白隠の公案禅の階梯
「仏教の瞑想法と修行体系」に書いた文章を転載します。
白隠と公案の体系
日本臨済宗中興の祖と言われる白隠慧鶴(1686-1768)は、公案などの瞑想・修行法を階梯的に体系化しました。
禅においては、このような高度に組織化された体系は他には存在しません。
彼は、初めての悟りの後の修行(悟後の修行)を重視しました。
そして、それを示し、教育するために階梯的な体系化を行いました。
その影響は多大で、日本のほとんどの臨済宗・黄檗宗の諸派は、白隠の公案体系を取り入れているようです。
白隠の階梯は次の8段階から構成されます。
「法身」、「機関」、「言栓」、「難透」、「向上」、「洞上五位」、「十重禁戒」、「後の牢関」です。
白隠以前から、「理致」、「機関」、「向上」という3段階の公案の分類はありました。
白隠はこれを受け継ぎながら、さらに詳細に分類し、新たなものを付け加えたのです。
一般に、「公案」は、瞑想修行の際に師から出される課題です。
このように課題を持って行う瞑想法、修行法を「公案禅」とか「看話禅」、「話頭禅」と呼びます。
「公案禅」は中国の宋時代の、五祖法演から圜悟、大慧の三代によって始められました。
「公案」は、有名な禅僧達が悟りに至ったきっかけとなった問答を、手本としたものです。
一般に、日本の臨済宗では、本格的に禅の修業を始める(参禅)と、半年か1年で、師に「相見」します。
師とは、師の師から仏法を体得したとして「印可証明」を得た僧のことです。
「相見」すると、師から課題として公案を出されます。
公案を課題として瞑想を行い、正しい「見解」を得たと思ったら、それを確かめるために、一人で師の部屋に入り(独参)、師に判定してもらいます。
修行者は、公案に対する自分の「見解」を、言葉や行為によって示します。
師は、修行者が正しい見解を得て、それが身についているかを確かめるために、その場でいくつか、関連した問いを出す場合もあります。
このことを「拶処」と呼びます。
「見解」が不十分だと思ったら、師は、鈴を振ります。
鈴を振られたら、すぐに退出しなければいけません。
正しい「見解」に達しているとされた場合は、次の公案が出されます。
公案の見解を示すと言っても、教学的な説明は答えになりません。
公案は具体的な例題のようなもので、公案の意味を理解していることを、公案に沿った具体的な言葉や行為で示すのです。
しかし、公案の論理的な枠組みに捕らわれてはいけません。
ですから、公案には一つの正しい答えがあるわけではありませんし、師も答えは言いません。
また、公案の見解を、「著語」といって、中国の古人の句で表現する訓練も必要となります。
同様に、「世語」といって、和歌・都都逸で表現することも訓練します。
あるいは、「書分け」といって、公案の意味を、日本語で解説することも行います。
また、「拈弄」といって、公案を自由に批判して見解を示すことも行います。
禅宗ではアビダルマ以来の伝統的な教学によって考えないのですが、本稿では、なるだけ伝統的な教学を使って解釈し、また、中国禅の歴史も参照しながら、以下に白隠の階梯について概説しましょう。
階梯の基本的な意味や公案の例については秋月龍珉の「公案」などを参考にしています。
法身
最初の段階である「法身」は「初関」とも表現されます。
簡単に言うと、概念をなくして、直観的な智慧を得ることが目標です。
一般に、この段階をクリアするのに、数年かかります。
この体験は、「止」による対象と一体化した三昧(第四禅)の状態になる段階と、その状態に対する自覚の段階の2段階で構成されます。
禅では、この第一段階を「打成一片」、第二段階を「驀然打発」と表現します。
一般に、「三昧」に入るには、「数息観」、「随息観」を行います。
第一段階の対象は、「公案禅」では公案です。
中でも、公安の中の一つの語が対象となることが多いようです。
この語を「活句」と言います。
「活句」は多くの場合は、空(禅宗では「無」)の象徴となる語です。
これに一体化しながら、その概念をなくします。
第二段階では、対象ではなく、対象を認識している自分の心の本性を認識します。
これを「見性」と表現されます。
禅では心を、何でも映しながらもそれに限定されないという意味で、「鏡」で象徴することが多いようです。
「法身」の段階は、概念をなくして鏡そのものになることを重視した神秀らの「北宋禅」や、外界を映しながらもそれに限定されない鏡(見性、自然智)を重視した荷沢宗の神会の「如来禅」と、関係が深い段階だと思います。
この段階は、伝統的な修行道論で言えば、最初に「無常」、「空」を直接認識する「見道」に入った段階でしょう。
具体的には、「趙州無字」、「隻手音声」、「不思善悪」、「庭前柏樹」などの公案がこの段階の公案とされます。
「法身」の段階は、「般若位」とも呼ばれることもあります。
後の階梯でも言えることですが、ある公案の本来の意味がその階梯に属するものではないとしても、その階梯の課題として使うことは可能です。
ですから、ある公案を、複数の階梯で公案として使うことも可能です。
機関
「機関」は「無」の認識を日常生活の中で働かせる「悟後」の修行の段階です。
坐禅瞑想中に無概念の悟りを得たとしても、立ち上がったとたん、それを忘れては意味がありません。
日常の中で、生活しながらも、こだわりをなくすことが必要です。
天台の「三観」で表現すれば、「法身」は「空」、この「機関」と次の「言栓」は「中」でしょう。
般若学の表現で言えば、「等引智」と「後得智」、華厳宗の表現で言えば、「理法界」と「理事無碍法界」でしょう。
一般に、「法身」の悟りは、一瞬で到達する「頓悟」とされますが、それを日常の中で身につけるには、時間がかかる「漸悟」とされます。
「機関」の段階は、鏡に映った像が働くこと(作用)を重視した、馬祖や臨済の洪州宗の「祖師禅」と関連の深い段階です。
具体的には、「水上行話」、「南泉斬猫」、「趙州洗鉢」、「石鞏捻鼻」などの公案がこの段階の公案とされます。
「機関」の段階は、「禅定位」と呼ばれることもあります。
言栓
「法身」の悟りは言葉を越えていて表現できないものですが、それを言葉で自由自在に表現できるようにするのが「言栓」の段階です。
説法のために必要なので、利他的な目的、菩薩道のための修行です。
具体的には、「州勘庵主」、「雲門屎橛」、「洞山三斤」、「日日是好日」などの公案がこの段階の公案とされます。
「言栓」の段階は、「精進位」と呼ばれることもあります。
難透
「難透」は、到達し難い境涯と表現される段階です。
具体的にどのようなものとは表現されないのですが、日常で意識せず自然に執着なく行動できるようにする(無心の妙用)段階でしょう。
この段階は、「向上」と不可分なのではないかと思います。
具体的には、「牛過窓櫺」、「倩女離魂」、「婆子焼庵」など八難透と呼ばれる公案などがこの段階の公案とされます。
「難透」と次の「向上」の段階は、「忍辱位」と呼ばれることもあります。
向上
「向上」は、「悟臭・禅臭を抜く」とも表現されますが、悟りや仏に捕らわれないようにする段階です。
「向上」には2段階を考えることができます。
「仏向上」あるいは「法身向上」と呼ばれる段階と、「自己向上」と呼ばれる段階です。
「仏向上」は「仏」や「法身」にこだわらないということで、それらを日常と断絶したものとして観念化してしまわないようにする段階です。
この段階は、「機関」や「言栓」とも不可分で、洪州宗の「祖師禅」と関連が深いと思います。
「自己向上」は、「仏」へのこだわりをなくすあまり、逆に日常にこだわってしまい、ただの凡夫と同じようになってしまわないようにする段階です。
この段階は、洪州宗の行き過ぎを批判した、石頭宗の洞山らの禅と関連が深いと思います。
またさらに、石頭宗の行き過ぎを乗り越えて、洪州宗寄りになった石頭宗の雲門のように、「向上」というのは常に自己否定を続けることが必要とされます。
具体的には、「白雲未在」、「徳山托鉢」、「暮雲之頌」などの公案がこの段階の公案とされます。
以上のように、禅の「向上」において、作用(日常の行動・感覚)と性(限定されない心)の両極を避けることが永遠のテーマとなるのは、ゾクチェンで煩悩性の現れが自己解脱して清浄なものになるというような、悟る前の日常の行動と、悟った後の日常の行動の差異の論理がないからではないでしょうか。
洞上五位
「洞上五位」は、公案を階梯的に整理して自由に使えるようにする修行です。
「洞上五位」と次の「十重禁戒」は「持戒位」と呼ばれることもあります。
十重禁戒
「十重禁戒」は、戒律を禅の観点から研究する修行です。
末後の牢関
「末後の牢関」は、特定の公案があるわけではなく、修行者に宗旨の最後を尽くさせるという意味のものです。
「末後の牢関」のさらに後に、「最後の一訣」を置く場合もあります。
具体的には、「臨済一句白状底」、「白雲未在」、「百丈野鴨子」などの公案がこの段階の公案として使われることがあるようです。
「末後の牢関」は、「布施位」と呼ばれることもあります。
・具体的に公案については、
・白隠の人生や思想については、
無字の公案については、
を参照ください。
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