【短編小説】 鼻の下



 いつもの整体院は、五階建ての古びたビルの二階にあった。二階へは階段で上がることもできるのだが、階段は屋外にあり、仄暗く、薄気味悪いので、ビルの利用者はみんなエレベーターを使うのだった。

 漫画家は一階のエレベーター・ホールにいた。午後三時から整体院の予約を入れていたのだ。時刻は二時五十三分。

 漫画家はいついかなる時も五分前行動を心がけている。この習慣は何も学校で教わったからそうしているわけではない。五分遅く行動するよりも五分早く行動した方が、何かにつけて功利的であるという結論を、彼自身の経験から導き出していたからである。漫画家は、極めて合理的であり、実際的な人間なのだ。

 五階から下りてきたエレベーターは、人を乗せたのか降ろしたのか、一旦二階で止まってから一階へと下りてきた。エレベーターの扉が開くと、中からは世の男なら誰もがその容姿に釘付けになるであろう、美しい女性が降りてきた。真っ黒なショート・カットが特徴的で、ピンクの短いスカートに白のカットソーという服装だ。

 女は漫画家に向かって軽く会釈をして、コツコツと軽やかな音を響かせながらビルの外へと出て行った。女からはとても良い匂いがした。漫画家は、女の後ろ姿を余すところなく見ていた。

 漫画家はエレベーターに乗り込み、二階のボタンを押す。エレベーターの中には、女のものであろう甘く芳しい香りが漂っていた。女の残り香を一人で満喫した漫画家は、二階で降りた。

 整体院の中に入ると、受付の前にある二人掛けの深緑のソファーに腰を下ろした。そこで時計を見た。二時五十五分。いつも通りぴったり五分前の到着だ。

 待合室 ― とは言っても、ほんの狭いスペースなのだが ― には、いつもテレビの音声だけが聞こえている。昼の情報番組だ。当のテレビは、施術室か受付の中にあるのだろう。

 その整体院は、三十歳前後の男性が、受付から施術まで、すべてを一人で切り盛りしている町の小さな整体院だ。広く広告を打つこともなく、近隣の人々の口コミだけで客を獲得している完全予約制の店である。そのあたりでは評判が良く、確かに腕は悪くなかった。

 漫画家は、週刊誌でいくつか連載を持っており、一週間をほとんど毎週同じスケジュールで過ごしている。週末が原稿の締め切りなので、すべての原稿を提出した翌日、つまり月曜日の午後三時からの一時間半が、週のうちで唯一漫画家の“修復”の時間だった。かれこれもう三年近くこの整体院に通っている。

 午後二時五十八分。整体師が漫画家を施術室へと招き入れる。もう慣れたもので、ポケットの中の貴重品を小さな籠に入れ、漫画家は仰向けに施術台に寝転がった。ほどなく整体師の熱を帯びた分厚い手が、漫画家の頭部を揉み解し始める。

 「先生、お仕事の方は相変わらずお忙しいですか?」整体師が言った。

 整体師は漫画家のことを“先生”と呼ぶ。最初の頃は漫画家も、「よしてくださいよ」なんて言っていたが、整体師が懲りずにそう呼んでくるものだから、好きに呼ばせることにしておいた。

 「うん、とても忙しいですよ。お陰さまでね」漫画家が答える。

 「それにしても、漫画家という職業は、あれですね。肉体労働なんですね」

 「肉体労働と言うと何だか違う気がするけど、間違いなく酷使しているんだろうね。もう肩から背中にかけてバキバキですよ」

 施術はいつもこんな感じの他愛もない話で始まった。頭部から始まり、肩、右腕から右の指先まで、そして、左の腕から左の指先まで。

 漫画家は、あまりにも疲れている時なんかは別にして、施術中はいつも整体師と会話をするようにしていた。特に共通の趣味があるというわけではなかったのだが、漫画家と整体師は会話のリズムがとても合うのだった。ある時は整体師が話し、漫画家がそれを聞く。またある時は漫画家が話し、整体師がそれを聞いた。彼らはともに話題を欠くことがなかった。

 どうやら、その日は整体師が話をする番のようだ。ちょうど、左の指先を揉み解している時だった。

 「いや、実はね」整体師が言った。「僕には、何て言えばいいんだろうな…… わかりやすく言えば…… 僕には特殊能力のようなものがあるんですよ。特殊能力と言うと、何だか胡散臭くなるんですけどね。僕がその不思議な能力に気がついたのは、あれは確か二十代の前半頃でしたね」

 整体師と漫画家は、出会ってまもなく三年になるのだが、整体師が漫画家にこの話をするのは初めてだった。

 「その能力というのはね、例えば電車にある男が乗っていたとするでしょ。そこに、途中の駅でとても綺麗な女の人が乗車してくる。するとね、僕は男がその女に好意を持っているかどうかということが瞬時にわかるんですよ。つまりね、その男の心が読めるとでも言えばいいんですかね」

 「それは、男の表情とか、目のやり方なんかでわかるの?」

 「いや、そういうことではないんです。何となくわかるんですよ。どう説明すればわかってもらえるかな。男がその女の存在を認識した瞬間に、僕にはわかるんです。嗅覚で匂いを嗅ぎわけられるように、視覚が色や形を識別するように、女に好意を持った男が発する“何か”を、僕の何らかの器官が感知するんですよ」

 整体師は、漫画家の左腕をそっと施術台の上に乗せ、右足のマッサージに取り掛かった。

 「例えばね、友だち同士というか仲間内で、誰々が誰々に好意を持っているんじゃないか、みたいなことは誰だって察しが付く部分があるじゃないですか。そういうのとはまったく違うんですよ。それから、最初に言ったように、男が女に好意を持っているかどうかだけがわかるんです。その逆は駄目。女の人の気持ちはわからないんです。

 だからね、要するにこういうことですよ。僕には、男が“道行く女”や“電車に乗り合わせた女”を見かけた瞬間に、好意を示したかどうか、ただそれだけを感知する能力があるんです。自分でもうまく説明が出来ないんですけど……」

 「うーん、にわかに信じがたい話だな……」

 「いや、あのね、僕はそういう霊的というか、“感じるもの”ってあると思うんですよ。五感とは別のところで察知してしまう能力って誰にでもあると思うんです。それを第六感とか、超能力って言ってしまうから何だか胡散臭くなるんですよ。そういう、根拠はないけれど何かを“感じる”って経験、先生にはないですか?」

 「申し訳ないけど、僕にはそんな能力はないね。しかも僕は君の言うことを信じることができない。僕は、それを裏付ける根拠のようなものがないと物事を信じないことにしているんだよ。君は、君自身の能力について僕に証明することができる?」

 整体師は、漫画家の右の足を抱え込み、股関節を大きく回している。

 「証明と言われるとね…… 難しいんですが…… じゃあ、つい先日のお話でもしましょうか」整体師は右足の施術を終え、左足を持ち上げた。「先週の金曜日の晩の話です。土曜日は昼からの診療なので、金曜日の仕事が終わると、僕はいつも駅前に酒を飲みに行くんですよ。その日は、バーに行きました」

 「駅前のバーって、もしかしてスウェル?」

 「そうです、そうです。あの首藤クリニックの向かいの。行ったことありますか?」

 「行ったことも何も、あそこ、僕の中学の同級生がやってるんだよ」

 「ああ、そうでしたか。今度行ったら聞いてみますよ。先生のことご存知ですよねって。

 でね、僕がスウェルに入ったのは、確か夜の八時くらいでした。ボックス席には四人組の男女と、三十代前半くらいの男性の一人客。それからカウンターには、中年の男女、たぶん夫婦ですね。客は、僕を入れて四組だったんです。

 僕はカウンターに座りました。えーっと、確か、生ビールを頼みましたかね、最初は。で、店内にはマイルス・デイヴィスのバラードなんかが流れていてね。僕は今週もよく働いたな、なんて思いながら一人でしっぽりとやってたんですよ。チーズの盛り合わせなんか頼んじゃってね。

 で、あれは確か、九時をまわったくらいだったかな。入口の扉が開きました。あそこ、昔ながらというか、ドアにベルが付いてるじゃないですか。だから、新しい客が入ってくるとすぐにわかるんですね。

 入って来たのは、若くて綺麗な女性でした。一人っきりで。まるで女優さんのような容姿でね、足が長くて、とっても美人でした。もしかしたら、あの人、そういう関係のお仕事をされているのかもしれません。服装もOLという感じでもなかったですから。

 でね、その瞬間ですよ。僕の何らかの器官が、さっき言った“何か”を感知したんです。その“何か”を発していたのは、ボックス席の三十代前半の男でした。間違いありません。彼はちょうど僕の後方に座っていたんですがね、僕にはわかったんです。男がその女に好意を持っていることが。

 女は常連なんでしょうか、まっすぐにカウンター席にやって来て、一番奥の席に座りました。あの…… 蓄音機の前の席です。

 そして、マスターに『いつものやつをください』と言いました。よく映画なんかで見る光景ですよ。あんな台詞、一度でいいから言ってみたいもんですね。

 で、出てきたのは…… 僕は酒に詳しくないので何だかよくわからないんですが、カクテルみたいな…… たぶんあれはカクテルですね。マスターが何やらシャカシャカやってましたから。綺麗な青色の飲み物でした。グラスの口の部分にパイナップルが飾ってあるやつです。とにかく、女の容姿にとてもよく似合ったオシャレな飲み物ですよ。

 女は、手慣れた手付きでそれを飲んでいました。マスターと話をするわけでもなく、一人でゆっくりとカクテルを飲んで、BGMなんかを嗜んでいるように見えました。その間も、ボックス席の男の“何か”はずっとあたりに漂っていましたね。いや、その“何か”は段々強まっているようにも感じました。

 ちょうど女が店に入ってきてから三十分くらいが過ぎた頃だったでしょうか。ボックス席の男が、突然カウンターの席に移動してきました。僕は、「やっぱり!」と思いましたよ。男は、女の二つ隣の席 ― そのまた二つ隣に僕は座っていたんですがね ― に腰を下ろしました。

 もうここまで来るとね、“何か”とかじゃないんですよ。はっきりと、男から漂うのは、誰の目から見ても“下心”ですよ。見え見えの“下心”です。男は必死に平静を装っているんですがね、クールに決めているつもりなんでしょうけど、もう、鼻の下は伸び切って、目尻は嫌らしく下がってましたよ。そういうのって、自分では気づかないんですよね。まあ、男というのは多かれ少なかれ誰にでも“下心”があるもんなんでしょうけどね」

 「男と言えども、みんながみんなそういうわけでもないだろう」漫画家が口を挟んだ。

 「ああ、これは失礼しました。先生のようなきちんとされた方には、“下心”なんてないかもしれませんが、世の男の大半はそういうやましい心を持っているもんなんですよ。

 まあまあ、そんなことはさて置いて、ここからは、僕の特殊な能力とは関係のない話なんですが、終わりまで話をしても構いませんか?」

 整体師は、左足の施術を終え、漫画家にうつ伏せになるように指示した。

 「もちろん。聞かせてもらうよ」漫画家はうつ伏せになった。

 整体師は、漫画家の首のあたりを揉みながら話を続けた。

 「僕は男が席を移動してきた時にね、これまた映画の世界での出来事を拝めるかもしれないと、内心ワクワクしていました。だって、そこはバーですよ。マイルスのレコードが流れているようなオシャレなバーで、目の前にいるクールを決め込んだ男が、若い綺麗な女性をナンパするわけですから。そんなの滅多に見られるものじゃないでしょう。

 でもね、女はといえば、男が移動してきたことを気にも留めていない様子でした。まったくその男に興味がないような素振りでしたよ。

 男はとりあえず“シンガポールなんとか”というカクテルを注文しました。すると、マスターがまたもやシャカシャカやって、出てきたのはこれまたオシャレな飲み物ですよ。淡い赤色のカクテルでした。男はそれを一口飲んで、まさに女に声をかける機を見計らっていました。

 僕はね、あれですよ。このあと男がどんなふうに女に声をかけるのか、まるで自分のことのように一人でシミュレーションをしていたわけです。僕は、行きずりの女に突然声をかけるような、そんな軟派なことをしたことがありませんからね。段々僕も緊張してきましたよ。

 男はずっと手に持ったグラスを眺めていました。たぶんカクテルが出てきて五分くらいはそんなふうにしていたと思います。

 でね、いよいよ男が決心をして、グラスを見ていた顔を女の方に向けたんです。その瞬間でした。突然、女の携帯電話が鳴ったんですよ。女はバッグの中をガサゴソとして、携帯電話を見つけ出すと、その着信に応じました。「もしもし」って。

 男にとっては、まったくもってタイミングの悪い電話ですよ。男は、一旦女の方に向けた顔を、まるで別のところを見るかのように、グイッと違う向きに回し、あたかも女に興味なんかないと言いたげな表情でまたグラスに視線を落としました。

 僕は、まるで何かのコントを見ているような気がしましたよ。でも、必死な男の姿がすぐそこにあるわけでしょう。笑いを堪えるのに必死でした。

 で、女の電話の相手は、たぶん女友だちなんでしょうね。何やら、彼女たちは“男”について話をしているようでした。びっくりしたのは、女の話し方ですよ。それというのは、電話の相手が友だちだということもあったんでしょうけど、その容姿には似つかわしくないくらいに、辛辣な言葉遣いだったんです。彼女は電話口に向かってこんなことを言っていました。

 『だから言ったじゃない。あたし、あいつのことを一目見た瞬間に胡散臭い野郎だと思ったわよ。あの時だって、すぐにそう言ったわよね? なのに、あんたったら、運命の人がようやく現れたとか何だとか言って、あたしの忠告なんて全然聞こうとしないんだから。まったく呆れてものが言えないわ。で、どうすんのよ?』ってな感じですよ。

 男は、女の見た目から、おしとやかで上品な口調を想像していたんでしょうね。声をかけるかどうか躊躇いだした様子でした。まさかそんな辛辣な女だとは思っていなかったんでしょう。しかし女はまわりのことなど気にもせず続けました。

 『そもそもね、流行だか何だか知らないけど、ショート・パンツにプロデューサー巻きなんかしている時点で、そんな男はみんな胡散臭いやつなのよ。あいつら自分で“すね毛”剃ってるらしいわよ、“すね毛”。もう、気持ち悪いったらありゃしないわよ』ってね。

 もう僕なんかは、彼女の舌鋒鋭い演説に聞き入ってしまいましたよ。あんなにも痛烈にものを言える女が、何だか格好良く見えてきてね。僕は別の意味で彼女に惚れちゃいましたよ。そんなこんなで、僕は彼女に見とれていたんですがね、ふいに彼女から隣の男に目線を移すと、男はなぜか顔を真っ赤にしているんですよ。小刻みに震えているようにも見えました。

 何があったんだろうと、よくよく男の姿を見てみるとね…… なんと! 男の服装ですよ! なんと男は、ピンクのショート・パンツにネイビーのカーディガンを、まさにプロデューサー巻きにしているじゃないですか!

 で、僕は二つ隣の席に座っていたからよく見えたんですがね、男の“すね”はツルツルなんですよ! きっと自分で“お手入れ”をしてたんでしょうね。もうその時には、男の“下心”はどこか遠くの方に消え去っていましたよ。顔を真っ赤にしてね。露わになった両の“すね”を交互にもう片方のふくらはぎに擦りつけて、女に見られないようにしていました。モジモジと。

 その後も、女はああだこうだと、電話相手と“男”について話を繰り広げていました。僕の二つ隣の男はどんどん顔を赤くして、しまいには耐えられなくなって、そそくさと元いた席に戻っていきましたよ。

 男のことを思うと少し不憫にも思いましたが、女の話があまりにも辛辣だったので、僕は何だか気持ちがすっきりしましたよ」

 そこまで話をすると、整体師は一旦施術台を離れた。

 「面白い話だけど、それ本当の話かよ。君の作り話じゃないのかい?」漫画家は、笑いながらそう言った。

 エアコンか何かの温度調節をしたのだろうか、“ピッ”という音のあとに、すぐに整体師は戻って来た。

 「まさか! 本当の話ですよ! まあ、確かに、僕の特殊能力の証明にはなっていないかもしれないですけど、これは本当にあった話なんです」

 「わかったよ。その話は本当の話だとして…… でも、君が自分で言ったように今の話は何の証明にもなっていないね。だから、僕は君の特殊な能力について信じることができないよ」

 「先生、じゃあ、仕方ないですね」整体師は、漫画家の腰のあたりを揉み解している。「僕もこれについては言いたくはなかったんですけど、ここまで話しても信じてくれないなら、とっておきのを言いましょうか?」

 「とっておきのって、なんだよ」

 「気分を悪くしないでくださいよ。先生、今日ここに来るまでに、誰か女性に会いませんでしたか? 心惹かれるような美しい女性に。それも、おそらくこのビルの中か、ビルの周辺で」

 漫画家は、ビルのエレベーター・ホールですれ違った女性のことが頭に浮かび、急に顔が熱くなった。

 「いやあ、僕の何らかの器官が、ここに入って来る先生から漂う“何か”を感知しちゃいましてね。

 それだけじゃないですよ、先生。ここに入って来た時の先生は、少しだけ鼻の下が伸びて、嫌らしく目尻が下がってましたよ」




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