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題材として取り上げた段階で私たちは他者のモラルを押し付けているのではないか

昨日道徳について最近モヤモヤしていることをエイジさんとやりとりさせてもらいました

非常に有意義な時間だったように感じます


ここ最近私が道徳に関して感じている違和感は以下です

「私たちは道徳の時間に私たちや教科書の考える一面的なモラルを押し付けているのではないか」ということ


例えば私は「いじめ」という題材を使って道徳を教える際に、「いじめを止めるような人間になる」や「傍観者にならずに声を上げていく」などと言ったことに価値を感じていました


しかし、極端な例で言えばクラスでいじめが起きた際に、「神に祈る」という選択肢があっても良いはずです

日本ではこんな選択肢は出てこないと思いますが、それは私たち(教師)がその選択肢に意味を感じていないからであり、この選択肢自体に意味がないわけではないはずです


社会科学という学問があるようです

「あることが起きた時に、Aという人物が何を考え、どう動いたのか」を捉える際に、そのある人の生育歴やどんな人と関わってきたのかを調べる

そしてこれらを背景としてそのような判断をしたのだと論理的な推測をしてく学問のようです(詳しくないのでもし間違っていたら教えてください)


私は本来ゴールがない教科とされる道徳が、私たちの価値観を押し付けているだけのような気がしてならないのです


そこで冒頭のエイジさんのツイートです


「である」という事実と、「べきである」という価値観

私たちはある人の「である」という事実を道徳の時間に教材として取り上げた段階で、すでに「べきである」という価値観を押し付けていないか、と危惧しています


これはある出来事(事実)を拠り所にして

「この登場人物はなぜこんなことをしたのか」

「どんな思考的背景があったのか」

「自分だったらどうするか」

「そこにはどんな思考的背景があるのか」

という授業をすることで解消できるのだろうか


自分が感じていた不安や危惧の正体が少し言語化できたような気がした一方で、

ではどうすれば良いのかという次の課題が見えてきました


エイジさんに感謝です

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