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~浅草の幼馴染み対談 at 隅田川リバーサイド~

実はいま、浅草生まれの父親を偲んで、「下町の義理人情」をテーマにした本を執筆中です。そこで、浅草にご縁のあるいろいろな方々を取材しているのですが、皆さん本当に面白い人ばかり!こんなに楽しい人たちが集まっている街って、他にないのでは?

今回は、浅草小学校時代からかれこれ60年近いお付き合いという、幼馴染みの諏訪信幸さんと西山繁夫さんに、超愉快な昔話をお聞きしました!画像の真ん中が諏訪さん、右側が西山さんです。

隅田川を見ながらオープンカフェでおしゃべり

風が心地いい水辺のカフェ

取材した場所は、隅田公園の中にあるタリーズコーヒー。隅田川の向こう側にはド~ンとスカイツリーが見えて、最高のロケーションです。と言いつつ、スカイツリーの写真を撮り損ねてしまったので、フォトACの画像で失礼!

隅田川の向こうにそびえ立つスカイツリー

こんな感じです。素敵でしょう?隅田川の手前が台東区、向こう側が墨田区です。「スカイツリーを見るなら、墨田区よりも台東区から見た方が、断然きれいなんですよ!」と、早くもわが街自慢をされる諏訪さんでした。

まずはお二人の本拠地、花川戸のご紹介から

150年以上の歴史がある浅草小学校

お二人が通っていた「浅草小学校」は、東武鉄道の浅草駅から徒歩4分。台東区の花川戸という街にあり、なんと150年以上の歴史を持つ小学校なのだそうです。

この小学校の前に花川戸公園があり、そこには知る人ぞ知る、「姥が池の伝説」の碑があります。姥が池の伝説とは、こんなお話です。

花川戸公園の中にある姥が池

昔、いまの花川戸あたりには浅茅ヶ原と呼ばれる原野が広がっていて、ぽつんと一軒あばら家がありました。そこには老婆と美しい娘が住み、旅人たちはそのあばら家を宿として利用していました。

ところが、老婆は旅人を泊めると見せかけて、寝床を襲って石枕で頭をたたき割って殺し、亡骸を近くの池に投げ捨てていたのです。そして奪った金品で生活をするという、とんでもない鬼婆でした。

老婆の殺した旅人が999人に達したある日、一人旅の稚児が宿に泊り、老婆はいつものように稚児を殺しました。しかし、その亡骸を見ると、なんと自分の娘だったのです。実はその稚児は、老婆の行いを哀れんだ浅草寺の観音菩薩の化身でした。

嘆き悲しみ、悪行を悔やんだ老婆は、仏眼を開いて観音菩薩の力で竜となり、娘の亡骸とともに池に消えたそうです。今でも浅草寺の絵馬殿には、姥が池の伝説が描かれた「一ツ家」の絵馬が収納されています(通常は非公開)。

八重桜の下にある姥が池の石碑

その姥が池の法要が毎年花川戸公園で行われ、今年も4月14日にあり、私も参加させていただきました。地域の方々がたくさん集まり、見知らぬ埼玉県人の私にも優しく声をかけていただき、浅草の人たちの温かさを感じたひとときでした。

「花川戸今昔」の改訂に携わった諏訪さん

こうした花川戸の歴史をまとめた小冊子「花川戸今昔」の改訂に携わったのが、諏訪さんです。

花川戸の歴史がすべてわかる「花川戸今昔」

「花川戸今昔」についてのエピソードは、東京新聞のWebサイトにも掲載されています。

諏訪さんは花川戸で代々続く靴問屋の3代目。100年続く地元企業の経営者として、浅草を知り尽くした人です。浅草サンバカーニバルの運営を率いるなど、浅草の大きなイベントで諏訪さんの姿を見ないことはありません。

「1代目のじいちゃんは明治の終わりの生まれで、群馬県下仁田の農家の三男坊だった。農家の三男だから、当然食いぶちはない。15歳の頃に帽子屋に奉公に行き、昭和3年にじいちゃんの兄が東京で問屋を開いたので、兄を頼ってじいちゃんも子供靴の問屋を始めた。それがうちの会社の始まりなんだ」と、諏訪さん。

「3代目だそうですが、家業を継ぎたくないと思ったことはないですか?」と尋ねると、「思ったことはないね。僕は長男だったし、子どもの頃からそんなもんだと思っていたので、一度も浅草から離れたことはない。一度ここに住んじゃうと、他に住みたいとは思わないよね」

「そんなもんだと思っていた」、このキーワードは、浅草の企業が何代も続く決定的な理由なのかもしれません。街が好きで、親からも周囲の人からも「長男が継ぐもんだ」と言われていたら、継がない理由なんてないですよね!

海外を飛び回っていた、次男坊の西山さん

60年来のお付き合いというお二人の会話は、ほとんど阿吽の呼吸

かたや西山さんは、浅草で170年続く「甘味処・西山」の次男坊として、海外を飛び回るなど自由な生活を謳歌していました。

「僕らの時代は、家業は長男が継ぐものと決まってたからね。親からもお前は好きに生きていいと言われていたので、企業に就職して海外を飛び回ってた。ところが、海外に住んでいて「浅草生まれだ」と伝えると、いろいろ聞かれるんだよね。でも自分が浅草に興味がなかったから、答えられない。そんなんで日本に帰って、諏訪ちゃんと会ってたら、いつのまにか諏訪ちゃんに巻き込まれて地元愛に目覚めちゃった(笑)」

そんな西山さんは、今ではボランティアガイドとして浅草を訪れる人々を案内するなど、毎日のように浅草界隈を飛び回って地域に貢献されています。

ちなみに、西山さんのご実家の「甘味処・西山」は、地元でも有名な人気店だそうです。食べログの口コミを見ても、めちゃくちゃ美味しそうなので、今度ぜひ行ってみたいと思っています。

浅草の子どもたちは、もんじゃの鉄板で人生を覚えた

駄菓子屋のもんじゃが、同級生のたまり場だった

お二人に「子どもの頃の思い出は?」と尋ねると、真っ先に浮かんだのが「もんじゃ」でした。恥ずかしながら、もんじゃの発祥は月島かと思っていたのですが、どうやら正真正銘の発祥の地は浅草のようです。

「僕らが小学生の頃に駄菓子屋が数軒あって、もんじゃをやってたんだ。よく行ったのは、猿若町のもんじゃ。アルマイトのカップに、キャベツも何も入ってない小麦粉を溶いただけのもんじゃが入っていて、一人10円を払って皆でよく鉄板を囲んだよな」と、諏訪さん。

「もんじゃをスプーンで伸ばして食べるんだけど、皆で突っつくから、うまくやらないと持ってかれちゃうんだよね。だから、友だちとせめぎ合いながらもんじゃを食べるわけ。いま思うと、あの鉄板で人生を覚えたよな」

なるほど~!浅草の子どもたちは、もんじゃの鉄板でお互いに助け合い、せめぎ合うリアルな人生を学んだんですね!下手な勉強するよりも、よっぽど社会で活かせそう。

浅草のもんじゃは、月島のようにゴージャスな感じではなく、いたってシンプル。昭和40年創業の浅草もんじゃ「雷門 おすぎ」のおかみに言わせると、「あんなチャンチャンやって土手つくるようなのは、もんじゃじゃない」とのこと。普通にピッと分けるのが、元祖・浅草流なのだそうです。

諏訪さんの高校の授業に出て、バレてしまった西山さん

浅草小学校、蔵前中学校(現・浅草中学校)と同じ学校に通っていたお二人も、高校は離れ離れになり、諏訪さんは都立上野高校、西山さんは慶応高校に進学。

「西山ちゃんちはお金持ちだからなぁ」と諏訪さんが言うと、「諏訪ちゃんの高校は、制服もなくて自由な高校だったよね。僕なんか一度、諏訪ちゃんの高校で授業受けちゃったことがあったよ。最初は気付かれなかったけど、よせばいいのに手を上げちゃったもんだから、バレちゃったけどね」と西山さん(笑)

何とも浅草の人らしい、落語のようなエピソード!昭和の頃って、そういうジョークが許される時代でもありましたよね。

少しずつ変わりつつある浅草

外から見ただけでは気付かない、浅草の変化

そんな愉快なお二人ですが、浅草が少しずつ変わっていくのが、ちょっと心配でもあるようです。

「浅草は観光客も住民も増えているけれど、昔のような感じではなくなってる。問屋の主人みたいな人たちが、店をたたんでしまって、そこにマンションができた。住んでいる人は勤め人だから、平日に地域の活動ができないし、お祭りに参加できない人もいる。今までの浅草とは、ちょっとずつ違ってきているのを感じるよね」と、諏訪さん。

常に観光客で賑わい、「仲見世」「浅草寺」「お祭り」と、昔ながらの日本を求めてたくさんの人が訪れる浅草。そんな浅草にも、時代の波は少しずつ押し寄せているようです。

「浅草がいまの時代に合わせて変わるんじゃなく、いまの時代が浅草のように変わる方法はないだろうか?」と、浅草ファンの一人として、思わずにはいられません。










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