【短編小説】よそ行きのワンピース



 「ええ、そうなんです。紙幅の都合でですね…… はい。誠に申し訳ありません。その代わりと言っては何ですが、次号では巻頭のカラーページに掲載させて頂きますので…… ええ。もちろん写真もたくさん載せますよ。はい……

 ということで、色々とご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします…… はい。ではゲラが仕上がりましたら、またご連絡させて頂きますね。ええ…… はい。それでは、失礼いたします」


 大阪の大学を卒業した秀明は、パン専門の雑誌を発行する出版社に入社した。出版社は東京にあり、秀明は初めての一人暮らしを東京の地で始めることになった。

 そういうわけで、秀明は二○○七年の三月に上京した。 

 これは、その年のお盆休みに秀明が大阪の実家に帰省をした時の話である。


 「ちょっと、あんた、やめてや」母親の路子が言った。「まだ半年も経ってへんのに、もう東京弁染ってるやんか。そのイントネーション。気持ち悪いからやめて。寒気するわ。あー、さむ。暖房でも点けよかな」

 「全然気付かんかったわ。でも、なんか丁寧な言葉喋ろう思たら、なんていうか、大阪弁ってちょっと下品な感じすんねん」

 「何が下品や。その感覚がもう東京に気触れとんねん。ああーいやや、いやや。お母さんあんたのことそんなふうに育てた覚えないんやけどな」

 「そんなん言うても、お母さん。そもそもな、東京弁なんか言うてる時点で田舎臭いんやて。向こうではみんな標準語って言うから」

 「ああー、ああー、そういうとこ。そういうとこが気に食わんねん。田舎言うて、うちは大阪市内のバリバリの都会やないか。

 それに標準語って、そんなもん誰が決めたんな? なんで東京が標準で、その他が方言って言われなあかんの? ずいぶんお偉い方なんやね、東京ってところは」


 路子は、大阪生まれ大阪育ちの生粋の大阪人である。東京の話題になるといつもこんな具合だ。秀明が東京に就職することに決まった時だって、「あんた、東京に媚びたらあかんで」と、祝いの言葉など一言もなかった。


 「そもそもやで、あんた。向こうの人らいうたら、大阪人のことちょっと下に見てる節があるやろ。

 こないだなんか、重子さんのお父さんのお通夜の時、うちのお父さんがどうしても行かれへん言うから、お母さんが代わりに東京まで行った時な。

 あん時だって、みんなして『路子さん、やっぱり大阪の人ね。“飴ちゃん”って初めて生で聞きましたわ』って。ほんで、お母さんが何かの拍子に『なんでですのん』言うたら、『あら、漫才みたいでおもしろいわね』って。

 うちはピエロちゃうっちゅうねん。ほんま失礼な。ほんでおもろいんやったら、笑えっちゅうねんな。『おもしろいわ』って、なんやあの芸事でも嗜むような感じ。嫌やわ。

 とにかく、あのよそ行きのワンピースにハイヒール履いて、小股でコツコツ歩くようなあの話し方が気に食わんねん。『ざます、です、ええ、おほほほほ』みたいなあの感じ。腹立つわ」

 「お母さん、そんな偏狭な考え方してたら、古い人や思われるで。今はもうそんな時代やないねんから」

 「あー、出た出た。すぐそうやって難しい言葉使うやろ。ちょっと大学出たからって、やめて、ほんま。何が『へんきょう』や。そういう専門用語は仕事の時だけにしてもらえる?」

 「何も、専門用語ちゃうやん。ともかく、郷に入れば郷に従えって言うくらいやねんから、ちょっとくらい標準語喋ってもええやんか。

 俺なんか、向こうの人からは『森本くんは、まったく関西弁が抜けないよね』って言われてるくらいやねんで。

 ほんで、こっちが気付けな、向こうの人ら、こてこての関西弁で話すとなんかちょっと乱暴な感じ受けるらしいねん。仕事であんまり印象悪かったら、色々と面倒やん」

 「そうやってみんな東京に染まっていくんやね。お母さんよーくわかりました。

 でも、あんた、よう覚えとき。うちのお父さんも、単身赴任で四年間東京に住んでた時期があったやろ。あんたがまだ小さい頃のことや」

 「覚えてるよ。でも、厳密に言うと、お父さんが行ってたんは、東京じゃなくて所沢やで。あそこは埼玉や」

 「そんな細かいこと気にしな。ほんまなんか言うたら、つべこべ言い返してきて。誰に似たんや。

 まあええわ。ほんで、お父さんは四年間の単身赴任のあいだ、まったく向こうの言葉に侵されへんかったんやで。立派なもんやわ。あんたもお父さんの子なら、なんちゅうか、大阪人のプライドみたいなもんはないんかいな」 

「いや、別にそんな意地張らんでもええんちゃうの。たかが言葉くらい」 

「いいや、あんたはわかってない。言葉に全部出んねん。その人の人柄とか、人間性みたいなもんが。

 あんたの東京弁はなんか胡散臭いわ。人間性がよう出とる。あんた、言葉を軽んじてたら痛い目に遭うで。ほんまに気付けや。お母さんが忠告しといたるわ」


 秀明は、まさか、一本の仕事の電話から、こんなにやいやい言われることになるとは思ってもみなかった。

 このまま母親と言い争いをしても、そもそも母親に口で勝てるわけがないし、いつまで経っても話は平行線を辿るだけだと思い、秀明は台所の換気扇の下で一服をすることにした。


 森本家では、秀明だけが喫煙者だ。父親も昔は喫っていたのだけど、秀明が喫い始める頃にはすでに卒煙していた。

 以前に父親が喫っていたということもあって、家には灰皿があった。だから「外に出て喫いなさい」とは言われないまでも、家の中で喫う時は、台所の換気扇の下で肩をすぼめ、申し訳なさそうに喫わなければならなかった。

 一応、森本家には、そんな喫煙者の最低限の人権を擁護する規則があった。しかし、たとえ規則を守っていたとしても母親の虫の居所が悪い時なんかは…… 


  秀明のあとを追うように、路子が台所にやって来て、夕飯の支度を始めた。

 「ちょっと、あんた。いつんなったら煙草やめんの? ああ、もう、そんなスー、ハーせんといて。あんたの喫い方嫌らしいわ。そんな肺の底まで喫い込むような喫い方やめて。みっともない。

 うちの家系はな、みんな肺がんで死んでんねんで? 知ってるやろ、あんたも。森本のおじいちゃんだって、うちのおじいちゃんだって、みんな煙草で死んだんやで。後先考えずスー、ハーやって死んだんや。ほんまアホとちゃうか。スー、ハーしたいなら外出て深呼吸しとけっちゅうねん。

 ほんでね、なにより家ん中臭なるねん。煙草吸ってええことなんかひとつもないんやから。あれや、あの、百害あって一つもなんたらや」

 「一利なしやろ。百害あって一利なし。そんくらい大学行かんでも習うやろ」

 「そうやってすぐ母親のこと馬鹿にして。あんたもお父さんと一緒で、お母さんのことアホやと思てんねやろ。大学では親を尊敬しなさいって習わんかったんかいな? それこそ大学行かんでも習うことやろ」


  あまりにも言われっぱなしの秀明は、段々と母親に何かを言い返してやりたくなってきた。

 さっきも言ったように、言い返したところで、口喧嘩で母親に勝つ見込みなどほんの少しばかりもないのだけれど、その時の秀明にはもう冷静な戦況分析など出来る余裕などなかったのだ。

 「差し迫った時にこそ冷静でいられるかどうかが勝負の要諦である」なんて考え方がある。しかしそれは、いかにも観念的で人間の実生活から遠く離れているところから発されたどこかの偉い人が言うような言葉だ。

 秀明はキレた。戦略などひとつもない。ただ、嫌味ったらしく、母親に反論してやりたかっただけだ。


 「お母さん。僕には大阪人の誇りなんてものは一欠片もないんだよ。まったく馬鹿らしいことだって思わないの? そんなことに固執する大阪人はみんな馬鹿だよ、馬鹿。

 テレビを点けてごらんよ。NHKだって、民放だって、みんな標準語でやってるじゃん。標準語にいちいち腹を立てるくらいなら、うちではテレビなんて見ないんだよね? あれ? 今点いてるテレビは消した方がいいのかな?」


 路子は、台所できゅうりを刻んでいる手を止め、秀明の方へ向き直した。その顔は、まるで鬼が宿ったかのような形相だ。

 言いたいことを思う存分言ってやった秀明は、一瞬だけ勝ち誇った気になったのだが、そんな優越感も束の間、路子の顔を見ると自分で自分の血の気が引いていくことがわかった。

 目の前にいたのは母親の路子ではなく、全世界の怒りを一身に背負ったかのような鬼だったのだ。

 きっと、鬼ヶ島の鬼がこんな気迫で桃太郎一行を出迎えていたら、島に到着するなり桃太郎たちもそそくさと退散したことだろう。それくらいの怒りのエネルギーが森本家の台所に漂っていたのだ。

 秀明にとって幸いだったのは、さっきまで路子の右手に握られていた包丁は、一旦まな板の上に置かれていたということだ。


 「秀明。あんた、さっきのお母さんの話聞いてた?」

 路子が本気でキレた時、いつもよりやや声量が落ちる。秀明はそのことをよく理解していたから、これは本当にまずいことになると察した。

 「お母さん、ごめん、ごめん。あれやん、冗談、冗談。俺としては、東京の人を馬鹿にするつもりで…… その、あれ、さっきのは、冗談で言っただけやねんけど…… ちょっとわかりにくかったかな……」

 秀明の表情筋は完全に引きつっている。笑おうと思っても、上手く笑えていないことが自分でもよくわかるくらいに。

 「秀明、あんたええ加減にしとかんと、二度とうちの敷居跨がせへんよ。大阪人舐めたら、ほんまあんた、いてまうで」

 「はい。ごめんなさい。ちょっと調子に乗りました」

 「わかったらええんや。ただ、“ちょっと”ではなかったよな」

 「はい。調子に乗りすぎました。すみませんでした」


 路子は、また振り返って台所に向かい、きゅうりの続きを刻み始めた。トントントンと、軽快な音が家の中に響きわたる。

 秀明は、大事に至らなかったことに安堵の表情を浮かべ、食卓の椅子に腰かけホッと一息胸を撫で下ろした。まさにその瞬間だった。

 「このアホ息子が!」

 路子が怒鳴り声を発したと同時に、台所からプラスチック製のコップが秀明に向かって一直線に飛んでくる。もはや秀明にはそれを避けるだけの持ち時間はなかった。

 見事にコントロールされたコップが秀明の額にぶち当たる。カーンという音が、頭蓋骨を伝って秀明の耳にはっきりと聞こえた。

 秀明の額を、地味だけど深みのある軽快な痛みが襲う。

 「お母さんに立てつくなんて百年早いわ!出直して来んかい、このヘタレ息子が!」路子は爽快な表情をしている。


 その時である。突然家の電話が鳴った。路子は、濡れた手を台所のタオルで拭き、「はいはい、今出るやんか。ちょっと待ちいな」なんて独り言を言いながら、電話機に向かう。路子が受話器を取る。

 そして、少しトーンの高い声で……

 「はい、もしもし、森本でございます。ああ、重子さん、先日はどうも。いえいえ。結構ですよ。

 あら! まあ、そうでしたか。それは、それは。本当に嬉しいこと。なんだか私も嬉しくなっちゃいましたわ。おほほほほ。他人のお孫さんなのにね。おほほほほほ。今度お祝いをしなくっちゃね。何がいいかしら……」


 路子の言葉を借りるならば、鬼だって、“よそ行きのワンピース”に身を包むこともあるということだ。




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