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自然な流れの中で…



旦那さまの母の四十九日法要と
納骨をしました。



本当にささやかに

そして 流れのままに。




できるだけ
自分のことで
人様に余計な迷惑をかけたくない、という
母の想いが
そのまま表れているかのような

本当にごくごくシンプルな流れの中で…。




私が

旦那さまに連れられて

結婚前に

はじめてお家にご挨拶に行った時

お母さんきっと数日前から少しずつ準備してくださってたであろうかんじの
本当に全て心のこもった
お手づくしのお料理を

「田舎だから大したものは全然ないのだけど、食べていって」

と言う言葉とはうらはらに

いまにして思えば

お母さんのできる

最大級のおもてなしのお料理で

迎えてくださって


まだ元気だった時に

「お母さん、私あの時のお料理本当にすごかったって感激していまでも忘れられないんですよ」と伝えたら

お母さん
「あら、そうだった?覚えてないなぁ、、、」 って

なんともお母さんっぽいさらっとした返し。

笑笑笑



私が育ってきた環境とは

180度 真逆の環境で


ご飯は

何もないところから

作ることが当たり前で。


そうやって

初めて通されたそのお部屋で

やがて


生まれた孫(ウチのムスコさん)の
初節句を人形と共に祝ったり

お盆には
毎年
親戚中が集ってお食事を楽しんだり
泊まったり
孫たちの賑やかだった日々


近所の親しい親戚の方のお葬式には
同じそのお部屋が食堂に変わり

何もかもが初めてすぎてわからないまま
無我夢中で食堂の裏方を手伝い
膨大な量の食材の下拵えや
初めて手にしたタライよりもまだ大きい感じの打ち出し鍋を洗ったり
大先輩の奥様方々の連携プレーと段取りと手際の良さであっという間に何品もしかも大量に食事の支度が出来ていく様に只々圧倒され、「ちょっと食べな」と味見させていただいた煮物は本当に美味しくて。


自分の生まれ育った環境には
もちろんそんな文化はなくて

お母さん、それを察してたか
丸一日、別のところで忙しくされてて
やっと夜にお会いできた時に
「大丈夫だった?!(いきなり一人にしてしまって…的な)」と心配してくださったのがうれしくてありがたかったなぁ。


気がつけば

私がそこで体験したそれは


その頃がおしまいのころだったらしく

いまは

そういう施設がどんどん増えて

私が

直にそういう経験をした

最後の世代だったりもするのかな。




やがて
あっという間に
時は流れ



そして



父も母も


旅立ちを迎え

二人して

時は違えど


同じように



細やかに

いろんな歴史を刻んできた

そのお部屋で


支度を整え

御見送りをして。


ごくごく

それが

本当に

自然の流れなんだ、という


生老病死

生まれて 生きて 老いて 死ぬこと

しかも

自然に囲まれた環境で

それが あたりまえで


それを

身をもって

みせてくれた、というか


だれもが

こうなるんだよ、と


こわいものではない、

身近なことなんだよ、と


あたまでは

わかっていたものの


体感として

垣根を取り払ってくれたような


そして

見事にうつくしく

おかあさんにとって

本当に ほぼほぼ

思い通りの最期になったのではないかと


きっと

そうだとおもう。


親戚の方々が

うらやましい逝き方だ、って。



本当に

そう思う。



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