狩猟文化と農耕文化の思想の違い
「シャーマンと伝統文化の智恵の道」に書いた文章を転載します。
伝統的な狩猟文化は、あるがままの自然の創造性を尊重し、その恩恵を正しく受容しようとする思想を持っています。
あるがままの自然とは、自然(冥界)の贈物としての食料となる動物です。
これは、心の内側においては、潜在意識(冥界)から現れる心の動きの受容として現れます。
この思想は、高等シャーマニズムや、タオイズム、ゾクチェンなどの東洋思想、フォーカシングやプロセス指向心理学のような現代心理学にまで受け継がれています。
これらは、意識に現れるあるがままの心の動きを自覚して受容し、それが引き起こす変化を「なるがまま」に展開します。
一方の、農耕文化は、自然の存在を管理することを重視する思想を持っています。
自然の管理とは、山林を切り開いて作った田畑を管理することです。
これは、心の内側においては、無意識を含めた心の動きの、言葉や合理による管理として現れます
この思想は、主要な宗教、哲学、科学、精神分析学などに受け継がれています。
これらは、欲望を制限、抑圧し、雑念を払い、意識的な自我の管理を重視します。
一つの文化の中で、その生産形態、宗教形態、心理の形態は、類似します。
それらの形態を関連づけながら、狩猟文化と農耕文化を対比して、その本質を抽象的に捉えてみましょう。
狩りの倫理
伝統的な狩猟文化では、自然の創造性の象徴とでもいうべき「動物の女主」が、獲物となる動物を贈ってきます。
ですが、人間が正しい生活、特に正しい狩り、食事、葬送のタブーを守り、動物を満足させないと、「動物の女主」は動物を送ってくれなくなると考えます。
多くの部族では、本来、狩りは、彼らが対等と思う立場で行うべきもので、強すぎる武器を使ってはいけないと考えていました。
ある部族では、狩人は、狩りの成功を夢で見てから、見た夢に従って行います。
これは占い的な意味ではなくて、狩りは利己的な判断で行うべきものではないという考え方があるのでしょう。
ある部族では、獲物を狩る前後に、動物になり切ってダンスをし、その獲物の生涯を、生を賛美し、その動物の生を拡張するような意味を持つ儀礼を行います。
つまり、動物という自然の存在を尊重することが、狩りの前提なのです。
このように、狩猟文化では、自然を尊重し、人間中心では考えません。
これは、無意識を尊重し、意識や自我を中心に考えないことにつながります。
農耕の論理
狩猟文化では、山林を切り開いたり、大地を耕したりすることは、地母神を傷つけることであり、決して許されない行為です。
それに対して、農業文化は、森を切り開くという自然破壊から始まります。
原初において女神(自然の創造性)を殺害することで穀物が生またとする神話が世界で広く伝えられていますが、こういった神話には、農業が自然破壊から始まることが反映しています。
狩猟文化では、創造を行う(動物を生み育てる)のは、あの世の「動物の女主」です。
ですが、農耕文化では、創造を行う(穀物を生み育てる)のは、この世の人間であり、里にある田畑です。
もちろん、太陽や水などの自然の力は必要ですが、田畑は、様々な植物、動物、昆虫を追い出して作られ、特定の穀物や野菜を育てるように人の手で管理します。
このように、農耕文化では、人工的な作業によって自然を管理、排除することが重視されます。
これは、意識や自我が、無意識を管理、排除する考えにつながります。
動物の狩りと潜在意識の気付き
ネイティブ・アメリカンのシャーマニズム(高等シャーマニズム)では、「狩り」が、目指すべき心のあり方を象徴として使われます。
狩りを行う時には、合理的な推論によって動物を探して近づくとしても、最終的に動物に出会って狩るためには、合理的な意識を手放して、自然の中に、直観の中に溶け込まなければ成功しません。
また、狩りの場(山中)では日常的な言葉を話さないなど、日常的なものを持ち込まないタブーがあります。
つまり、狩人は、里から森の中に入る時、意識から無意識の領域へと入っていくのです。
動物が森の中から現れることは、無意識的な心の動きが現れることと似ています。
ですから、シャーマンの伝統では、意識と無意識の間に現れる心の微妙な動きに気づいて、それを受け止めることを、象徴的に「狩り」と表現するのです。
例えば、プロセス指向心理学では、心に一瞬だけよぎるものを「フラート」、フォーカシング指向心理療法では、漠然とした感覚を「フェルトセンス」と呼びます。
これらに気づいてそれを展開することは、シャーマンの伝統が言う「狩り」と似ています。
狩猟文化では、「森」の中から現れる「動物」は、人間のために「冥界」にいる「動物の女主」が送ってくれる存在です。
これと同様に、「無意識と意識の境界」から現れる「心の要素」は、人間の心の成長のために、「無意識」の「大きな自己(ハイヤーセルフ)」が送ってくれるものだと考えられます。
そして、日常的な言葉や合理的な知性を捨てて狩りに臨むことは、自我のコントロールを放棄して無意識的な心の動きを見つけようとすることと同じです。
狩りの時に行う、動物の生を尊重し拡張する儀礼は、無意識から自然に生まれるものを尊重し、育てることと同じです。
また、動物を残さずに食べ、魂を送り返して再生を願うことは、無意識から現れたものを十分に受け止めることで、次なる成長のために無意識から新しいメッセージを送ってもらうことと似ています。
逆に、無意識から現れる心の動きを抑圧すると、それは強迫的に何度も意識に再帰して、意識に否定的な力を及ぼします。
これは、報われない死を遂げた人間や動物の霊が、あの世に成仏せずに怨霊として共同体に悪い影響を与えると考えられることと似ています。
ドリームタイムとのつながり
古い狩猟文化を残しているアボリジニの世界観では、すべての地上の人や動物などの存在は、より根源的で生む力に満ちた「ドリームタイム」と呼ばれる始原の時に、地下世界から生まれ、今でもそこの存在とつながっています。
「ドリームタイム」の存在は、大地の中の「種」や「根」のような存在で、それが地上の「草木」に成長するのです。
「ドリームタイム」の創造力は、自然の内奥にあるだけではなくて、心の深層にもあります。
地上の事物は、心理的には日常的な言葉やイメージに対応します。
アボリジニが、日常の存在の背後に「ドリームタイム」の創造力を見ているということは、言葉やイメージが形ある存在になる以前の、無意識の中にあるその力や運動性に気づき、それらを重視しているということです。
日常的な言葉やイメージを中心に世界を見るのではなく、その深層の象徴性やイメージの変容に現れる、無意識からのメッセージを重視して読み取っているのでしょう。
農耕のウツなる場への意図的な呼び込み
狩猟文化のシャーマンや狩人は、冥界や森のような無意識的な領域に行ったり、自然にやってくるものを受容したりします。
これに対して、農耕文化のシャーマンや農夫・農婦は、自然な創造力を意識の領域に呼び込みます。
農耕文化のシャーマン(巫女、霊媒)は、豊穣神を憑依させ、御子神を生みます。
農夫・農婦は、里にある人工的に管理された田畑で穀物などを育てます。
また、先祖霊が穀物の成長を見守ります。
つまり、農耕文化では、神霊の力を人工的な領域に呼び込み、そこで育てます。
創造は、意識的で人間的なものの媒介が必要なのです。
狩猟文化では、力を感じるような自然の場所そのものが聖域です。
一方、農耕文化は、人工的な場所に外から創造性を取り入れるために祭祀の施設が作られます。
日本の神道に特徴的なことですが、神を招く祭祀場は、何もない空間を囲った聖域です。
あるいは、そこに特定の神が宿る依代を置きます。
神を憑依させる巫女も、心身を清浄に、無心にして、神だけを念じます。
これらは動・植物を追い払って穀物だけを作る田畑と似ています。
つまり、自然に現れるものを受け入れるのではなく、まず、すべてを否定して人工的な無の状態の場所、意識を作り、そこに特定の存在を呼び込むのです。
そして、この力が人間の世界、穀物に力を与えます。
狩猟・農耕文化と宗教と心理学
一般に、「男性」と「天上」は「意識的原理」の象徴で、「女性」と「地下」は「無意識的原理」の象徴です。
狩猟文化は、地下冥界と「動物の女主」を尊重し、男性シャーマンが自身を供犠にすることがあります。
それに対して、農耕文化は、太陽神や嵐神などの天上男性神を尊重し、女性を供犠にすることもあります。
また、狩猟文化では、冥界は地上の創造の基盤であり、冥界に戻ることは母のもとに戻ること、つまり、「死」とは「再生」のことです。
ですが、農耕文化では、冥界や冥界神は、天空神を弱体化したり、穀童を誘拐したりするような、悪い価値を帯びた場所です。
以上のように、狩猟文化が無意識的原理を重視し、農耕文化が意識的原理を重視しています。
無意識的から現れる心に注意を払ってそれを展開するプロセス指向心理学やフォーカシング指向心理学は、狩猟文化に由来するのでしょう。
これに対して、精神分析学は、合理的な強い自我に無意識を統合してコントロールすることを目指します。
これは、農耕文化に由来するのでしょう。
また、意識的な計らいを捨てて、あるがままの心の動きを尊重する瞑想は、自然の森に現れる動物を狩ることと似ているので、これらを行う宗教は、狩猟文化に由来するのでしょう。
タオイズムやゾクチェンのような宗教です
これに対して、雑念を払ったり、何かに集中したりする瞑想は、田畑で特定の食物だけを育てることと似ているので、これらを行う宗教は、農耕文化に由来するのでしょう。
デュルの狩猟文化礼賛
最後に狩猟文化を礼賛している学者を紹介します。
哲学的人類学者のハンス・ピーター・デュルは、その著作「再生の女神セドナ」で、狩猟文化を礼賛しています。
この書の中で、デュルは、アルカイックな狩猟文化の人間は、理性の彼方にあるものに対して理性的な関係を持っていたと書いています。
そして、彼らは、(今の地上の)生を愛し、自分が生きる世界と自分が一致していたのだと。
彼らは、自然が生みの苦しみにある時、産婆役のように手助けをした、とも書いています。
ところが、新石器革命以来、「彼岸の生」や「未来の生」に価値を置く「超越イデオロギー」と、「世界呪詛のイデオロギー(死のイデオロギー)」が生まれたと言います。
それらは、インドの農民の宗教と、イスラエルの遊牧民の宗教に代表されます。
仏教もキリスト教も、こういった現世否定のニヒリズムの思想なのです。
彼の主張していることは、非常に大雑把ですが、基本的には本質を付いていると思います。
*下記もご参照ください。
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