【短編小説】 マッチ・ボックス ②


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 「すみません。実はずっと我慢してたんですよ。ええ。すみません。ところで刑事さん。大原美術館に行ったことはありますか? え? それはいけませんね。岡山県民たる者、一度は行っておかないと。いや、というのもね、私が収集活動に精を出すようになったのは、大原孫三郎先生の影響が大きくてね。刑事さん、ちょっと、私の生い立ちを含めて、その話を少しだけしても構いませんか? いや、今般の件とまったく関係のない話ではないんです。いわゆる犯行の動機に大きく関わる話になるかと思うんです。はい、手短にですね。わかりました。

 実は、私の父方の曾祖母は、創業間もない倉敷紡績に女工として勤めてた時期があるんです。祖父から聞いた話なのですが、当時の女工の寄宿舎というのは、劣悪な環境だったらしいんですよ。衛生もへったくれもなかったといいます。それが、孫三郎先生が経営の指揮を執られるようになってから、みるみるうちに改善されたんだそうです。曾祖母は、曽祖父との結婚を境に女工を辞したそうなんですが、寄宿舎の改善をはじめ、孫三郎先生にはとても感謝をしていたそうです。私の家系が大原家と縁したのは、曾祖母が最初だったんです。もちろん直接には誰もお会いしていないんですけどね。それでね、聞いて驚かないでくださいよ、刑事さん。実は、私の祖父というのは、大工をしておりましてね、なんと、あの大原美術館の建設に携わったらしいんですよ。祖父は生涯自慢しておりましたよ。『俺は孫三郎先生のお仕事を手伝ったんだ』ってね。私の住まいは、ここの書類に書いてある通り、現在も倉敷市です。私の家系は、私の知り得る限りずっと倉敷なんです。ちなみに、私の父は運送業をしておりました。ええ、私はそれを継ぐことになったんです。私は幼い頃から、『孫三郎先生は偉大なお方なんだぞ』という話を祖父から何度も聞かされました。私の祖父の孫三郎先生への尊敬の念というのはものすごいものがあって、例えば、自宅で寝る時なんかには、大原美術館の方角に足を向けて寝てはいけないなんて真剣に言われていたくらいです。まあ、自分が建設に携わったということもあったんでしょうけどね。家から歩いてすぐのところに大原美術館があったもんですから、私は小さい頃から何度となく大原美術館に足を運びました。

 大学受験の頃、私はどうしても実家を出たいと思っていました。東京に行きたかったんですよ。誰もが経験するあれですね、ええ。だけど、私の家は決して裕福ではありませんでしたので、私の両親は、私が東京に行くことに反対しました。しかし、私はどうしても東京に行ってみたかったので、祖父に相談することにしたんです。すると、祖父は『孫三郎先生が通った大学に行くのなら学費は工面してやる』と言いました。そうです、あの私立大学ですね。私は猛勉強しました。学校での成績はどちらかというと良い方だったのですが、まあ、わりと真剣に受験勉強を頑張りました。その甲斐もあって、私はその大学に入学することが出来ました。私が上京したのは、一九八六年のことでした。もう東京は、天国でしたね。ちょうど、最も華やかで元気な時代だったでしょう。私は、勉強なんかにはまったく手を付けず、遊びほうけていましたよ。アルバイトなんかもしてね。まあ、あの頃は、努力なんてしなくてもすべては良い方向に進んで行くという暗黙の了解みたいなものがありましたからね。本当に楽しい時代でした。しかし、私の放蕩生活もわずか二年で終わることになります。

 一九八八年、私が大学三年生の春に、突然父が亡くなったんです。脳梗塞でした。学費は祖父が負担してくれていたのですが、家にはまだ高校生の弟と、中学生の妹がいたんです。母親はすぐに働きに出ました。それでも家計をやりくりするには大変だったので、私は大学を辞めて倉敷に戻り、父の稼業を継ぐことにしたんです。私が東京で学んだことは二つだけです。一つは東京というのは本当に美術館が多い都市で、私は授業をサボってよく美術館を巡りました。それで、気がついたんですよ。まあ、私はそんなに美術に詳しいわけではないんですが『ああ、大原美術館というのは本当にすごい美術館なんだ』って。曾祖母や祖父が孫三郎先生を尊敬している理由がほんの少しだけわかった気がします。それから、もう一つがミニカーです。私が最初に購入したミニカーは、エブロが作った日産シルビアのCSP311型でした。大学二年生の頃でしたね。もう、クリスプ・カットのボディ・ラインが本当に美しくてですね! 今でももちろん持ってますよ! 

 それでね、私は、特に自分が何かの失敗をしたわけではなかったんですが、なんとなく挫折をした気持ちで倉敷に戻って来たんです。すぐに父のやっていた仕事を継ぎました。それを今もやっているということなんですけどね。私が、孫三郎先生も大学を中退していたということを知ったのは、倉敷に戻って数年してからでした。たまたまクラボウで働く知り合いがいて、その人から聞いたんです。私は、こう言うと孫三郎先生に申し訳が立たないんですが、どこか親近感を抱いてしまいましてね。その時に決めたんです。孫三郎先生を生涯の師匠にしようって。それからというもの、先生のことを徹底的に知ろうとしました。休みの日に図書館に通っては孫三郎先生やクラボウに関連している本を読みました。そして、もちろんいつまで経っても孫三郎先生の足元にも及ばないことは承知の上で、私も孫三郎先生のような人間になりたいと思うようになったんです。十年先は見えなくても、せめて一か月先くらいまでは見えるかもしれない、そう思ったんです。ただ、私は先生のように幅広く事業を展開する才も資産も持ってはおりませんから、どの分野で孫三郎先生の精神を継承していこうかと考えました。そこで、私の頭に浮かんだのがミニカーの収集だったんです。

 孫三郎先生は、広く日本の大衆に西洋美術というものの門戸を開くことに使命感を持っておられました。もちろん美術館の創設には児嶋虎次郎先生との友情ということもありますが、私は、孫三郎先生の人格や、先見性、それから文化、芸術に対する敬意のようなものが、西洋美術の収集、そして美術館の創設に絶対的に欠かせないことだったんじゃないかと思っているんですよ。

 いまでもよく大原美術館に行くんですがね、正面玄関に設置されている「カレーの市民」のジャン・デールの彫刻には、孫三郎先生の意志が宿っている気がするんですよ。いや、もちろん、「カレーの市民」は孫三郎先生の生きた時代よりもずっと前の出来事ですし、彫刻そのものを作ったのはロダンなんですけどね。だけど、モノにはそれを所有する人の魂みたいなものも宿るんじゃないかと思っているんです。いつもあの彫刻の前に立つと、人々のために立ち上がったカレーの六人の勇者たちと孫三郎先生の姿が私の頭の中で重なるんです。とにかく、私は岡山が誇る大偉人であられる大原孫三郎先生に影響を受けて、人類の文化財を守るという志でミニカーの収集に努めているということなんです。そのことを、刑事さんに知っていてもらいたかったんですよ。結局、長い話になってしまいましたね。すみません」


 「さて、話を戻しましょう。昨年の、年の瀬も年の瀬、十二月三十日の午後九時頃に奥さんから電話がかかってきたんです。私は、『まさにこのときのために今日まで生きてきたんだ!』と言わんばかりに、嬉々として電話に出ました。

 『良子が帰ってきてね。例の件、聞いてみたんだけど……』奥さんの声を聞いただけで、電話の向こう側で浮かない顔をしているんだろうなということがわかりました。『あなたには本当に申し訳ないんだけど、良子、ミニカーはどうしても譲りたくないって言うの』

 『どうして!』私は、奥さんの言葉を受け止めたくなかったんでしょう。無意識のうちに絶叫していました。私の中ではもう譲ってもらえるものと思っていましたからね。

 『それがね、あのミニカーは良子が幼い頃に、お父さんが良子に買ってきてくれたものらしいのよ。だから、南アフリカの自宅に持っていくって言うの。形見としてね。あの人言い出したら聞かない人でね。本当にごめんなさい。なんか私、変な期待をさせてしまったみたいで』奥さんは本当に申し訳なさそうにそう言いました。

 電話を切ったあと、私はこれまでの人生で味わったことのないくらいの圧倒的な虚無感に襲われました。もう、生きる意味なんてないって思えるくらいに。だってね、筋が通ってないじゃないですか。そう思いませんか? 刑事さん。水村さんいわく、幼い頃の良子さんは『そんなものいらない』って言ったんですよ。そう言ったのが良子さんなのかどうかは定かではないですけどね。それで、お義父さんのコレクションになったわけでしょう。目の前に、長年手に入れたかったお宝があるにも関わらず、それをどうしても手に入れられない虚しさ。刑事さんにわかりますか? このときの私の気持ちが。

 でもね、確かに私はショックを受けたわけですけど、それと同時に何と言うか、さっきもお話したような『収集家の使命感』みたいなものが沸々と自分の底の方から湧き上がってくる感覚があったんですよ。『なんとしても手に入れなければならない!』というね。そこで私は、言ってもダメなら盗んでしまうしかないと思ったんです。あんな貴重なものを、素人の手に預けておくことはできませんよ。

 刑事さんは知らないでしょうけどね、ミニカーをちゃんと保管するのには大変な手間がかかるんですよ。例えば、熱可塑性のプラスチックは経年変化でサイズが縮んでしまいますし、ダイキャスト素材なんかは結晶粒間腐食割れ現象が起きてしまいますからね。あと、塗装の劣化にも気をつけなきゃなりません。とにかく、照明の当て方や、湿度とか温度の微調整が欠かせないんですよ。そういう細かなことをきちんとしていないと、例えばミニカーのドアがうまく閉まらなくなったり、塗装がひび割れてしまったりするんです。そうなってしまっては、せっかくの貴重な代物が台無しなんです。だから、あれだけの品を素人の手元に置いておくということは、我々からすればミニカーに対する冒涜になるわけですよ。おそらくこれは、どの収集家に聞いてもそう言うでしょうね。言わば、人類にとっての大損失ですよ。だからね、私は、後世の人類のためにミニカーを盗むことにしたんです。刑事さんには、少し大げさな話に聞こえるかもしれませんけどね」




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マッチ・ボックス <3>
https://note.mu/mor_i/n/n5f2d0e98e936


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マッチ・ボックス <1>
https://note.mu/mor_i/n/n92460647d5ad



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