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変わっていないという気付きから。

先日、友人の舞台を観に行きました。私には凄く新鮮で面白くて、ズシンと胸にくるセリフがたくさんありました。
中でも印象的だったのが次の部分です。

いわゆる学生運動の頃のことですが、
「ビルを爆破したりすることで、社会を変えられると思った、仲間でも意見が合わないものは排除した」という話が出てきます。
学生運動ではたくさんの逮捕者が出て、大きな傷跡を残しました。

歪な社会を変えるにはエネルギーが必要だけど、それは他人を攻撃することではない。排除することではない。
違う考えの人が共存していかなければならないのが社会というものですよね。
当時から、あまり進化していないのかなあとぼんやり思いながら観ていました。

考えが違う、それで距離を置かれるを繰り返してきたし、自分もそうだったかもしれない。仲間と思っていても、部分的な考えの違いが許せない、と離れてしまう。

「違って当たり前」という前提がないと、他人を許容することができない。明らかに考えがちがっていても、あんなやつ徹底的に叩いてやる、というマインドでスッキリしようとしたり、自分が上に立つ、論破するを目的にしようとしてはならない、という結論にこの頃達しています。
対話を行うときは、お互い妥協点を探る。そんな努力が必要ではないでしょうか。
絶対に許してはならないという線引きはあるでしょう。それはそれでいい。

難しいことかもしれないけど、本当に平和で誰もが暮らしやすい社会を目指すには、誰かを排除することではないと考えています。
「当たり前だろ」と言われそうですが、実際、多様性を主張しながらも矛盾している、と思われる主張も見かけます。
「多様性を認めなさい!」と強く迫る。人から強引に迫られたら反発したくなりませんか?
他人の内心は強引には変えられないのですよね。本人が自発的にそう思わないと無理ではないかと思います。

右対左、保守対リベラルのような対立ばかり見かけますが、もうそろそろ敵対は辞めたいなあと思っていたりします。ちょっとした違いには目をつむり、大きな目的のために手を組む。全く違う場合は静かに離れ、攻撃しない。というスタンスでいたら、進むのだろうなと思います。
それが出来ないことに、限界を感じてしまうんです。目先の問題の見解の違いでずっと言い争いばかりしていて、自分の主張を言いたいだけなのでは?と疑問に思うことがあります。

もう時間はありません。少子化も気候変動も待ったなし。負の遺産を引き継ぐことになってしまいます。
「自分が正しい」と思うのは当たり前だし、そういう脳の作りになっているのだとも思う。だけどそろそろ、他人の存在を認める、そんな価値観に変えていきたいと思いませんか?

とってもとっても難しいことだと思います。
まずは自分から試してみます。黙るってことではなく、いかに他人を許容し共存していけるか。自分とのたたかいになりそうです。



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