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手垢のついていない知識はあるのだろうか ~もるげんよもやま話~

コミケ104、お疲れ様でした。
無事盛況のうちの当サークルも終えることができました。
次回のC105も参加予定です。文フリ東京の冬にも出ますのでよろしくお願いいたします。

さて、我らネットの民のガンジス川、Twitter(現:X)、ここで川遊びをしていたら、とある方が面白いワードを見つけてきました。

それはとある方が発言したトンデモパワーパード「他人の手垢のついた知識」を読書猿さんが補足したことから始まりました。
現在は当該のワードを発現したアカウントは鍵になっていて覗けません。
そのときに一連のリプをながめていたのですが、記憶に残らないくらいのことしか話していなかったと思います。
しかし、その中でも燦然と輝くこのパワーワード。
これについて考えていきたいなあと思います。

予め、こちらの方でも多くの識者が語っていましたので参考にしてください。

誰も見たことのない”手垢のない知識”

そもそも、知識というのは誰かが発見し、それが流通しているものです。
ということは、世の中に出回っている知識は誰かの手垢がついた知識、といえます。
手垢のない知識、とはどんな知識なのか。

誰の手垢もついていない知識とは、私だけが知っている知識。
つまり、新しく発見された知識であるわけです。
誰も知らない、新しい知見というのは確かに価値があります。
けれど新規であるだけで価値が生まれるわけではなく、実用的であるとは限りません。

手垢まみれの知識であること

そもそもこの情報化社会の時代、完全な新規性のある知識を求めることは難しいのでしょう。
そして新しい知識を知るにはこれまでの既存の知識を知らねばならないのです。
どこまでを知っていて、どこから知らないのか、その境界線を知ることが大事であります。
研究をするときも、最初にするのは先行研究のリサーチであり、境界線をちゃんと知っていくことです。
それをしないで「新しい知識です!」とやっても、車輪の再発明になるのが関の山です。

また、先行研究を調べるということはこれまでの文脈を知るということでもあります。
自分の領域でいえば、「うつは脳のホルモンバランスや炎症物質が関与しているよね」という文脈の中から「こういう物質がホルモンバランスに影響与えてるよ!」と新しい知識を生み出していくのです。
そこで「うつ病はホルモン関係ない!気合いだ!」と新しい知識(いや、これは古いし知識か)を振りかざしても、「何言ってんだお前」と過去の積み重ねにぶん殴られておしまいなのです。
この文脈から外れて語られるものを人は妄想と呼びます。
もし、この文脈自体が違うというのなら、文脈を構成する数多の知識たちを批判するところから始めないといけませんし、そこにも整合性や論理性は求められます。

これからわかるように、手垢まみれの知識は多くの人にとって少なくとも有用で確実的と言える、そういった強い知識なのです。
そうでない知識を語る時、「なぜその知識が語られていなかったのか」を考える必要があるでしょう。
よく研究界隈で言われる、「お前が考えた新しい知識が提唱されていないなら、その研究がうまくいかなかった可能性がある」という警句にも似ています。
世の中は自分より賢い人がいて、自分が思いつくようなことなど、誰かがすでに試しているに決まっているのです。

なぜ手垢のついていない知識を求めるのか

なーぜ人は手あかのついていない知識を求めるのでしょうか。
1つ考えられるのは、一発逆転的な思考かなと思います。
通説で言われていることを、「オレだけが見つけた最強の新説」で論破したい、あるいは自分の考えた思考を批判されたくない。
そういう自己愛的な万能感に酔い痴れていたいのかな、とも考えられます。

研究や学問に携われば、そんな万能感など一瞬で打ち砕かれ、自分はこの巨大なアカデミックの末席でおこぼれを啜っている生物なのだと思い知ります。
これまでの先人たちが心血注いだ研究成果を基に、どこまでいけるかわからないけど何とか仮説を立て、上手くいかずに断念し、何とか見つけたひと欠片が「新しい知識」なのです。
そして先述にもある通り、大抵自分が考えたことなど先人の誰かが考えていることでもあります。
そうやって、気付いたら自分の万能感はなくなり、地に足着いた思考だけが残るのです。

この一発逆転的な思考というのは、ある意味で陰謀論などとも親和性の高い思考です。
これまでの通説を、「我々だけが知っている知識」でひっくり返す。そこにはまだ誰もが知らない真実があると語り続けるこのジャンルは、手垢のついてない知識と非常に構造が似ています。
気持ちとして、誰もが見つけていないものを見つけたい、という欲は分かります。しかし、その手法は科学的に妥当なものでなければなりません。
けれど、この世の中はたいてい、誰もが本当に見つけていない、なんてことはほとんどないのです。
真実ってのは、たいていつまらんわけです。

そもそもこのアナロジーは正確なのか

この手の知識に関してよく使われる比喩に、「巨人の肩の上に乗る」があります。

使い古された言葉ではありますが、いまなお知識というものについて考えるときにはこれが一番しっくりくると思います。

そもそも、知識というのは巨人自体だけではなく、その肩の上から見えた景色でもあるのです。
その景色が見えたとき、さらに巨人は大きくなる。また新しい景色が見える。
そうやって少しずつ大きくなっていく巨人の方に何とか登り、新しい景色を探していくのです。
その登り方も吟味され、巨人自体が本当にでくの坊ではないか確かめながら、我々は登ってきたのです。
手垢のついてない知識というのは、この巨人の再構成と言えます。
再構成して、しかし出来上がったのがハガレンの主人公たちの母親みたいなことだってあり得るのです。当人には最高の成果かもしれませんが、他人からは出来損ないのことだってあります。
批判され耐えうる巨体が、やがて知識と呼ばれるのです。

知識というのはそれ単体だけでは意味がなく、多くの他者の視点、文脈の中でこそ光り輝くのです。
まだ生まれたばかりの手垢のない知識は、摩耗し、やがて巨人の一部となって、本当の価値を見出されます。
そういう意味では、やはり知識のアナロジーとしては「巨人の肩の上に立つ」に勝るものはないでしょう。

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