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少年コピーキャット 第十話

 ふと目覚めると、時刻はすでに夕方近くであった。
 沙梨先生との別れ際に投げかけられた問いについて、あれこれ考えるのに疲れ果てて、学習机に突っ伏したまま眠ってしまったらしい。
 おかげで両腕が痺れるように重い。身体を起こして椅子にもたれかかると、学習机の脇に置いたスマートフォンが薄暗い光を発しているのが見えた。
 充電不足でバッテリーが切れかかっている、というサインである。
 いつから寝入ってしまったのかは分からないが、時間の長さだけならよく寝たはずなのに、疲れは取れるどころか身体中に張り付いてがちがちに固まっているような気がした。
 充電不足なのは携帯などではなく、きっと自分の方なのだろうと思う。
 ――次の文章を読んで、作者の気持ちを述べよ
 沙梨先生の新刊『魔弾の射手』の冒頭文に添えられた設問に対する答えは、いまだ見つけられずにいる。寝起きで判然としない思考に鞭を打つように頭を二回ほど軽く叩いた。
 次第に、昨夜考えた結論の導けぬ仮説が蘇ってきた。

 愛とは、社会的に容認された狂気だ。
 狂気そのものだ。
 愛するものを得ること。
 愛するものを失うこと。
 そのどちらも、狂気に直結する。
 内に秘めし狂気は、いずれ凶器を手に握らせるに至る。
 ゆえに、愛とは凶器である。
 愛なる狂気に貫かれ、死に至るか。
 誰にも愛されず、生き延びるか。
 生くるべきか、死ぬべきか。それが問題だ。
 愛とはすなわち凶器であるが、愛なき男にも、等しく凶器は備わっている。
 両足の間にぶら下がった剥き身の凶器は、数多のか弱き女性にとって凶器そのものである。
 愛なき凶器に貫かれ、文字通りの死を疑似体験したすべての女性に、わたしは同情を禁じ得ない。
 この世から、いっそ愛なるものが跡形もなく滅びてしまえば、世界はいくらかでも平和を取り戻すであろう。
 凶器まみれのこの汚れた世界など、消し飛んでしまえばいい。滅びてしまえばいい。
 本気でそう思った、十七歳の冬だった。

 前後の文の連なりからして、凶器とは男根の象徴だ。
 ごく普通に読めばそうだろう。
 両足の間にぶら下がった剥き身の凶器とはっきり明示されており、強姦レイプやストーカー、ないしは初体験のトラウマだとか、おおよそそんなものを連想させるけれど、そんなものは誰だって辿りつく結論だ。作者の気持ちを述べよ、と問われている以上、そんな安易な解釈を何の疑いもなく採用すべきではないのかもしれない。
 スゲー、ヤベー、エロい、という即物的な三語しか脳内にインプットされていない倫也でさえ容易に読み解ける陳腐な連想などではなく、根本からしてもっと別の意味が隠されているのではないだろうか。
 そもそも「凶器」という言葉が具体的に何を指し示すのか分からない、ということを出発点にすれば、「男」と「女」という言葉もまた何らかの象徴である可能性は高い。
 凶器を持つものを男、その凶器によって一方的に傷つけられるものを女と見立てれば、絶対的な権力、ないしは力を有する強者と、それに服従せざるを得ない弱者の関係が浮かび上がってくる。
 では、凶器を持つものとは誰か。無慈悲な編集者か、あるいは心無い中傷を垂れ流す読者、と考えることも出来るかもしれない。とすれば傷つけられる女とは、駆け出しの小説家の隠喩メタファーと考えて差し支えないだろう。
 世に出る前の状態の小説家は、選ばれる立場である以上、誰よりも弱い。
 選ばれる側の立場は弱く、選ぶ側の立場は強いのは世の道理だ。
 編集者に能力を認められなければ小説家は世に出ることは叶わず、世に出たとしても、読者に受け入れられなければ小説家は世に存在しないも同じ。
 小説など所詮は究極の受注産業である。出版社からの注文がない限り、プロの書き手としては存在し得ない。ゆえに出版社の構成員である編集者に「お前、要らない」と言われたらそこで終わりだ。才能を見限られることは即ち死を意味する。
 従って散弾銃のごとき罵倒を浴びせる読者は言うに及ばず、編集者もまた小説家の外敵となりうる存在である。小説家に引導を渡すのは無数の読者であるが、死亡宣告を実際に実行するのは編集者の役割だ。
 編集者は、未熟な小説家と凡庸な作品が世に出るのを阻む門番ゲートキーパーである立場上、どこかしら難癖をつけないと自身の存在意義を感じられない人種であるらしい。
 沙梨先生から雑談ついでに弱音を聞かされたことは一度や二度ではない。押しも押されぬ大御所作家ならばいざ知らず、所詮は二十歳そこそこの若手である。
「天下の文藝功労賞作家ならもっと良いものが書けるでしょう。浅い。深みがない」
 改稿のためのアドバイスと称して、とりあえずはそう言っておけばいいのだから、編集者稼業とは楽なものだと思う。全部が駄目と断じるのは、つまりは何も読んでいないのと同じだ。そんなことは何も読んでいなくたって言えることだから。
 そんな難癖を作中では「凶器」と呼称した、とは考えられないだろか。
 自分だったら、どう書き換えるか。その示唆がなく、ごくごく曖昧に欠点を指摘するだけならば有用な助言足り得ない。
 それを考えるのが作家の仕事だというならば、では編集者は何のためにいるのだ?
 どんなに面白くない作品の中にも、使える部分パーツの一つや二つは転がっているはずだ。
 それはたった一行かもしれないし、あるいはもっと短いフレーズであるかもしれない。
 登場人物の名前かもしれないし、舞台設定に光るものがあるかもしれない。
 どこを生かして、どこを削ぐか。
 ゴミの山のなかにこそ、なにか埋もれている宝はないか。
 それを見つける目こそが才能だ。そんなのちょっと読めばなんとなく分かるじゃん、と思っていたけれど、どうやらそれは物語の作り手である小説家に備わる特異な資質であって、門番たる編集者が具備すべき必須要件ではないようだ。
 編集者は全体を読み、評価する。
 小説家は部分を拾い集め、言葉でできた塔を組み立てる。
 神は細部に宿るというけれど、どんなに細部は良くとも全体が調和していなければ神は宿らない。しかしながら細部なしに全体はない。部分が寄り集まって全体が形作られる。
 世に先んじて生まれるのは部分であり、それこそが物語の断片である。作品と向き合うベクトルは小説家と編集者では相容れないものであり、両者は信ずる神が違うのだ。
 信ずる神が違えば、分かり合おうとしたって分かり合えないこともあるだろう。
 男と女が交わって子が生まれるように、作家と編集者が手を取り合った結果として作品が生まれる。だが大抵の場合、女がお腹を痛め、子を産み、育てる。女からすれば、男はたんなる傍観者でいるよりは、共に道を歩む同伴者であって欲しいと願うばかりだ。
 ぐちゃぐちゃとそんなことを考えたけれど、沙梨先生は本当にそんなことを伝えたいと思ったのだろうか。
 どうにも違う気がしてならない。あくまでも直観だが、こんな恨みめいた愚痴を汲み取って欲しいわけではないと思う。もっとこう、世界の扉が開くように深遠な、それでいて一言で言い尽くせるような、ごくシンプルなメッセージが潜んでいるような気がする。
 沙梨先生はぼくと違って性格のひん曲がった変化球派じゃないから。
 決して剛球じゃないけれど、キレのいい真っ直ぐを好んで放る人だから。
 というより、真っ直ぐしか投げれない人だから。
 悪文気味だから、意図せずしてあっちこっちに曲がるだけだ。
 自然ナチュラルな真っ直ぐが投げられないだけだ。
 だから、根っこには表も裏も曲がるも曲がらないもないはずだ。
 けれど、どんなに考えを巡らせてみても、その根っこに辿りつけないでいる。
 思ったよりも根が深いのか、それとも根の生えていない場所を掘っているだけなのか。
 沙梨先生、降参だよ。ぼくは、師匠が伝えたかったであろうことを読み解けそうにない不肖の弟子だ。破門されたって仕方がないと思う。
 だけど、せめて最後に教えて欲しいんだ。
 あなたがぼくに伝えたかったであろうことのすべてを。
 そう願うことすらも許されないのだろうか。
 果てのない思考を打ち破るかのようにスマートフォンが鳴動した。
 条件反射で拾い上げ、相手先の表示を確認する。
 画面に表示された番号を見て、電話に出るか出ないか、ぼくは即断できずにいた。手の内にある電話は途切れる様子もなく、しばらくの間鳴り続けた。

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