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【短編小説】 健康同盟



 「私、須原美幸と申します」男はとても丁重な手つきで名刺を差し出した。「こちらの席、よろしいでしょうか?」


 望月絋平は、夜の七時に駅前のコーヒーショップで彩子と待ち合わせをしていた。

 思っていた以上に早く職場を出られることができた絋平は、約束の時間よりも三十分も前にその店に到着した。レジでアイスコーヒーを注文し、喫煙席で美味そうに煙草を嗜む喫煙者たちを尻目に、空気の綺麗な禁煙席に腰を下ろした。

 というのも、禁煙を始めて明日でちょうど一か月が経つのだが、未だに煙草の煙の匂いを嗅いだり、目の前で煙草を喫われたりすると、絋平の口元と右手の二本の指は寂しくなるのだ。そういうわけで、絋平は喫煙席に背中を向けるような席を選んだ。二人掛けの席だ。

 ストローの紙袋を引きちぎり、氷が山ほど入ったアイスコーヒーのコップにストローを差す。コップを持ち上げるのではなく、顔をストローに近付けてコーヒーを飲んだ。キンキンに冷えていたから、眉間の奥がキューっと痛くなった。

 ちょうどその時だった。目の前に細身のネイビースーツにオレンジのネクタイを締めた男が現れたのだ。いかにも清潔感が漂うその男は名刺を差し出したかと思えば、いきなり相席を申し出てきた。そう、須原という男だ。

 絋平は、一瞬のうちにこれは何かの間違いか、あるいは以前仕事か何かで会ったことのある人か、などとあれこれと詮索してみたのだが、その男と出会ったのは間違いなくその時が初めてだった。


 「あの…… 何かの間違いじゃ……」絋平は、差し出された名刺を受け取らなかった。

 「望月さんですね?」須原と名乗る男が言った。

 「ど、どうしてご存知なんですか?」須原はその質問には答えなかった。

  「まあ、とりあえず、こちらの席、失礼しますね」そう言うと、須原は絋平の向かいの席に腰を下ろした。

 「あの…… 以前どこかでお会いしましたか?」

 「いいえ。今日が初めてになります。改めまして、私、須原美幸と申します」須原は再び名刺を差し出した。

 絋平はまったく状況を飲み込めていなかったのだけど、ひとまずそれを受け取るしかなかった。名刺には、「健康同盟・須原美幸」とだけ書いてあった。

 「健康同盟……」紘平が独り言のように言った。

 「はい。左様でございます。健康同盟というのは、いわゆる秘密結社のようなものです」

 「秘密結社?」紘平は驚きを隠しきれない。

 「ええ。フリーメイソンのようなね。望月さんは、フリーメイソンのことはご存知ですか?」

 「いや、ええ、まあ。名前くらいは」紘平はコーヒーを一口飲んだ。

 「でしたら話は早い。健康同盟というのは……」

 「あの、ちょっと待ってください」須原の話を遮るように紘平が言った。「そもそも、あなた…… えーっと、須原さん。あなたは一体何者で、どうして僕のことを知っているんですか?」

 「まあまあ、落ち着いてくださいよ。そのことについては、順を追って説明をさせていただきますので」

 「そんなことを言われても…… 僕はこのあと予定があるんですよ。ここで、待ち合わせをしてるんです」紘平は少し苛立っているような口調で言った。

 「彩子さんとの待ち合わせは七時ですね? 大丈夫です。三十分もあれば充分です」

 「えッ? ちょっと、ねえ、なんでそんなに僕のことを知っているんですか!?」紘平は、段々怖くなってきた。

 「望月さん、大丈夫ですよ。私があなたに危害を加えることはありませんから、どうぞご安心ください。いつもみなさん最初は驚かれるんですがね、私の話を聞いてもらえれば納得されるんです。

 とりあえず、彩子さんが来られる頃には、私はここから姿を消しますので、それまでの間、お付き合いを願えますか?」須原はとても穏やかな表情でそう言った。

 紘平は、須原の申し出を断る術を見つけることができなかった。こんな突拍子もない事態に安心なんてしていられるわけがないのだが、仕方なく須原の申し出を受け入れることにしたのだ。

 「本当に七時までには終わるんでしょうね?」紘平はまたコーヒーを一口飲んだ。

 「ええ。ご安心ください」須原は不適な笑みを浮かべている。


 「ところで、望月さん」須原が言った。「喫いたいんでしょ?」

 「え?」

 「煙草、喫いたいんでしょ?」

 紘平は、もう須原が自分のことをなんでも知っているということを受け入れた。いや、受け入れざるを得なかった。「ええ、喫いたいですよ」

 「いけませんね。実は、今日の本題というのはそれなんですよ」

 「それ? 僕の禁煙に関してですか?」

 「はい。まさに。というのも望月さんの禁煙の動機というのがよくないんです。望月さんは、職場での唯一の喫煙仲間である光村さんが禁煙を始めたことが原因で煙草をやめましたよね?」

 「はい…… でも、それが何だっていうんですか?」

 「それはすなわち、自らの意思ということではなく、周囲に迫られて、つまり“大勢禁煙脅迫”を受けての決断だったということですね?」

 「“大勢禁煙脅迫”? 馬鹿なこと言わないでくださいよ。確かに職場で喫いにくくなったことが僕の禁煙のきっかけではあるけれど、それはあくまできっかけです。ただのきっかけ。禁煙を始めたのはあくまで自分の意思ですよ」

 「望月さん、嘘はいけません。私にはあなたの本心が手に取るようにわかるんです。ここでは正直になってください。

 さっき喫煙席の方をちらっと見た時に、あなたの頭には同僚の方々の顔が頭に浮かんだじゃありませんか。本当はやめたくなかったんでしょ? 違いますか?」

 紘平はそれには何も答えずにコーヒーを一口飲んだ。須原の言うことがあまりにも図星だったので、答えられなかったのだ。

 「望月さん、そろそろ今日私があなたのもとに訪れた目的についてお話をしようと思います」須原はネクタイの結び目を直した。「早速ですが、結論から申し上げますと、望月さんの禁煙は、望月さん自身の健康を害しているのです」

 「健康? 健康を害してるって……」

 「まあ、一旦話を最後まで聞いてください。私が今言いました“健康”というのは、肉体的な健康と精神的な健康を総合的に見た上での“健康”のことです。

 人間にとって、肉体と精神は切っても切れない関係であるということは、疑う余地のない事実ですね。

 その上で、望月さんの場合は、禁煙することで得られる肉体的健康よりも、禁煙することで損なわれる精神的健康の方が遥かに大きいわけです。

 私ども健康同盟は、世の中の禁煙者たちの健康状態を分析し、禁煙をすることで返って不健康な生活を送っておられる方のもとに、その診断結果を通達してまわっているのです。

 私が望月さんのことをあれこれと存じ上げているのは、私どもの手元には望月さんのカルテがあるからなんです。情報の入手元については、ここでは答えることができませんがね。

 今私が言いましたことで、何か不明な点はありますでしょうか?」


 紘平は、全然話が飲み込めていない。とりあえず、コーヒーを一口飲んでみた。「あの…… まったく話の筋が理解できないのですが……」

 「それはそうですよね。突然目の前に現れた上で、こんな話を聞かされるわけですからね。

 では、順序立てて話をしましょう。さっき私が言いましたことは、つまり、私どもの取り組みについてお話をしたわけです。その点は大丈夫ですか?」

 「ああ…… 総合的な健康でしたっけ? 肉体と精神が……」

 「肉体的健康と精神的健康の双方を考慮した上での“総合的健康”です」

 「はい…… そこはわかりました」

 「では、望月さんの症状についても、大丈夫ですね?」

 「僕の場合は…… つまり…… 禁煙しない方が健康ってことですよね?」

 「まさに。しかし、これはあくまで現時点での話です。煙草はそれこそ『百害あって一利なし』と言われるくらいですから、やめた方が良いに決まっているんです。

 だけどね、やめるにも『良いやめ方』と『悪いやめ方』があるわけです。そのことについて説明をさせて頂きます。

 近年、日本社会には過度の健康志向から来る“喫煙憎悪”が蔓延しております。望月さんもそれについてはよくご存知でしょう。

 街には檻のような喫煙所が設置され、喫煙者はその檻に閉じ込められています。もちろん、喫煙者は非喫煙者に配慮して喫わなければなりませんよ。でも、あれではあまりにも喫煙者が惨めです。家畜同様ですよ。

 しかし、そういう喫煙者側の眼差しというのは、今の日本社会では拾い上げる価値のないものになってしまっているんです。つまり喫煙者は完全な少数派であり、排除すべき対象なわけです。

 少数派は多数派に抑圧されます。何も街の檻だけではありません。他にもそのような場面というのは、社会のあらゆるところに散見されます。私どもはそれを、先ほども申し上げたとおり“大勢禁煙脅迫”と呼んでおります。

 そのような多数派からの抑圧の結果、禁煙生活を始めるというのは『悪いやめ方』なんです。大概そういう『悪いやめ方』をする人に限って、精神的不健康を患うんですよ。

 じゃあ『良いやめ方』というのはどんなものかと言うと、それは自ら進んで禁煙を始めることです。

 理由はなんだっていいんです。貯金をしたいでもいいし、ご飯を美味しく食べたいでもいい。朝にすっきり目覚めたいでも、本当に何でもいいんです。とにかく、自らの意思でやめるというのが、『良いやめ方』なんです。

 今の日本社会の禁煙推進ムードというのは、何も悪いことではありません。禁煙というのは良いことですからね。誰が見ても良いことですよ。

 しかし、やり方が良くないわけです。誰でも彼でも、禁煙すれば手段なんて選ばないという、非人間的なやり方が良くない。

 禁煙というのはあくまで個人的な問題なので、本当は一人ずつ個別に推進するべきことなんです。それぞれの状況を丁寧に見ながら、その人が本当の意味での健康を手に入れられるようにね。

 しかし、今の日本社会は、弱肉強食の論理で少数派である喫煙者を社会から排除しようとしている。

 私どもの取り組みというのは、そういう社会全体がなんとなく突き進んでいる極めて危険な空気感のようなものに対する、細やかな抵抗でもあるんです。

 そういうわけで、私ども健康同盟は禁煙に挑戦している人々の情報を集め、個別に診断をした上で、まだやめなくていい人々に通達をしてまわっているというわけなんです。

 話が長くなってしまいましたが、おわかり頂けましたでしょうか?」


 「まあ…… なんとなく、大体はわかったような…… 気がします」

 「それは良かった。少し余計な話もしてしまいましたが、要するに、望月さんの場合、今はまだ喫煙をされていた方が健康だということです」

 「煙草を喫った方が健康……」

 「ええ。矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、私どもの診断というのは最先端の医学はもちろんのこと、宿命論や占星術、あと生命哲学や心理学など、複数の視点から総合的に分析したものですので、おそらく今日の日本にあるどの医療機関よりも正確なものでしょう」

 「はあ…… それで、具体的に僕はどうすればいいんですか?」

 「わかって頂けたなら話は早い。至って簡単なことです」須原はそう言うと、スーツの内ポケットからマル金のボックスを取り出した。以前、紘平が喫っていた煙草の銘柄だ。

 「今から、後方にある喫煙席に行って、この煙草を喫えばいいんです。思いっきり肺に吸い込んで、それを吐き出せばいい。ただそれだけです。

 ここで一本喫ってしまえば、望月さんはこれまで通り、また喫煙者に戻れるわけです。禁煙については、もう少し後になってからでいいんです」

 須原が紘平にマル金と百円ライターを手渡す。紘平は、それを受け取り、まじまじと見ている。

 「大丈夫ですよ。さあ」須原が、喫煙席の方を手で指し示しながらそう言った。

 紘平は少し躊躇したが、じきにゆっくりと立ち上がり、須原に背を向け喫煙席に向かった。スライド式の扉を開け中に入る。

 喫煙席には若いスーツ姿の男が一人だけいた。壁は黄ばんでいて、煙が立ち込めている。

 紘平は一番端の椅子に腰掛け、箱から一本の煙草を取り出した。久々に触った煙草はしっくりと指に馴染んだ。まるで、長い旅から帰宅して、久しぶりに自宅の布団で眠る時のような、そんな居心地の良さがあった。

 その至福のひと時を存分に嗜むように、紘平はゆっくりと煙草を口に加え、百円ライターで先っぽに火を点けた。

 シュポッ。

 大きく煙を吸い込む。美味い。こんなにも美味かったのか。煙をゆっくりと吐き出す。そして、もう一度、煙草を口に運び、大きく息を吸い込む。

 その時だった。急に紘平の肺を激痛が襲った。肺の中に無数の針が流れ込み、息を吸い込もうとする度に内側から針が肺を突き刺すような、そんな痛みだ。

 紘平は痛みでまともに呼吸ができない。あまりの痛みと苦しさに悶えながらその場に倒れ込む。しかし、喫煙席にいた若い男は何食わぬ顔で携帯を触りながら煙草を喫っている。まるで紘平の存在に気づいていないかのように。

 紘平は声を出して助けを呼ぼうとする。しかし、声がまったく出ないのだ。その間にも肺には無数の針が刺さり続け、満足に呼吸ができない状態が続く。

 段々と意識が薄れていく。ふと、さっきまで座っていた禁煙席の方に目をやると、須原ではなく彩子が席に座っている。彩子はなぜか泣いている。須原の姿はといえば、あたりを見渡してもどこにもない。

 紘平はその時にすべてを理解した気がした。これは須原という男の姿に化けた悪魔の罠だったんだと。

 紘平は最後になんとか声を上げようとする。しかし、どれだけ叫ぼうとしても声は出ない。意識が遠のき、やがて視界は真っ暗になる。

 そこでやっと声を上げることができた。

 ゔあああああぁー


 ゔあああああぁー

 紘平は叫びながら飛び起きる。そこは自宅のベッドの上だった。起きるなり息が苦しく、身体は汗でびしょ濡れだ。パジャマもシーツも濡れていた。紘平は、まさか夢にまで煙草が出てくるとは…… と、やり切れない気持ちになった。

 あまりにも大量の汗をかいていたので、ひとまず布団から出て着替えることにした。部屋の外ではスズメが何事もなかったかのようにさえずっている。

 クローゼットから着替えを取り出し、薄暗い部屋の中でふと壁にかけてあるカレンダーに目をやった。今日は……

 七月六日。

 禁煙を始めてからちょうど一ヶ月目の朝だった。



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