見出し画像

上座部受容の貧しさ・大乗の瞑想法との違い

「仏教の瞑想法と修行体系」に書いた文章を転載します。
少し長くて、難解なところもありますが。


日本では、ここ数年、上座部の思想やヴィパッサナー瞑想が、徐々に広がっているように感じます。

欧米で新しい形で仏教が受け入れられていることや、ヴィパッサナー瞑想が「マインドフルネス」という名前で、宗教的な精神修行だけではなくて、心理療法や看取り、ビジネス研修の分野にまで広がっているなど、欧米の潮流が輸入されていて、その影響もあるのでしょう。

上座部の思想や瞑想法が知られることによって、仏教には悟りに至る体系立った瞑想・修行方法が存在すること、日本の仏教にそれが欠如していることを理解する人が増えているハズです。

それは、とても好ましいことだと思います。

しかし、欧米でのように、様々な宗派の教説や瞑想法を同時に自由に交流しながら勉強するような、私が期待している状況は、日本にはほとんど存在しません。

むしろ、単純な、上座部を信仰するような受容のみが進んでいるように感じます。

この投稿では、上座部の日本での受容の状況の分析ではなくて、その貧しさの背景にある、基本的な仏教史に関する欠如しがちな知識に関して書きます。


上座部と大乗仏教に対する誤解


まず、分かりやすく書けば、次のような見解が多く見られます。

――「上座部の教え、瞑想法は釈迦伝来のものであり、大乗仏教には正しい瞑想法は伝わらなかった。」

ただ、一部には、上座部と日本仏教の両方の良いところを取り入れて、日本仏教を新しい形にしよう、と考える人もいるにはいます。

あるいは、上座部からさかのぼって、「原始仏典」のみを仏説とする仏教ファンダメンタリストも増えています。

いずれにせよ、仏教史についての基礎知識が少ないため、実りある受容になっていないと感じます。

具体的には、

・上座部の思想形成過程を客観的に理解していない
・大乗仏教の本流を知らず、日本の伝わっているごく支流だけしか見ていない

ということでしょう。

他にも、釈迦の教えこそが重要だ、という信仰にこだわってしまっている、という根本的な問題もありますが…

確かに、日本の仏教の諸宗派よりは上座部の教説の方が釈迦の教説に近いでしょうし、日本の諸宗派には、精密に体系化された瞑想法が伝わっていない、という点は間違っていないと思います。

しかし、例えば、現在の東南アジア諸国の上座部の教説・瞑想体系は、大乗仏教経典が作成され始めた頃よりもさらにずっと後の5世紀に、スリランカ大寺派のブッダゴーサによって、経蔵や論蔵の作成、編集を伴って、新たに作り出されたものであるということが知られていないようです。

また、初期の大乗の経典や修行体系は、部派仏教のアビダルマ(論蔵)の教説や止観の体系を熟知した、部派教団内部の僧(大乗学派)によって、それを改良する形で作られたこと、それが、上座部よりも伝統的な方法を継承している部分もある、ということが知られていないようです。

あるいは、後期密教やゾクチェンは、部派や大乗の伝統的な教学や修行法を十分に学んだ僧らにとっても、それを超えるものと理解されていることも知られていないようです。

このように、ほぼ同じ頃に、一方で、スリランカ大寺派のブッダゴーサが、もう一方で、大乗の中観派、唯識派が、伝統的な部派仏教の瞑想法を、それぞれに違った形に変えることで、両者が違う道を歩んだのです。

それぞれが行った思想の創造を理解することで、より実りある交流、受容を行うことができるはずです。

以下、そのような、基本的な歴史的事実など、思うところについて、もう少し詳しく書きます。


 

「最古層経典」でも書いたように、「原始仏典」は釈迦滅後数百年後に記録されたもので、その中には、作成時期が異なり、主張の異なる経典が含まれていて、そのまま仏説とは言えません。

特に、釈迦の思想に近いと推測される最古層経典は、部派仏教の教説とは180度違うような内容を示しています。

また、「原始仏典(パーリ経典)」は、5C頃まで、あるいは一部はもっと後まで、改変され続けました。

上座部は、自分たちの聖典語であるパーリ語が釈迦の言葉だったと主張しているようですし、それを信じている人もいるようですが、実際は、違います。

釈迦が説法で使い、第一結集(本当に行われたとして)の時に使われた言葉は、古マガダ語のようです。

ちなみに、各部派教団が使っていた言葉はその地方ごとに違い、初期の上座部は西インドなのでピシャーチャ語です。

* 初期仏教の思想に関しては、最近では並川孝儀氏の研究があります。


20ほどあった部派仏教の各教団は、固有の「三蔵」を持ち、固有の教説、瞑想体系を持っていました。

各教団は「経蔵」よりも、部派ごとの固有の思想性が高く、直接的には仏説ではない「論蔵(アビダルマ)」を重視しました。

「アビダルマ」は、経典を解釈して体系的に論述したものですが、「ダルマ(経典の説法)よりも優れたもの」という意味を含んでいます。

現在の東南アジアの上座部は、部派仏教教団の一つで、スリランカ大寺派に由来します。

スリランカ大寺派の教説は、5Cにブッダゴーサによって作られたと言っても過言ではありません。

上座部も「論蔵」や、それ以上に「論蔵」にも属さないブッダゴーサの「清浄道論」を重視しています。

さらに、現在のパオ派は、「清浄道論」よりも後世に作られたアビダルマ論書の影響を取り入れた瞑想法を行っています。

しかし、経量部など、「論蔵」を仏説として認めない「アビダルマ非仏説」を唱える学派もありました。

彼らからすれば、上座部の思想も修行法も、まったく仏説ではないことになります。

「論蔵」だけの問題ではありません。

ブッダゴーサは、経典の註釈によって自身の解釈を表現しましたが、自分の解釈の元になった「無礙解道」、「義釈」などが「経蔵」に入っていなかったため、それを新たにまとめた「小部」に入れるなど、「三蔵」の再編を行いました。

これらは、明らかに直接の仏説ではないだけではなく、経典ではなく論書の形式のものです。

ブッダゴーサが「小部」に組み入れた経典には、大乗経典誕生以降に作成された経典もあります。

紀元前頃から、インド哲学諸派も含めて、部派間では盛んに教義論争が行われ、互いに影響を受けながら、自らの教説を生み出してきました。

そして、その教説を元に、「経」や「論」を修正したり、新しく作成したり、「三蔵」に今まで入っていなかった文献を入れたりしたのです。

「経」を論じた「論」は、直接的には明らかに仏説ではありませんが、各部派は、それを「ブッダの言葉」であると認定しました。

「法性」とか、「埋没経」という観点から、仏説に矛盾しない文献や、従来知られていなかった文献も、「ブッダの言葉」と認めて、「三蔵」に入れることができるとしました。

さらに、従来の経典は「未了義」なので「裏の意味」があると新説で解釈できれば、新説も仏説にできるとしました。

こういった作業を常に行うことで、仏教思想の創造が行われてきたのです。

こういった創造作業をしっかりと評価すべきでしょう。

「三蔵」への新たな編入の基準は、現実的には「法性」を基準に判断されます。

ブッダゴーサの場合も、実際には、個人が信じる思想に基づく「法性」の判断で経典を追加しました。

それにもかかわらず、「三蔵」の基準としての「法性」を拒否すると表明したので、ブッダゴーサ以降、上座部における経典類の編集を困難にしました。

こうして、南伝仏教の思想創造は、ほぼ停滞してしまいました。

大乗仏典も、そのような部派教団における「経」、「論」の作成・編集運動を背景に、部派の教団内部の「論蔵」に詳しい僧が、「大乗学派」として作成したものです。

例えば、部派の法蔵部などは、「三蔵」に新しく大乗系と思われる「菩薩蔵」を付け加えています。

また、インドに旅した中国僧の義浄は、「四つの部派の中で大乗と小乗の区別は定まらない」と報告しています。

このように、大乗学派と伝統的な学派は、同じ部派の教団内部で共存し、必ずしも排他的に教団を分かつような関係ではなかったのです。

これは、部派教団において、批判や蔑視はあったとしても、大乗学派が仏説として認められていたということではないでしょうか。

スリランカの上座部においても同じでした。

大寺派以外は、後期密教の経典までを「ヴェートゥッラ」と呼ばれる「大乗蔵」として所有していました。

インドに旅した中国の三蔵法師玄奘も、スリランカを「大乗上座部」の地と報告しています。

大寺派の文献においてさえ、例えば、「所行蔵註」などにおいて、「清浄道論」を「声聞」の行道とし、大菩薩には悲心と善巧方便が必要だと「大菩薩乗」を説いているものもあります。

また、スリランカ大寺派が、自らの教説を第一結集以来の正当なものであると主張したのは、スリランカという周辺地域からインド本土へ布教するにあたっての、宣伝戦略だったようです。

ちなみに、スリランカで大乗が一掃されたのは、パラッカマバーフ王が、大乗を許容していた他派を、大寺派に統合した12世紀以降です。

上座部に限らずですが、教団運営は、常に王権との政治的な関係抜きには語れません。

* 上座部とブッダゴーサの思想形成については馬場紀寿『上座部仏教の思想形成』、『大乗仏教の誕生』収録の「上座部仏教と大乗仏教」に詳しい。


ブッダゴーサによって5世紀に作られた上座部の教説は、いくつもの点で、従来の部派の伝統と異なります。

上座部と「原始仏典」の瞑想法の違いとして指摘できる点には、次のような点があります。

(違うというだけで、批判しているのではありません。)

上座部の瞑想法は、「清浄道論」のような後世の「論蔵」外の文献などに基づいて行うので、必然的に、「原始仏典」が中心に説く「八正道」や「三十七道品」を軽視する傾向があります。

「原始仏典」では、「止」だけでも、「観」だけでも解脱ができる(「信」だけでも阿羅漢向まで行ける)と書かれています。

上座部のように、個々の瞑想法を「止」と「観」に分けたり、行う順番を決めたり、混ぜて行うことを禁じたりしません。

そして、上座部の個々の瞑想法では、「原始仏典」が説く方法に比較すると、具体的に限定した方法で行ったり、テクニックを付け加えたりしています。

インド大乗仏教の本流である中観派や唯識派の止観の体系は、ブッダゴーサと前後して作成されました。

これは、「倶舎論」などに表現されている説一切有部系の止観の体系をもとにして、それを変えで作成したものです。

説一切有部系の止観の体系は、ブッダゴーサの体系よりも、より伝統的で、大乗の両派もそれを継承した部分があります。

例えば、従来、主要な「観」の対象は「四諦」でしたが、ブッダゴーサはこれを諸行の「三相(無常・苦・無我)」に変え、「四諦」の智は結果として得られるものとしました。

しかし、説一切有部系も大乗の中観派(現観荘厳論)も、唯識派(成唯識論)も、「四諦」を観察の中心にすることを継承しています。

大寺派の「止観」の言葉の使い方では、「止」は観念を対象とし、「観」は現実を対象とするので、両立せず、瞑想法もどちらかに分けて体系づけましたが、これは、大寺派の独創ではないでしょうか。

有部も含めて、北伝では、「止」と「観」は同じ対象に対して同時に行えるので、「止」に「観」を加えて一体で瞑想を行うと考えます。

中観派や唯識派の瞑想体系は、チベットにも伝わって、ゲルグ派などでは、現在も実践されていると思います。

日本には、三論宗や法相宗として、少なくても教学としては伝わったはずです。


後期密教やゾクチェンの教説や瞑想法は、日本ではほとんど知られておらず、訳の変わらないもの、呪術的なもの、堕落したもの、釈迦の教説とは違うもの、といった理解で止まってしまっていることがほとんどでしょう。

しかし、インド仏教の後期の教判では、後期密教のヨーギン・タントラ(母タントラ)を最上位に置きます。

チベットは、インド最後の仏教の拠点だったヴィクラマシーラ大僧院の亡命僧を受け入れ、名実ともにインド仏教の正当な継承者となりましたが、チベット仏教各派の教判においては、後期密教の不二タントラや、ゾクチェン、マハームドラーを最上位に置きます。

インドでもチベットでも、部派仏教や中観・唯識の教説、止観の体系をしっかりと勉強、実践した上で、後期密教やゾクチェンに進んだ僧が多くいます。

密教やゾクチェンは、肉体の釈迦が説いた教説ではなく大日如来などが説いた教えとされていますが、従来の仏教の教説を未了義として、より包括的な見解から再解釈するものです。

基本事実は以上です。


日本の現状


次に、当ブログの意図と日本の現状に関して、あらためて簡単に記します。

当ブログでは、第一に、個々の瞑想法よりも、解脱にいたる体系的なプログラムに焦点を当て、それを理解することを重視します。

また、時代や思想の異なる各宗派の瞑想法を、それぞれに尊重します。

その前提として、釈迦の教説を特定したり、絶対視することはせず、それを求めることこそ煩悩だと思っています。

また、各派の瞑想法を取り上げるに当たっては、それぞれの瞑想体系が成熟した段階のものを取り上げています。

日本における上座部の受容を担っている雑誌に「サンガ・ジャパン」がありますが、「別冊サンガジャパン 1 実践! 仏教瞑想ガイドブック」に、「大乗仏教の瞑想概論」という文章が掲載されています。

この文章は、タイトルに反して、実質的には中国と日本の大乗仏教だけを対象としています。

そして、「大乗仏教を知るための資料は、古来、知られている初期の観仏経典、禅観経典を見るのが一番正当的な方法」と言い、「般舟三昧経」や「坐禅三昧経」などを取り上げています。

一方で、比較対象として上座部の止観体系を完成させた「清浄道論」について触れます。

そして、大乗の止観は、対象(止の業処)に一部、大乗特有の展開があるが、基本的には上座部と変わらないと結論づけています。

しかし、文章を読んだ印象としては、大乗の止観は上座部の劣化ヴァージョンのように感じます。

この論考の問題点としては、まず、「体系」という観点が欠落しています。

大乗の基本である「五道十地」の修行階梯にもまったく触れません。

次に、中国や日本という、大乗仏教の主流ではない末端だけを取り上げているので(当ブログが、重要性がないと判断して、あえて取り上げなかった文献が中心)、高度に体系化された止観は存在しないかのごとき内容となっています。

上座部の「清浄道論」には触れても、大乗仏教の止観の元になり、その比較対象とすべき「倶舎論」などの説一切有部系の止観には触れません。

大乗の止観の実践者(瑜伽師)と密接な関係のあった、中観派や唯識派の完成された止観の体系(「現観荘厳論」や「成唯識論」など)も取り上げません。

これらのチベット、中国での展開も。

もちろん、インドやチベットの教判で最上位に置かれる、後期密教の二次第や、ゾクチェン、マハームドラーの止観についても触れません。

つまり、世界史的に見た大乗の本流には、それが存在しないかのように目を向けません。

そして、一番重要な結論として、部派と異なる大乗の止観の本質的な特徴についても、まったく論述されません。

「止」の対象としての「業処」の違いを指摘するだけで、より本質的な、「観」の業処のどういう性質を対象とするのかについて触れません。

他の文章にも、同じような傾向は見られます。

例えば、大乗仏教の最新の研究を反映したシリーズの「シリーズ大乗仏教3 - 大乗仏教の実践」収録の「大乗仏教の禅定実践」です。

この文書で、密教が省かれているのはシリーズの主旨なので良いとしても、やはり、中国で作成された観仏経典、禅観経典のみを取り上げてます。

そして、大乗の禅定は、内容的には部派のものと基本的に同じであり、自他の成仏の誓願のような「精神的な意味づけ」が異なるだけ、という結論です。


上座部と大乗仏教の止観法の違い


上座部と大乗の止観の違いについて、簡単にまとめてみましょう。

部派と大乗の止観の違いは、まず、大前提として、大乗は「阿羅漢」ではなく「仏」を目指す点です。

そのために、「菩薩の十地」を歩んで、従来の煩悩とは異なる「所知障」を克服し、説法のための「一切種智」や「後得智」を獲得する必要があります。

まず、先に書いたように、「清浄道論」に従う上座部は、伝統的な方法とは異なって「四諦」を「観」の対象とせずに、結果として得られるとしますが、中観・唯識の大乗二派は、「四諦」を主要な対象とします。

また、上座部では「法」を識別するための個々の「法」の「自性」としての「個相」と、諸行の「共相」としての「生滅」などを観察します。

しかし、大乗では「法無我」なので、「法」の「自性」としての「個相」は認めず、「共相」としての「空性」、つまり、諸法(実体)の「不生不滅」などを観察します。

この時、「主客」、及び「概念」を対象にして、概念的に考察(正理知)しながら、「空性」を観察するのが特徴でしょう。

「一切種智」に必要な智慧としての「個相」は、「自性」のない存在の多様性である「真如相」となるはずです。

そして、聖者の段階になりますが、大乗では「後得智」を完成させるためには、「止」と「観」を交互に行い、「止観一体」によって、無分別の「等引智」と一致させます。

後期密教の場合、生・死・中有という輪廻の三つの意識を浄化して智恵とし、「仏の三身」を獲得します。

そのために、「観想」と「プラーナ・コントロール」を利用した瞑想(二次第)を行います。

これは部派や顕教の止観とはまったく異なる方法です。

密教では、この「二次第」の修道を、伝統的な五道の止観体系と対応させて論じることもしますが、これは密教が従来の修行法を踏まえながらも越えていることを主張するためでしょう。

「止」は観想を通して行い、その達成は、曼荼羅を身体上の一点に観想する「微細ヨガ」によって行います。

「観」は、虚空から仏のイメージなどを生成する観想の中でも行い、空性の修習を行います。

イメージは、サンマヤサッタ、ジュニューナサッタ、サマディサッタという3段階で、単なるイメージからイメージでない実在へと深められます。

マントラも同様に、声のある状態からない状態へと深めていきます。

また、イメージなどのない状態(無相ヨガ)とある状態(有相ヨガ)を同時に体験(深明不二)します。

また、「観」は、プラーナのコントロールによって導いた、無概念の「光明」や「大楽」の状態で行います。

顕教での「観」は、修業中の凡夫として行いますが、密教では、本尊ヨガを経ているので、自分が仏であると思って、仏が見る世界を見るように行います。

また、密教における「観」の対象の「空性」は、単なる「無自性性」ではなく、創造的な母体であり、原型としての形を持った諸尊を通して象徴的な照応のある世界を生み出すものです。

ゾクチェンのセムデの場合、止観を独自のものとして行います。

「止」は、対象に対する集中ではなく、概念をなくすことを本質とします。

「観」は、概念がない状態から概念が現れ、そこに消える状態を観察して、顕現の空性を認識します。

「止観一体」では、概念のある状態とない状態に違いがないことを理解することを本質とします。

どちらの状態でも、無概念の「心の本性」に対する気づきを維持して、概念もそこから現れる清浄なものであると認識します。

ですから、概念が生まれることを否定する必要はなく、生まれたその概念を、自性を持たないものとして、自由に解放するようにします。

最終段階のトゥゲルでは、特別なアーサナと特別な管脈の刺激を利用した光を見る瞑想で、煩悩を滅して「虹身」の獲得を目指しますが、これはもはや「観」とは異なる瞑想法でしょう。


最後に


長々と書きましたが、まず、世界的な視点と、仏教史の基礎知識(ほぼ一般書レベルの知識です)を持てる環境になることを期待します。

そして、それを基に、各派の教説の勉強や瞑想の実践を行い、それぞれの特長や欠点を考え、新しい道、自分の道を見つけることができるような状況が生まれることを、期待します。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?