無日記(11/7~1/9)

・美による反逆
 美しさは減点法で、尖鋭よりも均整だと思う。俺の直感的に、というよりは、みんなが強くそう推進してくるので既成事実的にそう納得させられている感がある。もっと言えば、みんなの中の一人一人も密かに俺と同じ「厳密にはこっちが好みなのだが一般的ではないからな……」を抱えている気がする。そして広告とかが和集合を抽出しようとすると不自然な均整の成分が混じるのか。近頃は悪感情を焚き付ける表現が押し込められる世風なので特にそういう感じだ。
 いや、逆かもしれない。既製品の偶像になびきたくないが為に、自分の好みをそこから外す方に作り込もうとし、けれど所詮一馬力しかないので、既製品を少しアレンジした所で満足してしまっているのかもしれない。逆かもしれないという事は双方向で間違いない。止揚。
 美しいという言葉が同時に、えげつないさま、てんこ盛りで賑やかなさま、悲しみを湛えたさま、思い出が美化されすぎたさま、狂いないさま、手入れの行き届いたさま、生命力が弾けるさま、詩になっているがともかく、何かしら他の感情を含有しない事には、それは己が心底求めている美ではなく、せいぜい代用に足るだけの紛い物なのでは。そんな気がした。ミストバーンを見切った時の決め台詞。

 つーかこれ「美」に当てはめる言葉は別になんでもいけそうだ。愛とか正義とか平和とか。詭弁のガイドラインに並べられちまう。


・次元断裂破斬俄乙式
 絵が(俺よりは)描けないある人間と喋っていて、妙な噛み合わなさがあった。やがてその正体が掴めた気がした。デフォルメがわかっていないのだ。いや、俺だってわかりも体現もできやしない。だが強弱関係の話だ。

 第一に現実を全部転写したものが上手い絵だと思っている。これは超誤認だ。なんかすごい名画とかでも嘘は多分にあり、効果的なそれによって真実味を増してさえいる。そもそも空想度の高い絵は実在するものの寄せ集めだけじゃ説明つかんだろ。そして親の主義で散々噛んで含められた事だが、見たまま写真そっくりに描く技術では絵画はとっくに写真に劣る。絵として訴えるのなら、己の中にイメージを形成し、認識を描き出す必要がある。コラージュとか騙し絵とかシュール絵画のようなのもあるから、写実や写真の模倣を徹底回避する事ばかりが道でもない。現実の情報は膨大すぎ、無秩序すぎ、それを適度に削いで整形して二次元に落とし込むことは、ものすごい筆致の熱量があっても、また特にコミカルな画風でなくてもデフォルメをしている側面がある。
 第二に、彼は絵が上達すれば立ち所に全てに精通すると思っている。そんなのができるのは寺田克也とか大暮維人とか一部のオールラウンダーだけである。「絵の上手さ」値(int型)からあらゆるものが創出できると思っているがんな訳あるかタコ。タコ。タコが。タコ。タコ。タ〜コ。わかりましたね?( ( ( イルカセラピー ) ) ) 絵柄の違いとかあった時に、それが完全に本人の匙加減でパッと切り変えられるものとして認識しているのだろうか。そもそもそんなに区別していなくて、好み的にもどれでもいいのだろうか。エロ漫画を読んだ時に、その異様な法則がまかり通る時空の幻を撮影して作られた情報だと思うのだろうか。それは俺です。

 ごめん、それは俺です。

 深刻に捉え過ぎてる俺が悪いのだろう。機嫌を損ねた訳ではあるが、先輩面欠席裁判長してる自覚もある。そして絵を話したつもりだが、たぶん絵以外でもこういう「経験が少ないと経験者の実力や分野への目測自体が利かない」「全員同レベ同スキル構成に見える」はある。だからといって消費者としてバカにされてよくはないが、創作者に共感するには不足とゆわざるおえない。俺はこの意味で小説がわからない自信がありありにあり、よく考えたら絵もさしてわからない。今は支離滅裂な徒然草を書いていて何にもならないし、前世は混沌だったが顔を造形されて絶命した。そんな因果かアイコンがデフォ男のままだ。猿になるよ。猿に。なるよ……。ピューッ


・遊撃クラシック
 古典は第一に、時間を越えて生き延びているから、すごい。もっと詳しいすごみを思い付いた。
 古典は、人間や社会などの変化に逆らって不変である。旧仮名遣いとか段組みとかカバーイラストが変わる。まあそうですけども。あとまあ文字列が不変でも受け手にとっての辞書的文化的な意味が変わってくるというのもあるか。でもまあ文字列は不変だ。
 文字列と、一般的な評価が変わらないとどうなるかと言うと、受け手が出会ってから死ぬまで、鏡やメートル原器として使い続ける事ができる。不変な(普遍な)原風景の存在感は、流れゆく物との間によい摩擦熱みたいなのを生じる。記憶だけなら薄れもするだろうが、会いたくなって会いにゆける文字列はそれらを再印刷し支持する為の引き金ともなる。変わらない事が、周囲との距離を無限に変え続ける。

 一番すごいのは、自分が若い時に古かった物は、自分が老いても古いままで、その時間経過後にまだ若い他者にとっても(その受け手なりの新たな形で)「古い」のだ。無論、泡沫に消える作品よりは長生きしたものの、自分が生きている間に古くなりすぎて、世間的には打ち捨てられてしまっているものも出てくるだろう。それでも、多くの時間をくぐり抜けた自分にとっての、鏡である事には揺るぎがない。


・ジジーズ・ヘドドドドドンホ
 新品好きの祖父が遺したワイヤレスヘッドホンを勝手にパクって使っている。というのも、生前も彼は熟考の末しょっちゅう最新機種に乗り換えて古いものは下賜する質だったので、それしきでおセンチにはなれないのである。数年経ち、祖父なら既に買い替えていそうな頃合いなのだが、僕はもったいない精神がオーバーフローしてゴミ屋敷を現界せしめるタイプなので、そういう物の使いようの面でも形見を継いだ感覚は全然起きない。
 夜中、近所のゴミ収集所にゴミ出しに行く際、それは朝起きれないから夜中なのだが。このワイヤレスヘッドホンで聴いていた音楽が、電波の及ばなくなっていくギリギリの瀬戸際で、だんだんとグリッチ状にほどけていき、ついに途絶する。夜中なので耳の外はしんとしており、そのことに時間差で驚く。部屋へ向けて数歩折り返せば、曲はざらつきながらまた、ちょっと飛んだ続きから再生を続ける。

 これをやる度、波打ち際で遊んでいる気分になる。

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