見出し画像

存在の脆さと偶然の頼りなさの狭間で|物語化する/される私たち #3

人はなぜ、人生を物語化し、意味を与えようとするのだろうか。生の意味とは、どこにあるのだろうか。
今回は、人生の無意味さから出発し、 星野源氏の歌詞にもみられる「生活」を主軸にした生の捉え方、そして、偶然の頼りなさについて、クンデラの『存在の耐えられない軽さ』や永井均氏の著作を援用しつつ、書いていきたい。

なお、この記事は「人はなぜ物語を求めるのか」を元にしたマガジンの三作目となります。

ストーリー化される人生

 ひとは過去の自分の行いや選択をふりかえり、無理にでも意味を見出そうとする。そして私たちは当たり前のように、人生、と口にする。人生とは果たして何だろうか?人生について語るときに想定されているのは、直線的な時間の流れである。そして、人生を語るとき、私たちはどこか俯瞰的に、自らの生きる時間を眺めている。

  私たちは人生をよりよくするために、様々な方法で自己研鑽する。たとえば良い高校、大学に行くために受験勉強をする、といったことがその典型だろう。多かれ少なかれ、自分のやっていること(学業や仕事や様々な活動)には意味があると信じて日々を生きている。
 こうした信念、つまり、人生をストーリー化し、大きな目標に向けて日々を生きていくという信念は、良薬になることもあれば、本来の生を見失わせ、心を惑わせるような麻薬になることもある。

  私達があらゆることに意味づけし、ストーリー化するための「罠」は、そこかしこに仕掛けられている。
 ワイドショーでは、犯罪を犯した人は、なにか特別な動機があったのではないだろうかと、その生い立ちや原因を探ろうとする。アスリートの挫折と成功はドラマチックに取り上げられ、伝記の登場人物となる偉人はその軌跡がさも予定されていたかのように描かれる。

 あらゆる人生は物語化され、意味付けられ、消費されていく。そしてそうした価値規範は、知らず知らずのうちに内面化されていくのだ。

 生きる意味を追い求めて、何かの答えを得たとする、例えば「結婚して子供を産む」「仕事で成功する」「輝かしい功績を得る」「幸せになる」ことが人生の意味だと定義づけると、私たちの暮らしは途端にその何かを達成するための手段に成り下がってしまう。つねに、「何かを満たしていない私」になるのだ。すると、私というものの存在そのものの持つ輝きは途端は色褪せてしまう。

人生には意味などない

  人生を過度にストーリー化するとどうなるか。本当の幸せや理想の自分が達成されるまで、わたしたちは自分の人生を生きることはできなくなる。つまり、生の喜びそのものを享受することができなくなるのだ。そして、とうとう夢が実現しないとわかったときや、逆に、自分の望むものを手に入れたのに思うほどの幸福や満足感が得られなかったとき、こう絶望するのだ。
「思い描いていたものと、違う」と。しかし、なりたい自分になれなかったとき、夢が叶わなかったとき、私たちの生というのは、全く無価値なものに成ってしまうのだろうか? 

 そもそも人生に、意味なんてないのだ。この事実を直視しないと、偽りの「人生の意味」を掴まされることになってしまう。

「人生に意味なんかない」という言葉は、かなりネガティブに聞こえるかもしれない。 けれど、人生に意味がないという考えは、むしろもっと積極的に、生の存在そのものを肯定しているのではないだろうか。

 永井均さんの『翔太と猫のインサイトの夏休み』において、ニヒリズムの思想を端的に言い表した箇所があるので、引用しておきたい。

「…翔太、きみはニヒリズムって言葉を知ってるかい?」
「知ってるよ。全ては無意味だって思想でしょ?だから、生きていることなんか意味がないって。」
「むしろ逆だな。ニヒリズムっていうのはね、全てには意味しかないっていう考えのことなんだ。人生は何のためにあるのか、とか、自分は何のために生まれてきたのか、とか、そういう問いこそが虚無的(ニヒル)な問いなんだよ。そして、もし何か一つの全体的な意味付けの中に一生涯没入して生きる人がいるとしたら、それこそがむなしい、ニヒリストそのものなんだ。」

p253『翔太と猫のインサイトの夏休み 哲学的諸問題へのいざない』
永井均

「全体的な意味づけの中に一生涯没入して生きる人がいるとしたら、それこそがむなしい、ニヒリストそのもの」という一文は、逆説的ではあるが、的を射ていると思う。

  しかし一方で、結局の所、「人生に意味なんてない」と断言できるのは、強者の理論だとも思う。人生に意味があるのかどうか、という問いが出てくるのは、大抵、どうしようもない不幸や厄災に見舞われた時や、自分自身の存在に自信が持てなくなったり、生というものに疑念を抱いたときだと思う。

 そのようなとき、人は「この人生になんの意味があるのだろう」「どうしてこんな目に合わなければならないのだろう」と闇の中を彷徨い歩き、人生の意味という灯火を、まるで太陽の輝きであると錯覚するのだ。その灯火は、ある人にとっては宗教であったり、ある人にとっては仕事であったり、ある人にとっては家族や恋人であったり、ある人にとっては別の何かであったりするだろう。

では人生に意味がないとすると、私たちはなにを指針に生きればいいのだろうか?それは生身のまま、広い宇宙に放り出されてしまうようなものだ。そこには道も、方向を指し示すものさえない。

生活における図と地

 人生を直線的な時の流れだとするならば、生活は断片的な時の欠片であるともいえる。例えば日記を書くとしても、私たちはその中でちょっとした”出来事”を記そうとする。例えば、朝起きて歯磨きをしたことや、いつもと同じ時間に電車に乗ったことなどは、当たり前すぎて基本書かない。

 書くとしたら、なにかアクシデントが起きたり、普段と変わったちょっといいことが起きたり、というようなことではないだろうか。私は日記が続かないので、ときたま印象に残ったことを書きとめることがある。それは、記憶の海に流れ行く小舟を、つかの間つなぎとめる錨のようなものだ。
こうした取るに足らない生活は、人生の「地」であるというえる。

 さらに、何かの賞をもらった、大学に合格した、就職をした、結婚した、などといったことは、人生の中の大きなイベントとして刻み込まれる。人生史を書くとしたら、そうしたイベントごとや分岐点のようなものを書くのが普通だろう。そしてその点はのちに結ばれ、「私は〇〇で生まれ、〇〇に入学し、〇〇年に卒業、その後〇〇に就職」といったふうに、一つの道筋を描く。
こうしたことは、人生の「図」であると言える。私達は、特に会ったばかりの他者や伝記の登場人物などを、このストーリー化された「図」をもとに評する。自分自身に対してもそうだ。自分の人生を振り返って「図」だけに目を見やってみると、あたかも初めからそう定められていたかのように思わされるのだ。

星野源の描く『生活』

 いまや誰もが一度は耳にしたことがある星野源「恋」の歌詞の中に「意味なんかないさ暮らしがあるだけ/ただ腹を空かせて君の元に帰るんだ」というフレーズがある。「(人生に)意味なんかないさ暮らしがあるだけ」と解釈するなら、この歌詞は、人生という膨大で途方もないものに意味を求めるのではなく、「ただ腹を空かせて君の元に帰る」という、平凡で単純で、しかし実感を伴った日々にこそ意味を求めようとしていたのではないだろうか。

この歌詞が真に迫っていると感じるのは、彼のいままでの苦悩や病に倒れた経験が下敷きになっているからかもしれない。彼が自分が突然の病で倒れたとき、何度も「なぜ生きているのか」そして「なぜ生かされたのか」という問いを、繰り返してきたのではないかと思うのだ。

暮らしというのは毎日繰り返されるものであって、人生という大きなストーリーの中にあっては、簡単に切り捨てられる。日々の暮らしを何かの目的を達成するための手段としてしまうと、その生の尊さといったものは「いつか見えなく」なってしまう。

 彼の描く歌詞に惹かれて、『働く男』『いのちの車窓から』などの著作を読んだ。多忙な中であるから、細切れのエッセイを連載したものを収録するスタイルが適していたというのもあるだろうが、その形式が、彼の『生活』へのまなざしと通づるところがあるように思う。なかでも、『そして生活はつづく』という本の、とりわけタイトルが好きだ。続くのは『人生』ではなく『生活』だというところに、彼の考えが凝縮されているような気がするのだ。

 私達は他者を、ひいては自分を見るとき、ついその「図=ストーリー化された人生」を見て評してしまう。けれど、人が生きていく上で多くを占めているのは、「地=取るに足らない生活」である。

 人生、というけれど、結局そんなものは幻想ではないかと思う。つまり過去があって、今があって、未来があるのだけれど、その未来や過去というのは、自分というのが今ここに存在しているからからこそあるものなのだ。自分の人生全体を俯瞰的に見つめることなど、できるのだろうか?

存在の脆さと偶然の頼りなさの狭間で

 この人生に必然なんて何もなく、あるのはただ偶然の集まりであるという事実は、ときに人を怯えさせる。存在というものの脆さに、偶然の頼りなさに耐えきれなくなったとき、人はストーリーを求めるのではないだろうか。
 大切な誰かと出会ったとき、この出会いは必然であったのだと思おうとする。突然の不幸に見舞われたとき、わたしたちはその運命を呪おうとする。

(主人公のトマーシュがテレザとの出会いを思い返して)
だが逆に、ある出来事は最大数の偶然に依存するからこそ、いっそう貴重なものに、深意に満ちたものになるのではないだろうか?
ただ偶然だけがひとつの伝言として解釈されうる。必然によって生じるもの、予期され、日常的に繰り返されるものは無言である。ジプシー女がカップの底にコーヒーの滓が描いた形象の意味を読み取ろうとするように、ひとは偶然の意味を読み取ろうとするからである。

p58 ミラン・クンデラ 西永良成訳『存在の耐えられない軽さ』

私達は、素晴らしいものを生み出したり、輝かしい業績を挙げたり、幸せな家庭をつくるために生きているのではない。もちろん、そうしたことを人生の喜びとすることを否定しているわけではない。それは生の副次的な産物だということを言いたいのだ。

 私を私として認識しているこの「私」は、かけがえがない。
かけがえがないというのは、尊いというのとはイコールではない。文字通り替えが聞かないということであって、そこに尊いとかいった価値判断やことさらな意味付けは必要ないのだ。 たとえ私が偉大な発明をした発明家であったとしても、私は決してその発明をするために生まれきたのではない。

 例えば私は絵を描いたり、文章を書いたりするけれども、それは私の単なる性質であって、私を私たらしめているものではない。私以外に絵を書く人や文章を書いたりする人は大勢いる。もっと言えば、私と全く同じ性質をもった瓜二つの私がいたとしても、それは私ではない。私をいま私として存在させているものに、どんな必然性も意味づけもない。

 人は、ただ生まれ、喜んだり苦しんだりしながら、そして死んでいく。
人生に意味などなく、人は生きることで何らかの目的を達成することはない。究極的に言えば、生まれようと生まれまいと大した意味はないし、生きようが死のうが意味はない。それに意味付けるのはあくまで自分でしかない。

限りない偶然の集積の上に生きる私

 個人的な話になるが、私は生まれたとき、1100gほどの超低出生体重児であった。生まれたときは仮死状態で、一歩間違ったら死んでいた。小さい頃から、毎年MRI検査を受け、身体に異常がないかを調べた。母は、私が生まれたとき、医師から数え切れないほどの「これからかかるであろう病気や障害」を述べられたという。

 奇跡的にも、22歳になった今、わたしは目立った障害を抱えることなく、いたって健康に生きている。もちろん、それは、執刀してくれた医師や看護師、自らのお腹を割いて産んでくれた母と、育ててくれた家族と周りの人々のおかげである。

 しかし究極のところ、私がこうして生きてこれたのは、ただの偶然に過ぎないのだ。その偶然の頼りなさに、私は言いようのない畏れを感じる。
神の意志など介在せず、運命などではなく、ただ今の私がここに在るという驚くべき事実。あったかもしれない可能世界ではなく、今の現実世界にいるという奇跡に、思いを馳せずにはいられないのだ。

 すべてに意味はなく、偶然でしかありえないというのは、残酷なことのように思える。不幸な偶然に直面した時ならなおさらだ。けれど、人生の意味とか運命という言葉のもつ神秘的な響きよりも、本当はもっともっと素晴らしいことのように思えるのだ。

 私は、夥しい偶然の集積の上に、「今」というかけがえのないときを、「私」というかけがえのない私を生きている。他の誰も、私の代わりに生きることも、私の代わりに死ぬこともできない。

 もちろん、それは他人にも同じことが言える。けれど、私は他人にそれを決して本当の意味で言うことはできない。あなたがあなたとして存在することの奇跡は、あなたにしかわかり得ないことなのだ。 

 私が今ここに存在しているのは、私自身の意志の力でも、神様がそのように操作したからでも、運命だからでもない。単なる運で、単なる巡り合せで、単なる偶然に過ぎない。そしてそのことこそが、わたしの「生」を輝かしいものにしているのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?