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「葬送のフリーレン」のテーマの考察・解釈

以前に、アニメ「葬送のフリーレン」の解釈に関する投稿をしましたが、結構、荒い議論だったので、再考した文章をアップします。

ちなみに、今回、私はコミックの13巻まで読みました。
本稿は、アニメを見終わっている人を対象にしていますが、一部、アニメ以降のネタを含んでいますので、その部分ではあらかじめ注意書きを入れます。




魔王討伐の4つの意味


「葬送のフリーレン」の物語は、勇者一行の「魔王討伐」が終わり、帰還するところから始まります。
「魔王討伐」後の物語なのです。

そして、その旅路を辿り直すフリーレンにとっては、「魔王討伐」の旅が何だったのか、何であるのかを理解する旅になります。
そして、少なくとも彼女にとっては、「魔王討伐」はまだ終わっていないのだと思います。


この物語は、「魔王討伐」の意味について、いくつかの視点を語ります。

最初に、勇者一行が歓迎を受けるので、これが、「社会的名声」を得るもの、「社会的大義」だった、というのが第一の意味です。


ですが、社会的名声は、時間とともに忘れされるものです。
人間より長寿のドワーフや、さらに長寿のエルフが登場する理由は、このことをテーマにするためです。

ドワーフのフォル爺は、かつて勇者ヒンメルに、その偉業の記憶を「未来に連れて行ってやろう」と言いました。
ですが、その後、より歳をとった時には、自分の記憶が薄れることを体験し、その限界を思い知ります。

さらに長寿のエルフのクラフトは、偉業を成し遂げた者ですが、彼のことを知る者は誰もいなくなっています。
そのため、彼は、自分の名声を引き伸ばすことにまったく興味を失い、女神様にほめてもらうことだけを考えて生きるようになりました。

つまり、社会的価値ではなく、「絶対的価値」、「宗教的価値」を求めます。
これが、第二の視点です。

これは、勇者一行の僧侶だったハイターも同様です。
彼にとっても「魔王討伐」を成し遂げることは、天国に行けるという意味を持つものでした。


ですが、ヒンメルにとっては、「魔王討伐」の意味は、そのどちらでもありません。

彼は、「楽しく冒険して…気がついたら世界を救っていたようなそんな旅がしたいんだ」と語っています。
彼にとっては、くだらなくて楽しい旅をし、眼の前の小さな人助けをする旅の結果なのです。

世界の危機を救うという大義をなす者のみが抜けるという「勇者の剣」を、ヒンメルが抜けなかったのは、これが理由でしょう。
だから、彼は、剣を抜けなかったことを気にしません。

また、ヒンメルは、天国の存在の有無についても、どちらでもいいと考えていました。

つまり、ヒンメルは、今を生きることを重視し、「魔王討伐」はその結果なのです。
これが第三の視点です。


では、主人公のフリーレンにとってはどうでしょう?

彼女の口から、その意味や、モチベーションは語られていないと思います。
ですが、「人に関心を持たない」フリーレンにとって、「魔王討伐」は「社会的大義」ではなかったと思います。
また、女神様も信じていないので、「宗教的価値」も求めていません。

フリーレンは、かつて、魔族に自分の村ごと全滅させられて、村で一番強い魔法使いとして責任を感じ、自殺するつもりでした。
彼女は、「魔族にすべてを奪われた」と言っています。
ですが、フランメに強引に助けられ、魔王を倒すための魔法の教育を受けました。

ですから、彼女にとって「魔王討伐」は、「復讐」という私怨が目的だったのでしょう。
それに、フランメに期待され、ヒンメルに頼まれたから、という受動的な理由もあったのかもしれません。


・社会的名声:人々、(フォル爺)
・宗教的価値:ハイター、クラフト
・今を生きることの結果:ヒンメル
・復讐?:フリーレン


人の心を知る旅


「葬送のフリーレン」の物語は、フリーレンが、ヒンメルの死に際して、彼のことをほとんど何も知らないことに気づいて号泣し、彼を知ろうとしなかったことを悔いることで始まります。
そして、「人間をもっと知ろうと思う」ようになります。

この物語の直接的な中心テーマは、「人への関心」を持たなかったフリーレンが、「人の心を知る」ことです。
そして、人とのつながりを持つこと、人と体験をともにする楽しみを知ること、他人への配慮や利他心を獲得することです。
これは物語で、ほぼ、直接的に語られていることです。

フリーレンが人間に関心を持たないのは、人間がすぐに死んでしまうから、と本人が語っています。
ですが、これは、自分に対する欺瞞ではないかと思います。
ウソではないにしても、本質的な理由ではありません。

なぜなら、同じエルフであるゼーリエもクラフトも、人間に関心を持っているからです。

それに、フリーレンは他人の心が分からない人物として描かれていて、彼女が関心を持てないのは、人間だけではなく、ドワーフ、エルフを含めた他人でしょう。
ちなみに、この物語の中では、エルフ、ドワーフを含めて「人類」という言葉が使われています。

本当の理由は、魔族に親族や仲間を全滅させられたショックの後遺症で、人との付き合いができなくなったのでしょう。

人間が短命だからという理由の本当に意味は、短命だから付き合う意味がないということではなく、死別することがいやなのです。
それから逃れるために、人間にも、人間との死別にも興味がないフリをして、心の傷から逃げていたのです。

その傍証になる逸話がアニメ以降にも語られます。

==以下ネタバレ部分==

フリーレンは、フランメとの思い出をあまり思い出そうとしていませんでした。
これは、死別のショックからでしょう。

これに対して、ヒンメルは、フランメとの時間は楽しかったのだから、思い出しても良いのだと、フリーレンに語り、彼女の心を開放しました。

==以上ネタバレ部分終わり==


ですが、「魔王討伐」を成し遂げても、「人に関心を持てない」という後遺症は治りません。
だから、フリーレンの「人の心を知る旅」が始まるのです。

「魔族」は、人間的な感情を持たない者として描かれています。
そして、フリーレンにとって、「魔族」とは、人とのつながりを断たれた原因です。
であれば、彼女にとっての「魔王(魔族)討伐」とは、人の心を理解し、人とのつながりを持つことを象徴します。

だから、彼女にとっての「魔王(魔族)討伐」は、まだ、終わっていないのです。


ヒンメルならそうした


ヒンメルは利他的な人物であり、フリーレンに他人との関係を促した人物でもあります。

そのため、「ヒンメルならそうした」とフリーレンが何度も口にするように、フリーレンにとってヒンメルは、彼女を導く存在であり、目標像となります。


ヒンメルは、フリーレンを愛していましたが、フリーレンが人間に関心がないことを知っていたからか、それを隠していました。
どうして、ヒンメルがフリーレンを愛していたという設定にしたのでしょう?

「人への関心」の中で最大のものが「愛」です。

「人の心を知る」ことができるようになったフリーレンが、ヒンメルの愛に気づく、というのが物語の結末だからかもしれません。


フリーレンは、ヒンメルと似た性質を持っています。

ゼーリエやフランメが、「魔王討伐」のための道具として魔法を学ぶのに対して、フリーレンは、趣味として、楽しみとして魔法を学びます。
くだらない魔法でも構わないのです。

これは、ヒンメルの冒険に対する態度と似ています。
目的のために生きるよりも、今を、行為そのものを楽しんで生きるのです。

このように、二人が本来、同じような性質を持っているから、というのもヒンメルがフリーレンを愛した理由でしょう。

であれば、ヒンメルがフリーレンを愛することは、フリーレンの目指すものが、フリーレンの内側にあることを表現しているのでしょう。


平和の時代の魔法使い


フランメが、自分の弟子のフリーレンをゼーリエに紹介した時、自分やゼーリエのような、戦いを追い求める者には、魔王は殺せないと言いました。
「平和の時代」を切り開く、つまり、「魔王討伐」を成し遂げるのは、フリーレンのような「平和な時代の魔法使い」だと。

フランメの言葉は、フリーレンが魔法を戦う道具としてではなく、趣味として楽しんで学んでいることを指しています。
先に書いたように、これはヒンメル同様の、何かのためではなく、今を楽しむ生き方です。

フリーレンが、フェルンに最初に聞いたのも、「魔法は好き?」、という質問でした。

であれば、フランメの言葉は、意味深長です。

「魔王討伐」の本当の意味、その象徴的意味は、この、何らかの外的な価値のために生きるという束縛から開放されること、それによって、今を楽しむ生き方に至ることだ、ということに示しているのではないでしょうか。

「魔王討伐」を成し遂げた中心人物が、ヒンメルであるのは、そのためです。


魔族/魔物


「魔物」や「竜」と、「魔族」や「魔王」とは、それらが象徴するものに違いがあります。
「魔物」や「竜」には人格的要素がないのに対して、「魔族」や「魔王」にはあるからです。


一般に、「魔物」や「竜」は、制御されていない感情や欲望、無意識の力の象徴です。
ですから、「ドラゴン退治」は、それを理解する知恵と、制御する力の獲得を象徴します。

「葬送のフリーレン」の物語の中の「魔物」は、人を眠らせたり、石にしたりする魔法を使いますが、それらは原理が分からず、「呪い」と呼ばれます。

人格を持たない「魔物」は、無意識的な存在であり、その魔法(呪い)も同様です。

無意識的なものだから、原理が分からないのです。

そして、「眠る」ことも、「石になる」ことも、意識を失うことであり、無意識的な魔物の魔法(呪い)の効果として相応しいものでしょう。


一方、人格を持つ「魔族」や「魔王」は、意識的な存在なので、社会的なもの、言語的なものをともない、その否定面を象徴するのではないでしょうか。
「本当の魔王討伐」はその克服を象徴します。


具体的な例をあげましょう。

例えば、まず、「魔族」の特徴にウソをつく、というのがあります。
これは、「言葉」の否定面です。

「魔族」は、「言葉」を、人間を騙して殺すという目的のために使います。
これは目標達成的な、合理的な思考なので、その否定面とも言えます。


また、「魔族」は、魔力量を誇り、その大きさによって上下関係を決めて服従関係を作ります。

断頭台のアウラは、「魔王討伐」後に残っていた2人の七崩賢の一人です。
彼女は、魔力量の判定によって相手を服従させる魔法を使います。
そして、人間の首を落として(魂を抜いて)、人形にように操ります。

アウラの魔法は、社会的な上下関係によって人間を服従させる権威主義の象徴です。
社会的な権威主義が、人の魂が象徴する心の自由や創造性を破壊するのです。

フリーレンに魔力量で負けたアウラは、逆に、「自害しろ」というフリーレンの「言葉」で操られて殺されます。
「言葉」は人を操るものでもあります。

==以下ネタバレ部分==

アニメではまだ登場していませんが、最後の七崩賢で、最強の「魔族」である黄金のマハトは、人間を含めてすべてを「黄金」に変える魔法を使います。
ただし、本当の「黄金」ではなく、人が加工して使うことができないニセの「黄金」とされます。

「黄金」は、社会的に価値があるけれど、生命のないものです。
マハトの「黄金」は、社会的価値や社会的成功には、心の自由や創造性を失わせるという否定面があることを象徴しています。

より具体的には、マハトの「黄金」は、「貨幣」や「拝金主義」の象徴でしょう。

「魔族」は悪意や罪悪感を持たないのですが、マハトは、これらの人間の感情を理解するために、人間社会の中に住み、人間に親しくすると同時に、人間を殺し続けます。
そして、マハトの魔法は、魔力を放たず、女神様の魔法でも解除できません。

このことは、貨幣が、人間の生活に侵入し、当たり前のように存在する(魔力を放たない)ものであること、そして、それが人を束縛し、生命を奪う(人を殺す)ものであることを象徴します。
また、それらは決して無意識的なものではなく、数的、意識的なものなので、女神様の魔法で解除できないのです。

黄金にされたデンケンが、夢の中で「俺はこんなもののために、金のために頑張ってきたわけじゃない(はずだったのに)…俺はマハトに負けた」と語っている部分があります。
この言葉は、マハトが通貨や拝金主義を象徴していることを、言葉で暗示しています。

==ネタバレ部分終わり


このように、「魔王討伐」後にも生き残っていた2人の七崩賢の「魔族」の性質は、社会的なものの否定面の象徴です。

そして、それは、人の魂や生命に象徴される創造性や自由を破壊するものです。
「魔族」が人間的な感情を持たないのは、その結果の象徴です。

であれば、本当の「魔王討伐」は、それを克服することであるはずで。


女神様の魔法・花畑を出す魔法・蒼月草


「魔王」の対極として、「天地創造の女神」が登場します。
女神はその名の通り、「創造性」の象徴でしょう。

そして、主に僧侶が使う「女神様の魔法」があり、女神様への信仰があります。
治癒魔法は、これに当たります。

魔族と魔物の違いに対応して、2つの魔法が語られます。

魔法使いが使う通常の魔法は、その原理を理解し、技術を磨くことで、習得されます。
つまり、意識的、合理的な「知恵」によって獲得されます。

ですが、「女神様の魔法」は、原理が分からない魔法であり、資質で使うものです。
ですから、主に僧侶が使います。
これは、「知恵」ではなく、無意識的な「心」によって使うものなのでしょう。

・意識的 :魔族:原理の分かる魔法  :一般の魔法 :魔法使い
・無意識的:魔物:原理の分からない呪い:女神様の魔法:僧侶

魔物がかける「呪い」は、魔法使いには解けず、僧侶が使う「女神様の魔法」によって解くことができます。

ひょっとしたら、「魔王討伐」と「女神様の魔法」は、深く関係しているのかもしれません。


フランメが好きな「花畑を出す魔法」は、「女神様の魔法」ではありませんが、「創造」に関わる魔法です。

フランメは、「魔王討伐」のために魔法を学びましたが、心の中では「創造」の方を好んでいたのでしょう。

フランメは、彼女が「平和の時代の魔法使い」と呼んだフリーレンに、この魔法を教え、フリーレンはフェルンに伝えました。
ゼーリエも、自分の周りにこの魔法の花畑を作っているので、弟子フランメを愛していたのでしょう。

そして、この魔法は、幼少のヒンメルが森で迷った時に、フリーレンが見せ、ヒンメルがフリーレンを好きになるきっかけにもなりました。


そのヒンメルは、蒼月草をフリーレンに見せてやりたいと言っていました。
この花は、ヒンメルの故郷に咲いていたが、今は失われたと思われていた花です。

つまり、蒼月草は、心の内側にだけあるものの象徴であり、「人の心を知ること」、そして、本当の「魔王討伐」の象徴でもあるのでしょう。

フリーレンが蒼月草を探し出したのは、それが象徴するものを目標として見出したことを表現しています。


未来に連れていくこと/女神様にほめてもらうこと


先に簡単にも少し書きましたが、フォル爺とクラフトに関して、もう少し考えてみましょう。


アニメ16話では、フリーレンの回想シーンで、人間より長寿のドワーフのフォル爺が、ヒンメルの記憶(名声)を「未来に連れて行ってやろう」と言いました。
ヒンメルは、自分の一行のフリーレンがいるので、彼女が記憶を「未来に連れて行ってくれる」と答えました。
フリーレンの返答は、「別にいいけど」でした。

ですが、年老いたフォル爺は、記憶力がなくなっていくことを経験します。
そして、いずれフリーレンも、ヒンメルの顔や声を忘れるだろうと言います。

フォル爺は、かつては、名声の延長に価値を見出していたのですが、今はもう、それを諦めています。

一方、より長寿のフリーレンは、フォル爺の記憶も未来に連れていってあげると答えました。

フリーレンは、名声の延長に価値を見出しているようですが、ヒンメルに対する返事にはほとんど意味はなく、フォル爺に対する言葉は思いやりで、自分の名声に興味があるわけではありません。

ヒンメルも名声の延長に価値を置いているように語っていましたが、これはフォル爺の言葉を受けたもので、本気ではなかったのではないでしょうか。

なぜなら、ヒンメルが自分の銅像作りにこだわった理由は、自意識による名声の延長ではなかったからです。
自分たち勇者一行の仲間が亡くなって、フリーレンが一人になっても、かつてを思い出し、淋しく思わないためでした。


アニメ11話では、エルフのクラフトが、フリーレンの名声も、いずれは忘れ去られると語りました。

クラフトは、女神様を信じていて、女神様にほめられることを目指しています。
ですが、フリーレンは、女神様を信じておらず、それは願望にすぎないと言い返します。
するとクラフトは、女神様の代わりにほめてあげようと言いました。

フリーレンは、かつて、僧侶のハイターにも、同じように言われたことを思い出しました。

クラフトとハイターには、名声の延長ではなく、その超越、宗教的価値を求め、信じています。


魂の眠る地/魔王城


フリーレンの旅の目的地である「魂の眠る地オレオール」は、ヒンメルの魂と会話できるとされる地です。
ヒンメルはフリーレンの目標像なので、そこにたどり着くことは、フリーレンの目標である「人の心を知る」ことの達成を示します。

同時に、オレオールのあるエンデは、魔王城がある場所でもあります。

これは、当然でしょう。
オレオールにたどり着くことは、本当の「魔王討伐」を成し遂げることだからです。

オレオールは、天国とも呼ばれるので、女神様がほめてくれる場所でもあるのでしょう。

はたして、物語の最後は、どうなるのでしょう。

魔王は復活するでしょうか?
フリーレンは、ヒンメルと語ることができ、ヒンメルは女神様にほめてもらえたと語るでしょうか?
フリーレンは、女神様を信じることになるのでしょうか?


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