吉田神道
「神秘主義思想史」に書いた文書を転載します。
吉田兼倶が一代で創造した「元本宗源神道」は、「唯一神道」とも、「吉田神道」とも呼ばれます。
兼倶は、神本仏迹説の立場で伊勢神道の神観念を継承しつつも、教義面でも行法面でも、密教、道教、儒教、修験道、陰陽道から、様々なものを積極的に取り入れて、吉田神道をそれらを総合した高度に体系化された神道にしました。
兼倶は、思想の面だけでなく、政治力の点でも秀でていたため、吉田神道は、室町時代から江戸時代に至るまで、日本神道界の頂点に立つ家元の地位を保ち続けました。
日本宗教界の巨人を考えた場合、古代を代表するのが空海なら、中世は吉田兼倶でしょう。
ですが、その一方で、吉田神道の折衷主義的な点、特に真言宗を過度に取り入れている点が、後の国学者、復古神道家などから批判の対象にもなりました。
吉田兼倶の歩みと吉田神道の誕生
吉田家は、元は卜部氏であり、その元をたどれば中臣氏です。
ただ、吉田兼倶は、天児屋命→卜部氏→吉田家という系譜を主張しています。
卜部氏は朝廷の占い、祓いを担当してきた氏族です。
9Cに後半に、中納言の藤原山陰が、春日大社の分霊を受けて、一族の守護神として祀るために京都の吉田山に吉田神社を建てました。
そして、卜部兼延が神職としてこの吉田神社を預かりました。
その後、吉田神社は官幣二十二社となり、藤原氏の氏神として発展しました。
卜部氏は平野神社を預かった平野家と吉田神社を預かった吉田家に別れました。
平野家の方は、「釈日本紀」の著者の兼方などを輩出し、「日本紀」の研究で神本仏迹説による神道説を立てました。
一方の吉田家からは、「徒然草」の兼好や、伊勢神道の立場に立った天台僧の慈遍を輩出しました
ですが、吉田神社は、応仁の乱(1467-1477)の最中の1468年に、戦火にまみれて焼失してしまいました。
吉田家の当主だった兼倶(1435-1511)は、その本格的な再建を急ぎませんでしたが、この後、吉田神社を日本一の神社とするために、信じがたいような政治力・人間力を発揮していきます。
兼倶は、1470年頃までに、「神明三元五大伝神妙経」、「三元神道三妙加持経」、「三元五大伝神録」といった基本的な教義書を書き上げ、自身の神道説を確立し、同時に斎場も作って、吉田神道の基本を作り上げました。
兼倶は、吉田神道が天児屋命から伝えられた秘伝にして真実の神道であるとしました。(詳細は後述)
また、兼倶は、まず、八代将軍、足利義政の妻の日野富子から多額の援助を得ました。
1473年には、朝廷の要路に対して戦乱の終結を祈願することを願い出て、公的な資金援助を得ました。
そして、応仁の乱が終わると、吉田家の祭儀が応仁の乱を終わらせたと吹聴しました。
当時の神祇官の制度では、「神祇伯(神祇長官)」は白川家が世襲しており、兼倶はその下の「神祇権大副(神祇次官)」でした。
ですが、1476年頃、兼倶は、「神祇管領長上」を名乗り、これを事務職トップの「神祇伯」と対等な、技能職のトップとして位置づけました。
そして、1484年に、「大元宮」を建立しました。
この「大元宮」は、春日神を祀る宮ではなく、自宅にあった斎場所「日本最上神祇斎場」を移設したもので、兼倶はこれを、神武天皇が全国の神々を祀った神社の総本社であると主張しました。
「大元宮」は、八角の殿堂に六角の後房が付いた独特の形をしていて、中央に根源神の「大元尊神」=「国常立尊」を、その周りに天照大神以下の全国の八百万の神を祀りました。
驚くべきことに、兼倶は、後土御門天皇に「大元宮」を日本第一の霊場と認めさせ、全国の神々の分霊を希望者に分け与えることができると主張しました。
また、同時期に、吉田神道の体系的な教義を問答集としてまとめた「唯一神道名法要集」と、それに次いでその普及版の「神道大意」を著しました。
「唯一神道名法要集」は、吉田神社を最初に預かった卜部兼延に仮託して著されたもので、架空の「三部神経」の注釈書とされます。
応仁の乱の後の1486年、伊勢神宮では、内外両宮の争いから、外宮が放火され炎上したため、翌年、朝廷は吉田兼倶に外宮の御神体の安否を確認するように決定しました。
ですが、外宮はこれを拒否しました。
この事件があった後、伊勢の神様が愛想を尽かして各地へ飛び去った(飛神明)という噂が流布され、各地で伊勢神宮の分社が建てられ、「今神明」と呼ばれました。
1489年、兼倶は、伊勢の御神体が吉田神社に飛来したとして、またもやこれを、天皇に認めさせることに成功しました。
兼倶は、天皇から許しを得て、「宗源宣旨」という全国の神社に高い神格を示す称号や位階を授与する権利も得ました。
吉田神道が授与する「大明神」は、神仏習合で生まれた「権現」より上とされました。
また、兼倶は、神の怒りを鎮める「鎮礼」という護符や、神の祟られる理由はない判定する「神道裁許状」を授与しました。
吉田神道は、神道界最高の権威になっていましたので、神に関わる問題の解決法として、これらの護符や書状は、大きな人気を得ました。
さらには、道教の霊符を取り入れた「神祇道霊符印」も作りました。
また、吉田神道以前には、仏式の葬祭しかなく、神職は穢れを避けるため葬祭には参加できませんでした。
ですが、兼倶は、亡くなった人を神にして祀る神式の葬祭を創造しました。
豊臣秀吉も、吉田神道によって神として豊国神社で祀られました。
ちなみに、祇園社の祭神の牛頭天王をスサノオであるとしたのも、兼倶です。
このように、吉田神道は、兼倶一代にして、神道の頂点に立つ家元として絶大なる力を持ちました。
その後、江戸幕府も、「諸社禰宜神主法度」で、全国の神職の位階を授与できる権利を吉田家に与えました。
ただ、1698年に、伊勢外宮の出口延佳が、吉田兼倶を神敵と呼び、その偽造の数々を暴いて告発したため、吉田神道の権威に陰りがさしました。
それでも、吉田神道は明治維新まで神道の家元の座を守りました。
三教根本枝葉花実説と元本宗源神道
兼倶は、「唯一神道名法要集」で、「三教根本枝葉花実説」を主張しました。
これは、「日本は種子を生じ、震旦(中国)は枝葉を現し、天竺(インド)は花実を開く」、つまり、仏教・儒教・道教は神道から分かれたものに過ぎず、仏教の東漸は日本の根本を明らかにするために行われた、と主張するものです。
この日本中心主義的な説は、兼倶の独創ではなく、両部神道の書「鼻帰書」や、伊勢神道の立場に立った吉田家の慈遍、「国阿上人絵伝」などにあり、その影響を受けたものです。
兼倶は、また、神を仏の本体とする「本神仏迹説」を主張しています。
そして、日本にはかつて釈迦が出現していたとも書いています。
兼倶は、神道を3種類に分けます。
1 本迹縁起物語
2 両部習合神道
3 元本宗源神道
1、2は共に「本地垂迹説」に基づく神道です。
ですが、3の「元本宗源神道」が吉田家に伝わる神道であり、これは「本神仏迹説」の立場に立ちます。
「元本宗源神道」は、藤原(中臣)氏の祖である天児屋根命が説いた原初にして真実の神道であり、その直系である吉田家だけが秘伝としてそれを受け継いでいるのです。
その本質は、「一気未分の元神」を明らかにするもの、あるいは、伊勢神道の「神道五部書」の言葉を引いて、「陰陽不測の元元、一念未生の本本」を明らかにするものとします。
兼倶の神観念は、基本的に伊勢神道のそれ、つまり、無からの流出論かつ内在神的な神観念を継承しているのです。
「元本宗源神道」の名の、
「元」とは陰陽の測り難い元の元(宇宙の根源存在)を明らかにすること、「本」とは一念が生じる前の本の本(心の根源)を明らかにすること、「宗」とは一気が分かれる前の元神(根源神)を明らかにすること、
「源」とは神のその光度を落とした世界の中での働き(内在神)を明らかにすること、
であるとされます。
顕露教と隠幽教
兼倶は、「元本宗源神道」には顕密二教、つまり、「顕露教」と「隠幽教」があり、後者が上位の教えであるとします。
これは空海の密教の考え方を神道に当てはめたものです。
「顕露教」は、天地開闢から王臣の系譜までを明らかにするものであり、「外清浄」、つまり、心身の働きの中和を保つ事を説きます。
一方、「隠幽教」は、三才の霊応、三妙の加持、三種の霊宝を明らかにするものであり、「内清浄」、つまり、心神を静かにする事を説きます。
「顕露教」の主要経典は、「三部本書」、つまり、「日本書紀」、「古事記」、「先代旧事本紀」であるとされます。
また、兼倶が書いた書に、「日本書紀神代抄」、「中臣祓抄」、「中臣祓解」があります。
一方、「隠幽教」の主要経典は、「三部神経」、つまり、「天元神変神妙経」、「地元神通神妙経」、「人元神力神妙経」であるとされます。
ですが、「三部神経」は兼倶が創作した架空の書であり、実在しませんが、「唯一神道名法要集」が、その注釈問答書であるとされます。
それぞれを「三部」としてまとめているのは、台密の「大日経」、「金剛頂経」、「蘇悉地経」の三部の考えを取り入れたものでしょう。
「顕露教」の実践では、天神・地神・人鬼の三才の礼奠を行い、祭詞は延喜式の祝詞を唱えます。
一方、「隠幽教」の実践では、天地人の三元三妙の加持(詳細後述)を行い、祭詞は「無上霊宝神道加持」と唱えます。
これらは、密教の事相(行法・修法)をアレンジして創作された、「神道加持」、「神道護摩」、「神道灌頂」などです。
・顕露教:外清浄:三部本書:延喜式の祝詞 :斎庭
・隠幽教:内清浄:三部神経:無上霊宝神道加持:斎場
「顕露教」の斎場は「斎庭」と呼ばれ、「主基殿」と「悠紀殿」があります。
一方、「隠幽教」の斎場は「斎場」と呼ばれ、「主基殿」と「悠紀殿」には、「諸源壇」と「万宗壇」があります。
この両壇には下記のような性質・対応があります。
・万宗壇:悠紀殿:金剛界:陰:天神:伊勢外宮
・諸源壇:主基殿:胎蔵界:陽:地神:伊勢内宮
「万宗壇」には、「天潜尾命」以下全32神が、「諸源壇」には、「天香鼻山命」以下全32神が配されます。
前者は、空海に仮託して書かれた両部神道の書である「麗気記」に記された、豊受皇大神の降臨供奉の神、後者は、同じく、天照皇大神の降臨供奉の神です。
後者は、もともとは「旧事紀」に記された神です。
後者には、「金剛鈎菩薩」以下、真言宗に由来する金剛菩薩などの尊格が対応させられています。
三元三妙三行
兼倶は、神と世界を、体・様・相の3つの観点から、「三元三妙三行」として整理しました。
まず、体として、天地人の「三元」があります。
天と地があり、人間がいるということです。
そして、天地人に、その働き(様)の「三妙」、形姿の(相)の「三行」があるのです。
用の「三妙」は、天妙・地妙・人妙ですが、「三部妙壇」、「三才九部」などとも呼ばれ、それぞれが神変/神通/神力の「三部」を持ちます。
「天妙」の神変/神通/神力は、日月/寒暖/風雨などです。
そして、「地妙」の神変/神通/神力は、草木/山沢/山河などがこれに当たります。
また、「人妙」の神変/神通/神力は、拝/読/観などがこれに当たります。
相の「三行」は、天行・地行・人行で、これらはそれぞれが五行に対応した神々に当たります。
「天行」は、五行の元気神で、火の国狭槌尊、水の豊斟渟尊などです。
「地行」は、五行の太祖神で、金の金山彦命、土の埴安命などです。
「人行」は、五行の五大輪神で、火の天合魂命、水の天三降魂命などです。
最後の五大輪神は、「旧事本紀」だけに現れる神です。
また、兼倶は、神を以下のように3種に分類しています。
・元神:日月辰の神
・託神:草木等の類
・鬼神:人心の動作に従って動くもの
8段階の位階
吉田神道では、密位授与が八段階で構成されます。
つまり、実践者の能力に応じて密位の授与と共に、その段階に応じた秘伝(知識と実践法)が伝授されました。
最初の4位は、顕隠の両方にあります。
・初重相伝分:浅略の位
・二重伝授分:深秘の位
・三重面授分:秘中の深秘の位
・四重口決分:秘秘中の深秘の位
三重面授分には、例えば、顕露教には「天供太祓」などが、隠幽教には「護身神法」などがあります。
また、四重口決分には、例えば、顕露教には「神拝作法・六根清浄太神宣」などが、隠幽教には「三壇行事」などがあります。
次の4位は、隠幽教のみにあります。
・初分位影像相承
・二分位光気相承
・三分位向上相承
・四分位底下相承
こういった四重の構造は、やはり真言宗から取り入れたものでしょう。
吉田神道の行法:十八神道、三壇行事、祓
吉田神道の行法に「十八神道」があります。
これは、行法の次第の18の構成部分とも言えますが、真言宗の仏の供養の「十八道」を意識して作られたものでしょう。
天地人のそれぞれに各六神道があるとします。
吉田神道の主要な行法は、「三壇行事」と呼ばれ、「三元十八神道行事」、「宗源神道行事」、「唯神道大護摩行事」の三つで、それぞれの次第書があります。
「三壇行事」は四重口決分の秘伝に当たります。
これらの次第は類似していますが、後者ほど、複雑になります。
「三元十八神道行事」の次第は、「鳥居作法」、「打鳴」、「護身神法」などに始まり、様々な「加持」、そして、天御中主尊から三法荒神に至るまでの「招請」・「勧請」、「神像供養」、「勧請祭文」、「中臣祓」、「結願」・「発遣」などで構成されます。
「加持」には、「三種加持(无上霊宝加持、神道加持、三元三行三妙加持)」、「六根清浄加持」、「太元一気元水加持」、「天地人神三元加持」などがあります。
「三元十八神道行事」、「宗源神道行事」の壇は中央に「太元器」と呼ばれるものを置きます。
ですが、「唯神道大護摩行事」は炉を中心に置く八角形の壇です。
そして、炉で火を焚き、その中に穀物などを投入して祈祷します。
八大龍王や、大弁才天、大黒天、辰狐大王大菩薩などの印相を行う部分もあります。
吉田神道が重視した祓いに、「六根清浄大祓」があります。
これは、兼倶が作成した神仏習合した祓いで、六根を清浄にして、神への祈願を成就させるためのものです。
仏教の六根清浄思想と、伊勢神道の祓い、修験道、五行思想などの影響を受けています。
他にも、「三科祓」があります。
これは上・中・下の3種があり、「中臣祓」を元に、世俗的な日常生活上の降伏を祈願する詞をその間に挿入して構成されています。
言霊論
兼倶は、「高天原」という言葉が、「神明の直語」であり、「一気発動の初言」であると言います。
そして、この「高天原(タカ・アマ・ハラ)」の三字が47言(50音)の種子であると。
これは、密教や空海の種子的言語観、阿字観を神道に取り入れようとしているのでしょう。
ですが、ここには、後の古神道の言霊論につながる霊的言語観、霊的音韻論の芽生えがあります。