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大山阿夫利神社薪能「高砂」~世阿弥のイタズラと神様~

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毎年10月に大山阿夫利神社能楽堂にて開催される、火祭薪能。
昨年は感染症蔓延により中止となってしまったが、今年、2年ぶりに無事開催された。
大山能の伝統約300年、火祭薪能として40周年、開催にご尽力された関係者のみなさまに感謝申し上げます!
今年、初日の演目は、人間国宝山本東次郎さんの狂言「萩大名」と、観世清和さんによる能「高砂」!これは行くしかないでしょ!!
予約開始日、電話予約方式だったので、予約開始時刻と共に怒涛の電話!そして、リダイヤル!リダイヤル!・・・昔、来日アーティストのコンサートでチケット「ぴあ」に電話したことを懐かしく思い出しながら、無事チケットを取得!!
そして本日、意気揚々と大山阿夫利神社薪能を拝観してきたわけである。

今回は、多くのみなさんにとって、何となく「伝統芸能」として堅苦しく敬遠されがちな能狂言について、ボクの経験と絡めながら、できるだけ砕けた感想を書くことで、読んだ方が少しでも能狂言に興味を持ってもらえたらな、と思い書いてみます。

薪能に行けないなら仕事辞めます!

ボクは、大山の麓に自宅を構えて以降、毎年必ず薪能に参加してきた。
実は、新卒から勤めた以前の会社を辞めて、近所の小さな看板屋に転職した年、危機が訪れた。

何しろ、ヒドイ中小企業だった。
入社時に社長は「休みの希望は、事前に言ってくれれば休めるようにするから!」と言っていたにもかかわらず、勤務が始まってみると、実態は、土曜日でさえ、前日金曜日の午後5時になっても、明日が出社か、休みか、わからないような状況だった。

基本的に、大山薪能は、平日の夕方開催。
以前の勤務先は、仕事をやりくりして、有給休暇の届けを出せば、仕事を休むことができたので、問題無かった。
2019年10月2日も平日水曜日だった。
その看板屋の仕事を休めるかどうか、わからなかったけれども、ボクは薪能を必ず観に行く決心を固めて、実は既にチケットを取得していた。

薪能当日が数日後に迫った日、社長に恐る恐る、「10月2日休みをいただきたいのですが・・・」と申し出てみると、案の定、「何?平日じゃねぇか?当然仕事だろう!!仕事は待ってくれねぇんだ!仕事が最優先に決まってるだろ!!」・・・休んじゃダメ!とも言わないが、こちらの罪悪感に訴えかけて、出勤するように促してくる。これがこの社長の常套手段なのだ!

しかし、入社から約半年が経ち、最初こそ以前の職場を辞めた解放感と新たな仕事への新鮮味で我慢していたのだが、そろそろこの看板屋社長の理不尽な仕打ちの数々に辟易していた。

「社長がそうおっしゃられても・・・とにかく10月2日は出勤できませんので!」

そう言い切って、10月2日は仕事に行かなかった。そして、そのまま愛想を尽かせて、10月末で、その職場を辞めることになった。

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2019年10月2日の様子・・・
演目は、狂言「樋の酒」と能「土蜘蛛」。
舞台で派手に炸裂する、土蜘蛛の蜘蛛の糸が美しかったなぁ。

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そして、この時までは、会場でお弁当やワンカップの日本酒を販売していて、一杯飲んで気持ちよくなりながら鑑賞できた・・・
もちろん、今年2021年は、感染症対策のため、会場内は飲食禁止になってしまった・・・。

ボクと能狂言

小学校一年生のころ、お正月に布団の中からNHKのテレビをつけた。
そこでやっていたのが狂言「棒しばり」であった。

「んぐっ、んぐっ、んぐっ、飲めたか飲めたか」
「飲めた!飲めた!美味そうに飲みおった!」

何じゃこれ!?面白れぇ!!

最初、小学生でもセリフを聞き取ることができて、ストーリーを追えたのが「狂言」であった。
祝日の朝には、NHKで必ず能狂言の放送があったし、NHKFMの日曜日、大好きな吉田秀和さんのクラシック音楽の名番組「名曲の楽しみ」の前には、「能楽鑑賞」が放送されていたので、ボクはそれらを貪るように視聴した。
このnoteにも何度か書いている通り、思春期を迎えて音楽の幅が広がるにつれて、一時期、能狂言の鑑賞から遠ざかったこともあった。しかし、やがて社会人になって、野村萬斎さんのちょっとしたブームが巻き起こったことがきっかけで、社内のほんの一握りだが、気が合う何人かで、能狂言のDVDの貸し借りなどをしていくうちに、再びボクは少しずつ狂言を観るようになった。
その後、実際に能楽堂で生で鑑賞するほどではなかったものの、NHKEテレなどで放送される場合には、録画をしたりして、ボチボチ狂言を観るようになっていった。
上手くは言えないのだが、狂言の笑いの中に秘められた、社会への皮肉と人間愛、形式美の中で安心して楽しめることが、ボクの趣味にハマったのだと思う。

今回の大山薪能で演じられた、山本東次郎さん演じる狂言「萩大名」、普段「ボケ」役の太郎冠者が、逆に主人である無知で愚鈍な大名に短歌を指南するという、いわば定説返しの面白さである!

しかし、ボクもずっと長い間、「狂言」を楽しんではいたが、「能」については、正直なところ敬遠気味であった。文語体で長調子の語りは聴きとることが難しく、笑いも無く淡々と進むストーリーは退屈だと思っていた。

しかし!!大山薪能に参加するようになって、その「能」の舞台を生で鑑賞してみると、その魅力の虜になった。
舞台を縦横無尽に使う、勇壮で可憐な舞に魅了され、囃子方の掛け声と地謡のコーラスに、心地よい高揚感を感じ、「能」の総合芸術としての魅力に圧巻され、今、ボクの中では「能」ブームが到来しているのである!!

永遠の名作能舞台「高砂」

ボクの解釈を加えながらストーリーをざっと書くと、醍醐天皇の時代に、肥後の神主友成が都に上る途中、播州(兵庫県)の高砂の浜の松の木の下で、お爺さんとお婆さんに出会う。話を聞くと、お婆さんは高砂の松、お爺さんは大阪住吉の松の「精」=化身であり、お互いの思いを寄せていれば、離れていても寂しくない。その強い思いの力の源こそ、人々が詠む和歌であり、和歌が草木に心を宿すのだ。
万葉集の頃から、今の御代の世まで和歌が盛んに詠われて嬉しい!私たちは相生(相老)の幸せな松である!
二人を追いかけて友成が大阪住吉を参詣すると、今の世を祝福するように、住吉明神が神々しく雄壮に舞う。

他の能の演目と比較しても、ふんだんに曲が挿入され、中盤には、日本古来の結婚式に欠かせない有名な祝言の謡が謳われます!!(←今、そんな結婚式挙げるひと、おるんかいな?)
実は、今まで誰かの結婚式に出席するときには、頼まれてもいないのにいつもベートーヴェンの「交響曲第九番」の「歓喜の歌」を歌ってきた。
正直、自分の中で、「ボクがこの歌を結婚式で歌った二人は一生添い遂げる!」と思っていたんだけど、最近チラホラと離婚した方もいらっしゃって・・・

ちょっとボクの「歓喜の歌」のジンクスも破られてしまったので、今後は古式ゆかしい「高砂」をマスターして、朗々と歌い上げるようにしようかな!

高砂や この浦舟に 帆を上げて
この浦舟に帆を上げて
月もろともに 出潮の
波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて
はやすみのえに 着きにけり
はやすみのえに 着きにけり

・・・ボクは結婚式に呼ばれなくなりますね!!

世阿弥のイタズラなんじゃないだろうか?

前半、 尉と姥が、煤払いの箒と熊手を持って登場!
面を被った無表情な二人が、しずしず、ゆっくり、舞台に立つ、その光景は、一種異様だ。
もちろん、家内を清める「箒」と、福を集める「熊手」(今でも縁起物とされてます)は、二人の小道具には、それぞれ象徴的な深い意味がある。

この小道具一つ取っても「世阿弥が考えた演出」として堅苦しく古典学問的に考えると、「そこまで考えながら鑑賞しなきゃいけないのかな?やっぱり能は難しいなぁ・・・」と、多くの人は能を敬遠しそうになってくるかもしれないが、いやいや、ちょっと待って、単純に、視覚的に、何なんだこの異様なインパクト!!

何となく、(そんなわけ無いけど)世阿弥が、「何か、手ぶらで登場するのも寂しいな?何か持とうぜ!(楽屋を見回して)あ、この掃除道具とか、いいんじゃね?」
なんてノリで直感的に演者に持たせて、世阿弥が「イイネ!!インパクトばっちり!!」なんて笑っていたんじゃなかろうか!?と思うと、ちょっと能楽鑑賞が楽しくなってきませんか!?笑

しかしまぁ、この舞台上でのインパクト抜群な演出を考え出し、結果として約500年以上、脈々と「高砂」は演じられ続けてきたのだから、世阿弥はやっぱり天才だったのだろうな。

で、けっきょく神様ってなんなのよ?

「高砂」においても、後半に住吉明神の神様が、神々しく、勇壮に舞って、

「なんじゃこりゃ!神様ってスゲェー!!」

・・・とはなるんだけれども、神様が困っている友成を助けてくれたりしないところも、「日本」っぽいのかな、と思う。
まぁ、そもそも友成は最初から何も困ってないのだけれども。

「畏敬の念」は抱かせるけれども、それは決して「絶対的」「支配的」ではない。神様は、パンを与えてくれたりもしないし、仏様のように蜘蛛の糸を垂らしてくれたりもしない。

「お互い思いを寄せる夫婦が、コツコツと老いるまで添い遂げたところで、神の存在を感じられるようになる」という、神の御加護が後にくる、現世利益的な「神様に願ったから、その結果、お互いに思いを寄せる夫婦が、老いるまで添い遂げられた、めでたしめでたし」というのとは、逆の発想が見て取れるような気がする。

御利益を期待しているわけじゃないけれども、いつも共にある、大きな存在としての「神」。

「日本人の宗教観」についてなど、ボクが不勉強なまま、ここで語り尽くすことなど、とてもできないが、今回、「高砂」を改めて観て、その舞台芸術としての魅力と共に、日本人に通底する「神」への無意識的な意識がストーリーに織り込まれていることを改めて強く感じた。
だからこそ、この「高砂」が、500年以上にわたって名作として演じられているのだと思う。

・・・・・

今回、薪能鑑賞にあたっては、新たな試みとして、スマホアプリ「能サポ」による能楽鑑賞多言語字幕サービスが導入されていた。

国立能楽堂などの一部会場では、舞台横に字幕表示システムが導入されていた例はあるが、それと同じように、このアプリをダウンロードしておけば、能狂言のセリフに合わせて、自分のスマホ画面に現代語訳と解説が表示されるというものである。

まぁ、スマホ画面と舞台を同時に観なければいけないので、もしかしたら、人によっては、舞台に集中できないというデメリットを感じるかもしれないが、ボクも半信半疑ながら、アプリをダウンロードしてみたところ、結果として「高砂」を深く理解する上で非常に役立った。
「そんなもの、邪道だ!」などと言わずに、ボクとしては、こういったアプリも、普及に賛成の立場で、少しでも多くの人が能狂言を深く楽しむことができればと願う。

また来年、大山阿夫利神社火祭薪能の開催が、今から楽しみだ!
そして、このnoteにも、また何か面白い舞台があれば、能狂言の魅力について、書いてみようと思う。

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