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黄金の夜明け団の教義

「神秘主義思想史」に書いた文書を転載します。


このページでは、「黄金の夜明け団(以下GD)」の教義に関わるテーマをいくつか取り上げます。

GDの教義はハイブリッドなものですが、その中心になっているのは、ヘルメス主義、カバラ、薔薇十字主義、そして、エノク魔術です。

彼らは、それらが西洋の魔術、象徴体系の伝統であると考えました。

中でも教義と体系の核になっているのは、カバラの「生命の樹」の象徴と教義です。

団においては、魔術はもちろん、人間論、心理学、堕落論も「生命の樹」で解釈されました。

また、タロット・カードも、すべてのカードが「生命の樹」と結び付けられました。



小宇宙としての人間


GDでも、人間はミクロコスモスであり、「生命の樹」が投影されています。

これは、団の教義の基本であり、ここには団のカバラ解釈が現れています。

団の知識講義文書の、「GD」第1巻「小宇宙―人間」、「飛翔する巻物」第20巻を元にして、以下、まとめます。

GDでは、人間において、テケルが「神的意識」であり、ダアトが「霊的意識」、ティファレットが「人間的意識」、イェソドが「自動的意識」と表現されます。

これらは、「中央の柱上」のセフィロートです。

(中央の柱上のセフィロート)
1 テケル    :神的意識、高次の意志、高次の自己、聖守護天使
・ ダアト    :霊的意識
6 ティファレット:人間的意識、低次の意志
9 イェソド   :自動的意識
10 マルクト   :肉体

頭頂の上にあるテケルは、「高次の意志」、「高次の自己」でもあり、「低次の天才」、「人間の神」とも表現されます。

これは、GDの魔術で「光」として召喚される存在の正体である「聖守護天使」でもあります。

また、「テケル」は、「イェヒダー(本質・モナド)」とも呼ばれます。

これらの表現からも分かるように、GDでは、霊的存在は、客観的側面と主観的側面があります。

「テケル」は、「ホクマー」、「ビナー」と共に「ネシャマー(霊的な魂)」を形成し、感覚と印象把握を司ります。

「ホクマー」は、「ヒア(ハヤー、生命・乗り物)」とも呼ばれます。

「ビナー」は、単独で「ネシャマー」とされることもあります。

「ネシャマー」とそれ以下の存在との間の「深淵」でもある隠れたセフィラである「ダアト」は、「霊的意識」であり、「ネシャマー」の活動の焦点です。

「思念」はこの「霊的意識」が放射する光線です。

心臓の上を主な宿とする「ルアク(ルーアハ、理性的な魂)」は、「ホクマー」、「ビナー」から知性の作用を受けて理性的推論を行います。

「ティファレット」は、「人間的意識」であり、ここに「低次の意志」の中心があります。

「ティファレット」は、美と生命感の愛などを司ります。

「低次の意志」は、「霊的意識」を、「ルアク」へ、さらには、「ネフェシュ(感情的な魂)」へと降ろすことで、「感覚の天球」(下の「小宇宙の感覚の天球」の項目を参照)に映る映像を知覚できるようになります。

「ケセド」、「ゲプラー」は、両腕を形成し、操作機能を持ちます。

「ネツァク」と「ホド」は、両脚を形成し、支持と堅固と均衡の能力を持ちます。

GDでは、「無意識」という言葉は使われず、「自動的意識」と表現されます。

それが「イェソド」で、「ルアク」の最下部であり、「ルアク」を「ネフェシュ」に翻訳し、また、肉体的欲望を司ります。

「ネフェシュ」は、アストラル・ライトからなる精妙体であり、オーラである「感覚の天球」を形成します。


小宇宙の感覚の天球


GDでは、薔薇十字団の用語を継承して、ミクロコスモスとしての人間のオーラを、「小宇宙の感覚の天球」、あるいは「宇宙を映す魔法鏡」と表現します。

団においては、知覚がこの内側に留まる主観的なものであるか、外側に至る客観的なものであるかを、理論的に区別します。

GDでは、霊視的な技法を3種類に分けて考えます。

1 スクライング(霊的ヴィジョン)
2 アストラル・プロジェクション(霊的ヴィジョンの旅)
3 パス・ワーキング(様々な次元への上昇

ですが、1と2、3には大きな違いがあります。

1は、「感覚の天球」内の知覚であり、2、3はその外にまで出た知覚なのです。

「スクライング」は、「アストラル体を「感覚の天球」内に保持したまま、象徴内に反映される宇宙の一場面を知覚する…つまり、…象徴が鏡の役割を果たし、視覚の範囲外の光景をあなたに反射している」(「GD」4巻「スクライング及び霊的ヴィジョンの旅について」)のです。

つまり、「霊的意識」から思念光線を、「感覚の天球」の象徴に共鳴する部分に向けて送り、大宇宙から反映される象徴の特質の鏡像を知覚するのです。(同書「アデプタス・マイナーに課される責務」参照)

一方、「アストラル・プロジェクション」は、「アストラル体を「感覚の天球」を越えて大宇宙に投射する」(「GD」4巻「スクライング及び霊的ヴィジョンの旅について」)のです。

つまり、「霊的意識」から「思念光線」が「感覚の天球」の象徴に共鳴する部分に送られ、そこを通過し、希望する場所にまで到着すると、「アストラル・ライトの天球」、つまり、アストラル体が形成され、「思念光線」とともにある霊的意識を通して活動するのです。(同書参照)


魔術の目的と善悪


「5=6アデプタス・マイナー儀式」の誓約文に、

「大いなる業、すなわち、神聖なる助力を得て、わが霊性を浄化し、高揚させ、ついには人間以上のものになり、徐々にわが身を高次の神聖なる天才と合一させるものなり」

とあります。

これは、GDの魔術の目的を、明確に示しています。

イスラエル・リガルディーは、GDの「全体系はその目的を「光」の引き降ろしに置いている」と「GD」の序文で書いています。

この「光」は、「聖守護天使」でもあり、「真の自己」でもあります。

この「真の自己」を肉体にまで引き降ろして、人間全体を統一、均衡させ、それに従わせるのが、団の目的です。

この「光」がセフィロートを降りる姿は「燃える剣」で象徴され、霊魂においては、順に、イェヒダー→ヒア→ネシャマー→ルアク→ネシャマーと降ります。

以下、もう少し確認しましょう。

「5=6アデプタス・マイナー儀式」の誓約文には、「神のために他人に善をなせ」ともあります。

では、GDにとって、何が善であり、悪なのでしょうか?

同誓約文には、「及ぶ限り、我は純粋にして無我の生活を率先するなり」とありますから、人間的な「我」による欲望は否定されるようです。

また、「GD」第1巻「一般指導及び魂の浄化に関して」に、「肉体は崇拝してもいけないし、無視してもいけない」とありますから、肉体性や物質性、欲望など、それ自体を否定してはいません。

同書には、「均衡の取れていない力は邪悪である」とあります。

悪とは、「不均衡」なのです。

同巻の「アデプタス・マイナーに課される責務」には、「高次の意志…が王の住居にまで下降すれば、高次の意志と低次の意志が一体となり…」、「低次の意志をして高次の意志を従わせ…」とあります。

また、同書には、「邪悪なるセフィロートがネフェシュから追放され、邪悪なるペルソナに入る時、ある意味で均衡が取れるのである。邪悪なるペルソナは強大にしてよく調教された動物となりえるし、その上に人が乗ることも可能である」、とあります。

先に書いた通り、引き下ろされた「真の自我」による統合が均衡をもたらし、悪が排除されるのです。


エデン追放と復帰の象徴


上に書いた目的は、GDの「堕落論」と関係します。

GDの「3=4プラクティカス儀式」の時に「追放前のエデンの図」を、「4=5フィロソファス儀式」の時に「追放後のエデンの図」が見せられます。

これらは、カバラの「生命の樹」に基づいた解釈であり、志願者が本来のあるべき姿から堕落した現状を示しています。

そして、「5=6アデプタス・マイナー儀式」の時には、目指すべき姿を示した2つの図(磔刑の図、達人の図)が見せられます。

「追放前のエデンの図」は、最上部には、「ヨハネ黙示録」に登場する、足元に月を置き、太陽を身にまとう十二星冠の女がいます。

これは、「至高の母」であり、「ネシャマー」です。

その下には、枝を伸ばす「生命の樹」があります。

また、エデンから流れる川が隠れたセフィラ「ダート」で4つに別れて、十字になっています。

その下には、「ルアク」である「大いなるアダム」が、「ティファレット」の位置に頭として、両手を伸ばしています。

その下には、「ネフシュ」である「イヴ」がいて、左右の2柱を支えています。

その下には、上下に枝を伸ばす「知恵の樹」があります。

その下には、根である「殻(クリフォト)の王国」があり、「ヨハネ黙示録」に登場するサタンである、とぐろを巻いた「赤い竜」が眠っています。

この竜は、7頭、10角を持っています。

「赤い竜」の解釈は重要だと思われますが、これは不均衡な力を象徴し、それ自身が本来的な実在ではなく、潜在的可能性なのでしょう。

一方、「追放後のエデンの園」は、最上部に、至高の3者がいますが、母なる「ビナー」は、父なる「ホクマー」に背を向けています。

一番下に眠っていた「赤い竜」は、目覚めて、上昇して「ダアト」に喰い付き、濁流を流しています。

「赤い竜」のさらなる上昇をくい止めるため、「ダアト」には、「燃える剣」と「聖四文字(ケルビム)」が置かれています。

そのため、下位の7セフィロートは切り離されています。

そして、「生命の樹」は枝を伸ばしておらず、左右の2柱もありません。

アダムは、少し下方に落ちて、倒れそうになっています。

イヴは、「マルクト」から落ちて「クリフォト」を抱き、倒れそうになっています。

「4=7フィロソファス儀式」では次のように語られます。

「「第二のアダム」がすべてを復旧すべく到来することが必要なり。…「ダアト」の地獄の川の上に十字架に架かる必要あり。されどこれをなさんとすれば…マルクトまで下り、(神の花嫁から)生まれることとなれり」

そして、「死と復活」をテーマにした「5=6アデプタス・マイナー儀式」では、その通りに、十字架に架った下の図と、その後に復活して完成された上の図が見せられます。

上の図の人間は、「右手に7つの星を持ち、口から「炎の剣」が突き出ており、顔は強き輝きの太陽のごとき」姿であり、「義とされる者」、「啓発された達人」です。

以上の堕落に関するカバラ的解釈は、例えば、ユダヤ教のイサク・ルーリアの解釈と比較すると、似ている部分と異なる部分があります。

ビナーがホクマーに背を向けること、下位7セフィラが壊れて切り離されることは、ルーリアと同じです。

ですが、ルーリアにおいては、これは世界創造(以前)の段階で起こることであり、その結果が「第2のアダム」の誕生です。

そして、その後の追放は、マルクトと第4-9セフィロートの間に亀裂を生じさせるものです。

GDでは、「悪」は不均衡な力ですが、ルーリアにおいては、「悪」は原初のエン・ソフの段階から存在する「裁き」という「残光」の原理です。


タロットと小径


GDの教義と実践における特徴の一つは、「生命の樹」の「小径」とタロット・カードの大アルカナが対応づけられていることです。

そして、それが瞑想や霊視(パス・ワーキング)、入門儀式で利用されました。

つまり、大アルカナを後ろから辿ることが、「生命の樹」を登っていくことになるのです。

大アルカナ以外も含めて、タロット・カードの全体は、「Tの書」などで、次のように対応づけられました。

・スート  :四大元素(棒=火、杯=水、剣=空気、ペンタクル=地)
・数札   :セフィロート、エース以外は36デカン、宮
・コート札 :聖四文字、王=コクマー、女王=ビナー、王子=ティファレット、王女=マルクト
・大アルカナ:小径、ヘブライ文字、宮+惑星+元素

「小径」と大アルカナの対応は、次の通りです。

径  アルカナ    秘密の称号
11: 0 愚者   :エーテルの聖霊
12: 1 魔術師  :力の術士
13: 2 女教帝  :銀の星の女司祭
14: 3 女帝   :万能主の娘
15: 4 皇帝   :暁の子
16: 5 教帝   :永遠なる神々の博士
17: 6 恋人   :聖なる声の子等
18: 7 戦車   :水の勢力の子
19:11 剛毅   :燃え上がる剣の娘
20: 9 隠者   :光の声の魔術師
21:10 運命の輪 :生命の勢力の支配者
22: 8 正義   :真理の支配者の娘
23:12 吊られた男:強大なる水の精霊
24:13 死神   :偉大なる変換者の子
25:14 節制   :調停者の娘
26:15 悪魔   :物質の門の支配者
27:16 塔    :強大なる神の主の支配者
28:17 星    :大空の娘
29:18 月    :流動の反流動の統治者
30:19 太陽   :世界の炎の支配者
31 20 審判   :原初の炎の精霊
32 21 世界   :時の夜の偉大なる者

この対応づけは、「形成の書」と暗合文書に基づいて、メイザースが行ったとされます。

ですが、「形成の書」の時点では、まだ、「生命の樹」の配置は生まれていません。
あるのは、10のセフィロート(数字)と22のヘブライ文字が、「智恵の32の秘密の径」である、という象徴の考えです。

その後、「生命の樹」が生まれ、その小径(11-32)とヘブライ文字とが対応付けられましたが、多数の方法がありました。

GDは、「生命の樹」の上の小径から順番に、つまり、セフィロート1-2間を最初のアルファベット「アレフ」に対応させて11番とし、次のセフィロート1-3間を2番目のアルファベットに…と順に対応させていますが、この対応はアタナシウス・キルヒャーに始まります。

ですが、彼は、すべてを順番通りに対応させず、15⇔16、17⇔18、25⇔26と3ヵ所で交換しました。

ヘブライ文字の象徴とセフィロートの象徴の対応を考えてのことでしょう。

その後、エリファス・レヴィがヘブライ文字と大アルカナの対応づけを行いました。
レヴィは、1「魔術師」を1「アレフ」に対応させて、その後も大アルカナの番号をそのまま順に対応させましたが、0「愚者」を最後ではなく21番目に置きました。

つまり、21⇔0交換をしています。

これは、「生命の樹」との関係を考えれば、大アルカナの物語を、神性の下降・創造の物語としたことになります。

これに対してメイザースは、0「愚者」を1「アレフ」へと対応させることから始めました。
そして、8⇔11交換をしました。

それが上記の対応表です。

これは、「形成の書」以来、ヘブライ文字の12字は12宮と対応していますが、8、11で、その象徴と大アルカナの象徴が明らかに反したからです。

実は、この対応は、GD設立のきっかけになった暗合文書にも書かれていました。

本来、ヘブライ文字と大アルカナと「小径」は別のものですし、セフィロートは「生命の樹」の形ではなかったのですから、これらの対応にはさして根拠がないはずです。

その後も、GD系の魔術師によっては、それぞれの考えでこの対応を変えました。

例えば、アレイスター・クロウリーは4⇔17を交換し、ガレス・ナイトは4⇔18を交換しました。

それどころか、フラクター・エイカドは全体の順番を逆転させました。
つまり、大アルカナの物語を、神性への上昇・復帰の物語としたことになります。

また、ウィリアム・グレイは、大アルカナの番号順を無視して対応を考えました。


アストラル・ライトの神


魔術が働く原理に関しては、GDも基本的には伝統的な説を継承していて、特別な理論があるわけではありません。

人間の意志と想像力によってアストラル・ライトにおいて形象が作られ、万物照応の原理に従って力が作用する、ということです。

儀式魔術を行なう組織が秘密主義を貫くことには、理由があります。

集団的な魔術の実践は、ある団体がリモートサーバー上にプログラムを組み、データを置いて利用することに喩えることができます。

結社は、儀式や瞑想を通して、アストラル・ライトの中に、神殿(神々のパンテオン、象徴体系)を構築し、そこにエネルギーを貯めます。

儀式次第を公開することは、サーバーのIDやパスワードを公開することと同じです。

自由にアクセスされて、プログラムが改変されたり、データが削除されるように、アストラル・ライトの構築物が破損し、エネルギーを喪失してしまうかもしれません。

そのため、秘密が厳守されるのです。

秘密が公開されると、アストラル・ライトの神が、秘教の神から公教の神になる、とも言えます。

もし、人々の信仰がなくなると、アストラル・ライトの公教の神は、エネルギーを亡くして、死んでしまいます。

マサースなど、GDの何人かの魔術師は、古代の死んだ神々を蘇らせようとしました。

この、古の神々の蘇生法では、まず、神々の伝説を蒐集し、分類し、生命の樹に属性配置します。

その後、アストラル界で神々の遺体を発見し、それをもとに、象徴体系の座標軸を再設定します。

最後に、瞑想や儀式によって、集団的思念像をアストラル界に建設し、神々の遺体にエネルギーを与えるのです。


西洋魔術の霊統


GDの教義はハイブリッドなものですが、その中心になっているのは、最初に書いたように、ヘルメス主義、カバラ、薔薇十字主義、そして、エノク魔術です。

西欧の魔術師には、カバラは、モーゼがエジプトから盗んだものであり、原初の智恵であると考える人もいます。

タロット・カードも、エノクの智恵も、その伝統に属しているのです。

そのため、カバラなどのユダヤ的伝統と、ヘルメス主義のエジプト的伝統は、源流が同じであり、統一されるべきものであり、薔薇十字主義は、その先駆と見なされたのでしょう。

このように、GD系の魔術師は、西洋魔術の伝統・霊統を、エジプト・ユダヤの流れで考えます。

ですが、実際には、カバラの起源にはイラン=カルデア系の影響が多く含まれます。

神智学のブラヴァツキー夫人は、カバラをカルデア神学であると、かなり正しく把握していました。

実際に、「マグス(魔術師)」の起源は、その言葉も含めて、メディアのイラン=カルデア思想、つまり、ミトラ教と星辰学です。

神智学は、原初の智恵をインド、イランに求め、神智学協会員の多くは、印欧語族の西洋人には、その伝統が受け継がれていると考えました。

カール・ユングも、ユダヤ、キリスト教的な伝統は、ゲルマン人に接ぎ木されたものでしかないと考え、ヘレニズムのグノーシス主義や錬金術に、アーリア的な伝統の要素を探しました。

ですが、GD系の魔術師は、インド、イランの伝統に関しては、一部を取り入れただけで、それらを深く掘り下げることは行いませんでした。

そのため、欠落したものも多かったのですが、アーリア主義にも陥ることもありませんでした。

西洋の伝統にこだわった点では、シュタイナーとも似ています。

ですがが、シュタイナーはヘブライ語のような外国語を使うことは意味がないと考えました。

また、魔術という方法を古いものとして退け、日常生活そのものの中で、思考と象徴を統合する方向が現代的であると考えました。

その点では、GDは、現代的でもなく、ハイブリッドな異国趣味を含み持つという意味で、伝統的です。



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