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死ぬべき思想をお持ちのお前へ

どうやっても話が通じない人間に出逢ったことはありますか。
物理的に戦わないと話にならないと思ったことはありますか。
そういう時ってお互い相手が話通じない奴だと思っていて
本当に話が通じないのはどちらなんですかね。
思想が死ねばいいのはどちらなんですかね。

(じゃあ君の思想が死ねばいい/椎乃味醂 様
歌詞: https://g.co/kgs/UEWoSX)

我流

貴方は我流の思想を確立してそこにポリシーを持ったりしていますか。
産まれてから今まで、私たちが一人ひとり意識的にも無意識的にも様々な経験から摘んで形成してきた個人の思想は現時点、現在のものとして完成していますが秒単位で形を変える物のように私は感じています。人間はそのようにして培った我流の思想を必ず持っている物だと思いますし、それに従って生きているはずなのですが、それを認知している人は少ないように思います。
こんなことを書いている私自身も例外ではなく、自分が培った思想を把握しきれているかと言えばそもそも到底不可能な事です。
ですが私たちの発する言葉は、自らが培ったのにも拘らず把握しきれないその思想から導き出される物です。
わかりやすく説明するとすれば、
幼稚園前後の子どもは「なんで?」をよく連呼します。それに答えればその答えに対して「なんで?」また答えても「なんで?」
そうやって突き詰められると「そういうものだから」としか出なくなりませんか。
それを自分の思想に対してやってみると、どうしてそう思うのか、どうしてそう思うと思うのか、どうしてそう思うと思うと思うのか....続けていくと「それが正しいから」とか「そう思うから」しか出なくなると思います。
そこが先ほど書いた、"把握/認識しきれない"部分の思想です。その部分を含めて私たちの思想は個々で違うオリジナルの思想であり、それに無意識にも従って生きているのが私達です。

侵食

ただ、そのオリジナル思想は外から入ってくる情報や別視点の思想に侵食される事があります。
歌詞から借りると、冒頭の「借物の思想」が、ここで言う侵食された思想に当たります。
例えば世間的に正しいとされる情報が入ってくると、それが正しいと思うようになります。もちろん例外もありますが、特に幼い頃に刷り込まれた「正しさ」は中々に脳内へこびり付いて離れなくなるでしょう。
私の場合は、小学校から制服を着せられ、ランドセル、サブバッグ、靴、筆箱、殆ど何から何まで指定された環境でした。綺麗に列をなしてホールへ入場したり、綺麗に並んで授業を受けたり、また綺麗に列をなして下校をしたり、皆揃っていることが美しいと刻み込まれました。学びました、が良い言い方ですが、ここでは刻み込まれたと表現したいです。
このように脳へ刻み込まれた情報は気付かぬうちに自分の考え方や思考パターンに組み込まれていきます。その組み込まれた思考パターンと同じ思考を持つ人が多ければ多いほど、それが世間的ない正義になっているのではないでしょうか。

正義

人は我流の正義と表向きの正義を持っていると私は思います。人と人が関わる時、大抵の人は自分が従うのも、相手が従っているであろうと想定するのも表向きの方の正義です。
先ほど書いた「世間的な正義」がこの「表向きの正義」のことです。
例えば遅刻をしたら謝るとか、物をもらったらお礼を言うとかそのレベルの事からこの話は始まっていて。そんなことをするのは当たり前だろうと思うかもしれませんがそれは貴方が多数派に属しているからです。これを当たり前と思えている私たちはラッキーです。これまでの人生で、謝罪やお礼を自然にする訓練の機会があったということです。思考パターンが多数派に属すということは、世間の人々と「表向きの正義」が一致するということです。
ところが少数派になってしまうと自分なりの「表向き」すら表の世界で許されなくなります。
「普通に考えればわかるだろ」
とかいう言葉がありますが、その"普通に"は少数派の思考パターンにはそもそも無い考え方です。 
先ほどの謝罪やお礼の例えは、それが出来なかった人だとしても指摘されれば単純に理解できるものだと思います。当たり前だった場合と理解できた場合に限り、先ほどの「相手が従っているであろう正義」の予想が当たったことになります。
私はそこが一致しない限り人間というのは会話を成立させれられません。
わかりやすく言えば冗談とか。
自分ではどう考えても冗談だろと思って言ったことが相手からしてみれば冗談では済まないほど真剣に受け取ってしまう内容だったり。
私達は無意識に「相手がしたがっているであろう正義」を予測し合って会話していますが、それが的中しなければそういう事が起こってしまうし、多分的中させられない相手と長く付き合うにはどちらか一方が我慢や引き下がりを続けることになります。会話が成り立たないということは一方が、もしくは双方が相手の正義を「そうなんだ」で済ませられず「なんで」の連続にしているのだと思います。

思想

「もう僕は君の思想なんて知らないからあとはどうぞそのままお好きにして下さい」
今回の曲の最後の歌詞ですが、この考え方、冷たいようですごく大事だと私は思っていて。
お好きにして下さいの程度は様々ですけど、絶対持っておいた方がいい考えだなと私もつい最近思いました。
先ほどの会話が成立しない場合の状況、お互いの正義が違うのだからどちらが悪いという話ではないんですよね。これ多分どんな場合でもそうだと思うんですけど。私は基本誰が悪いって完全に決められる話ってないと思っていて、今回散々出てきた「我流の正義」、私のは「全ての情報を加味して中間の筋を通したもの」です。伝わりにくいかもしれないですが、簡単に言ったら悪者探しに拘らないということですかね。誰が/何が悪いのかじゃなくて、お互いの意見が絡み合って歪んでしまった話に筋を通して真っ直ぐにすれば良いじゃないかという考えです。
「会話が成立しない状況」が起きた時、大体人は争いだと認識して大抵どちらが悪いという話になるんですけど、そんな必要全くないと思ってます。話に筋が通ればそれでいいじゃん。
でも他から見れば私は筋に拘りすぎているかもしれないし、そんな論理的な解決ではなくて感情的な完結をしたい相手かもしれなくて、それならそれでそうなんだで終わりにすればいい事なんですけど、相手の意図に気づけなかった場合とかどうしてもお互いの意見が理解できなかった場合に「お好きにして下さい」使うべきだと思うんです。諦めるのも大事だなって。幼稚園、小学校、大きくなる過程で仲良くしなさいって散々教わったけど全員と仲良くしないといけない世界ほど苦しくて煩わしくて不可能な世界ないですよね。
自分にとって大切な人、一緒にいたい人と居ればそれでいいし、そうなるための大前提として従っている正義/思想を予測できる相手である事、外れても受け入れること、それがお互い成立する事がこの世の真理レベルで深く人間関係に影響しているなと思います。


ここまで話したことも全て私の「思想」で、貴方は貴方の「思想」があって、これを組み込むも組み込まないも理解するもしないも当たり前に貴方が決めることです。
お前はお前の思想に従って生きろ。
人間なんて結局みんな自己中だから。

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