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coucou - adieu note

綴られた明日への想いから、短いイントロが響き渡る。「穴空きの空」で幕を開けた二つの夜は、厚い雲に覆われる地上をひっくり返したような、優しく眩しくきらめく、あたたかな光の粒たちで溢れていた。

「たくさん唄います!」という宣言通り、いつも浸っているあの曲に初めて目の前で聴けたあの曲まで、adieuの歌と言葉を全身で浴びた空間。紛れもなく、この星のどこよりもしあわせに満ちた世界!本当にどの部分を切り取っても美しくて、溢れていた感情が今になってもよみがえってくる。ちょっとずつ掬って、そのわずかな部分だけでも言葉にできたらな。はちゃめちゃで長くなるかもしれないけれど。。

まず、歌い出しからとにかくしあわせそうで!
唄っていること、その音色に乗っていることへのよろこびが会場中に波のように伝わる。そう感じるほどに見るからにしあわせそうで、歌声はもちろん、そんな彼女の姿がわたしは本当に好きで、救われつづけているんだなあ、なんて感情が心にふっと湧いてきた。
adieuが抱く歌への愛。きっとそれはとても正直で、まっすぐで、そんな言葉を飛び越えるくらいに純粋だ。そんな歌に対するひたむきさ、そのありのままの姿が、adieuの歌がいろいろな人生を抱えた心に寄り添い、それぞれが持つ自らのありのままを抱きしめようと思える理由の一つなのかもしれないな。

そんな大きな愛とともに唄いつづけるadieuは5年前よりも3年前よりも去年よりも、覆われたベールがペリペリと剝がされた、adieuとしての色が濃くはっきりとした姿で世界を鮮やかに色づけていた。自らの手で、唄いつづける中で見つけ出してきた色たちで。
わたしがadieuの変化を最も感じられるのは、いつでもやっぱり「ナラタージュ」。特にココ。
”正しい夢の 終わり方なんて 
この世でわたし わたしだけが決める 
あなたをちゃんと 思い出にできたよ”
あの夜もやっぱり涙が止まらなくて。どうしようもないほどに涙が零れてしまう。
マスクが濡れ、目の前が滲んだ世界で感じたこと。5歳になったadieuは明日への期待と希望を胸に、思い出の中のあなたとわたしへの「ありがとう」を唄っているみたい。ぼやけた悲しみに、ちっぽけな強がり、思い出と歩ける大人の強さ。その上にさらにもうひとつ、想いを積み重ねるなんて。「過去を羨むことも今を憂うこともあるかもしれないけれど、それはきっと自然なことだから、わたしはあなたがつくってくれたおかげで存在するありのままのわたしで、”あなた無し”で迎える知らない明日を想うよー」そんな風に聴こえた。それでいて、5年をかけて育まれてきた小さな自信と「adieuです」という改めましての挨拶のようでもあった。明日から注がれたかのような光の筋を一身に受けて唄うadieuの姿は、きっと生涯色あせることのない記憶として残りつづける。そう思えるくらい、とにかく、何よりも美しかった。

「ナラタージュ」の一言で泣いたと書いたけど、一瞬は閉じていた涙腺がまた緩んでしまった、が正しい表現でして。その前も後も泣いてました。止まらないんだもんな、涙。どうしてだろう?
アコギとともに唄う「ダリア」に「愛って」の二曲なんて、目を閉じると会場を包み込むやさしくて時に悲痛な響きが一瞬にして帰ってくる。自分の身体が自分のものじゃないみたい、そんな不思議なふわふわと手を取り合って。
(大阪では直前の「景色/欄干」にて歌詞間違いが!わずかながら動揺していたし気にしてらっしゃるかもしれないけれど、わたしの心はめちゃめちゃ叫んでました。ライブならでは!)

”あなた”へ唄った三つの歌、
夏の終わりを彩る”追憶”のカバー曲、
”あの曲”の答えだった「娘ジントヨー」、
ぜんぶ、ぜんぶ忘れないんだろうな。
最後の最後、壁が吹き飛んでしまうんじゃないかってくらいにエネルギッシュで圧倒的にまぶしかったことも、「夏の限り」にて寂しさが降り注ぐたびに、まだ終わらないでくれと涙の中で何度も何度も願っていたことも、ぜんぶ。

「adieuとは何者なのか、私なんかが唄っていいのかと考えた」
彼女はそう口にした。
「誰かの救いになれたらなんて烏滸がましいけれど、日々の隙間にadieuの歌があったらいいな」とも。
音楽に何度も救われていて、歌を心の底から愛しているからこそ、彼女は中途半端な姿勢では唄えない。きっとわたしの想像以上に悩んでいて、創り上げたいものと自分自身とのギャップに苦しんだ瞬間まであったのかもしれない。それも何度も。
だからこそ彼女の「adieuとして唄いつづけたい」という言葉が嬉しかった。とにかく嬉しかった。唄うことが本当に好きで、楽しくて仕方がないんだな。同じ時の中でその歌に身を委ね、言葉に姿に心を揺さぶられつづけるわたしは、なんて幸せ者なんだろうって。

「悲しいことも辛いことも沢山あるかもしれないけれど、きっとどの感情もきれいだから、その一つ一つを楽しもう。なかなかないかもしれないけれど、胸がいっぱいになったり、しあわせだと思える瞬間がありますように!」「お金持ちになれなくても偉くなれなくてもいいから、そんな瞬間を少しでも多く感じていたい。」
わたしは今がその瞬間なんだ、そう確信した。
元来、わたしは楽しい思い出はもちろん、苦しんでいたはずの過去までをも眩しいと錯覚し、勝手に比べた今の自分を否定して追い込んでしまうところがちょっぴりあって。それでも、その時その時にふっと抱いた感覚がその時の私だけのもので、それが実はとっても美しくて、尊くて、きれいなんだって少しでも思えるようになったのはadieuの歌たちが傍にいてくれたからなんだ。

あの夜を、adieuに出会ったばかりの17歳のわたしに言っても信じてくれないんだろうな。もかふぁん同士で「そうっぽい?」でなく「そうだよね?」と”adieu=上白石萌歌”だと勝手に思っていたからか、答えがその通りだったことにはあまりビックリしなかったけれど、正体を明かしたということ自体が信じられなくて、何より、どんな時も何度でも救いとなってくれた大好きな歌を唄いつづけてくれることが本当に嬉しくて。それだけでもしあわせでたまらなかったのに、こんな夜を迎えられるなんて、信じられるわけないよね。夢みたいです!

いつのまにか飾り付けてしまった過去にも微笑み返せるのは、尾を掴むような影をふんわりと包み込んでくれたから。
目の前の景色や感情の一つ一つが美しいと思えるのは、その歌を透かして見た現実が光で溢れていたから。
逆光のような明日を迎えに行けるのは、浮遊感たっぷりなそのメロディーに乗って明日の扉を一緒に開けてくれたから。
どんな昨日より明日が好きだと本音だけではまだ言えないけれど、adieuの歌と一緒なら、たとえ「明日が辛い今日になるとしても」わたしは明日を見に行ける。今までも、これからも、きっと変わることのないこと。
あの夜の大きな大きなしあわせは、わたしの背を押し、ぐるぐると回る心のコンパスの針を止めてくれる魔法だ。きっとこれからも時によって抱く感情は違っていて、中にはぐちゃぐちゃな色もあるだろうけれど、adieuの歌とともにそのどれもを楽しめたらいいな。
あの夜に集った、adieuの歌を愛するみんなで!

2022.09.24 LINE CUBE SHIBUYA (東京)
2022.10.10 なんばHatch (大阪)

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