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「生きたい」と呟いたら細胞が喜んだ話


少し遠出をした時。
行きは娘としりとりをして
頭を使いすぎて意識朦朧としていた帰り道。

娘からの質問や
会話の中で
かなり雑に対応していたら

なーんにもどこにも誰にも配慮せずに
ペラペラと喋ってしまい
次に娘の口から出たのが


「ひねくれクソババァ。」


そう。
私はひねくれているのだ。
8歳の娘に見破られてしまうくらいには。

noteを読んでくれている方や
普段の私を知ってる方の中には薄々気がついている方もいると思うけれども。

斜に構えていると言ってしまえば
様々な視点を持ち
固定概念にとらわれず
疑う事で身を守るようなそういう風な見方もあるんだろうけど
私はそれはもう
斜に構えるどころか
どの角度が斜なのか分からなくなっている。

どこが北でどこが東なのか分からず
曲がり角が来るたびに右に曲がったら
今ここに来てしまった。というような具合だ。

体調が思わしく無かったら
思考回路もショートして

もう、人としていかがなものかと思う考えに辿り着く。
自分の機嫌は自分でとった方が良いに決まってるけど自分で自分の感情の手綱がひけないようになる。


とは言えど基本的に私なりに毎日の中で幸せ貯金みたいな事は出来ている。

最近では山羊が2頭産まれて
個体的には弱く身体の小さい雌のミンゴが
今では雄のガーブに負けじと母親のおっぱいを飲んでいる。

汗をダラダラかきながら草刈りした後にビンビンに冷えたクーラーの部屋に入ると
「文明すげぇぇぇ」となるし

二週間毎日混ぜなければいけない柿渋が前日より臭いがきつくなってたら

「変化してるぜーすげー!」

と脳みそが喜ぶ。

かといって
夕飯時に納豆のパックやらお漬物の保存袋やらでプラスチックゴミがごそっとあるとギクリとするし

洗剤を使いまくり、綺麗になったお風呂場を見ると清々しさと同時に
己の精神衛生のために、破壊もしている事への罪悪感もある。
(カビには勝てない。パックスナチュロン愛用)

人間だもの。

日々、小さな喜びもあるが
片目を瞑ることによって平常心を保つという事が出来てしまう。

その日々の小さな喜びと、付随して散りばめられる自己嫌悪の数々とでトントンといった感じ。


ある日、台所の換気扇も洗い片付けが終わったあと布巾を煮沸しながら
ふと。


生きたい


と言ってみた。
なぜだか分からないけど
言いたくなって言ってみた。

そしたら、
私の中の細胞が

「ぅおおおおおお!!生きたいぞぉぉぉぉ!!!」

と、歓声をあげながら細胞が喜んでる



気がした。

何かが身体中から脳みそから発芽したようにも感じ、
何気なく言った「生きたい」という言葉は
保湿機能の調整が困難な土壌が私とするのならば、その言葉は雨のような存在だったのかもしれない。

そのとてもシンプルな行為は
拗れた私にもテキメンで

•過去の嫌なことを思い出しそうになったとき。
•目の前の事が様々な理由で全く進まない状況の時。
•不安で押しつぶされそうになったとき


などという時、言い聞かせるように

「大丈夫大丈夫!生きたい」と連呼するようになり
なんだかお守りのようになってる。

コツは
小さくても声に出すことと、
自分に言い聞かせること。

なんだか書いてて
私やばいやつだと思うし

20代前半の私が今の私を見たら

「キショ、、、」

と言いはなってるかもしれないけれど

まぁまぁ。いいじゃない。

人間だもの。

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