片付け!と強迫観念的に意識は向く一方で
都築響一の撮るような一見ゴチャゴチャした部屋にも憧れがある。
混沌の中にもリズムがあって人物の縮図のような。
本棚は縦横にテトリスのように積まれていて無秩序の中の秩序にも感じるあの風景は好き。
ただ偶然にも私がそのタイプの人間でたまたま無かっただけである。
思考がノイズすることへの不都合の方が勝ってしまう。


冬至



昔どこかの待合室で読んだ雑誌に
例えば、2LDKの相場が7万円だとして
1LDKの相場が5万円だとすると

物が多くて2LDKの間取りのポテンシャルが、1LDKと同じようにしか使えなかったら
物に家賃を取られて月2万円、年間24万円損をするみたいな内容の記事を読んだ。

ぁあ、なんて分かりやすい説明なんだろう。
物を捨てようと背中を押してくれる記事。

今日は、その記事を思い出して捨てるものは捨てて
やるべき事をこなして
爪も切って
ガス代はもったいないけど長めにお風呂に入ってストレッチしてみた。
コンマリのいう《キラキラした》は、余白や満足いく物が存在する空間に対してであり
手放すことのエネルギーはとても疲れて、とても様々なことを明確にしてくれる。

私の眼差しの先はどこを見ているんだろう。

誠実と不誠実を見極め、時には柔軟に妥協しながら
不確実だけれどもボンヤリな何かは重要な観点であることには変わらない。
焦らしながら、その認識のプロセスに体験やブレたくないことを
組み込む操作は私を主張する術になる。

ただの《お片づけ》に対して深掘りする必要はないのかもしれないかもしれないけど、私の場合、生き方に影響してしまうから深掘りして納得しないといけない。













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