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傾国老人 第七話

 春斗は、うんざり顔をまったく隠さぬままに帰宅した。
 大方、母から「夕飯は勝手に食べといて」との一報を受けたのだろう。細かい事情は知らされずとも、その連絡ひとつで祖父と母がまたなにかしら揉めた、と即座に理解したようだ。
 紛争の絶えない家庭の永世中立国はいつだってどちらに肩入れすることはなく、いたって冷静に事の推移を観察するだけだ。
「じいちゃん、また戦争したの?」
 誰と、という言葉はまったく省略されていた。
「いつものことだ。大したことではない」
 春斗は応接室のテーブルに散乱した鑑定書類と床に転がった建築模型にちらりと視線を投げかけると、悟りを開いた仙人さながらの表情を浮かべて嘆息した。
「ぼくはあの設計、悪くないと思うよ。じいちゃんは欠けたり、凹んでいるところが許せないんだろうけど」
 童顔にはあまりにも不似合いの長い溜息は、言外で、もうちょっと大人の対応をしてよ、と求めているかのようだった。
 せめて母さんの言い分ぐらいは黙って聞いてあげてよ、という意思表示にも受け取れるが、永世中立国にしては珍しく、今回の戦争においてはいくぶんか母親寄りの立場であるらしい。
 感情を露わにするだけの被告はともかく、被告の弁護人はいつも通りに冷静だった。
「春斗はあの設計が気に入っているのか」
「じいちゃんが言うほど悪くないと思うよ」
「そうか。私は好かんがな」
 万事において、手放しで褒めることのない春斗にすれば、悪くないと思う、という素っ気ない感想は、最大限の称賛に近い評価だ。
「じいちゃんは四角い家が好きなの?」
「わざわざ欠けを作る理由がないだけだ。欠けた方位によって凶事が現れるからな」
「ふーん、じゃあべつに四角にこだわっているわけじゃないの?」
「四角にこだわりはないさ。ただ、家が欠けないように建てると、自然に四角くなるんだ」
 建物を四角の矩形とすれば、各辺の一片の長さの三分の二以内が凹んだ矩形を「欠け」という。一方、各辺の一片の長さの三分の一以内が凸んだ矩形を「張り」という。家相、風水的には張りは方位によっては吉方があるが、欠けは全方位で吉は無い。
「凶事って、たとえばどんな?」
「いちいち口で説明するより、読む方が早い」
 書棚から目当ての本を抜き取った。父の遺した家相学の本である。
「このあたりを読みなさい」
 もともと父が家相や風水にうるさい人だったこともあり、自由が丘に移り住む際には、やれ方角がどうだ、やれ家の向きがどうだ、気の流れがどうだ、とあれやこれやと注文を付けられ、土地探しが難航し、最終的には中古の家を買うことに落ち着いた経緯がある。
 築十年足らずの中古物件のため建物は多少傷んでいたが、父曰く風水上申し分ない、とのお墨付きもあり、この家の購入を決めた。
 当時こそ亡父の迷信めいた助言の数々に辟易したものだが、父の遺した蔵書を読み、改めて勉強してみると、家相や風水はあながち、たんなる迷信と切って捨てるようなものでないことに気がついた。
 中国での風水理論の完成は宋から明代であるのに対し、それ以前の飛鳥、奈良時代に日本に伝わった理論が中国本土とは別の形で、独自の発展を遂げたのが陰陽道や家相学とされる。
 家相と風水は一緒くたに語られることが多いが、両者は生まれは同じで、育ちの違う兄弟のような間柄だ。
 怪しげな自称専門家も多く、眉唾な情報が溢れているが、家相にせよ風水にせよ、家族の安寧と運気上昇の道標となる学問と思っておけばまず間違いはない。
 どの程度まで家相や風水を取り入れるかのさじ加減は難しいが、妄信するでもなく、まるっきり無視するでもないぐらいがちょうどよかろうと思う。
「一階に三つも欠けがあると、凶事の三重奏ってことだね」
 春斗は欠けの方位によって現れる凶事について説明したページに目を通した。床に転がった建築模型を拾い上げると、家相学の本の内容と照らし合わせて苦笑いした。
「この設計だと東と西、東北に欠けがあるけど、とりあえず家族は揉める運命みたいだね。家督相続者に災い有り、家族の諍い絶えず、家族は衰退、長男は出世せず、支出多しだって」
 春斗から返却された本の一節には、以下のように書かれている。

 北 方位(次男の定位)の欠け 
 後継者なし。子孫の衰退。

 東北方位(三男の定位)の欠け 
 家督相続者に災い有り。家族の諍い絶えず。

 東 方位(長男の定位)の欠け 
 長男は出世せず。家族は衰退。 長男は女性問題絶えず。

 東南方位(長女の定位)の欠け 
 商売の破綻。社会的信用の喪失。長女は晩婚もしくは結婚出来ず。
 
 南 方位(次女の定位)の欠け 
 社会的名声を失う。女子の子供はケガなど身体を痛める事故多し。

 南西方位(主婦の定位)の欠け 
 主婦が大病多し。主婦、再婚の相。養子の相続になる。

 西 方位(三女の定位)の欠け 
 支出多し。家産衰亡す。子供、異性間問題多し。

 北西方位(主人の定位)の欠け 
 主人が社会的に破綻する。財運なし。

「子供、異性問題多し、だそうだぞ」
 春斗が読み飛ばした西方位の記述の一節を指摘すると、
「それはご心配なく。問題になるほどモテないから、へーき」
「なんだ、もてないのか。それはそれで問題だ」
 家相学の本を書棚に戻しながら茶化すと、
「それより支出多しの方が問題でしょ」
 あっさり言い返された。
「欠けた家が駄目だっていう理由はなんとなく分かったけどさ」
 春斗は視線を落とし、なにか言いにくそうにしている。
「なんとなくで十分だが、なんだ?」
 ちらりと上目遣いで私を眺めた。こういうこと言っていいのかな、というお伺いのようにも見える態度であった。
「言いたいことがあるなら、はっきり言いなさい」
「うん。じゃあ、言う」
 春斗は三カ所に欠けのある建築模型を手に持ち、小声で言った。
「京都の家はどこも欠けてなかったのに、家族はバラバラだね」
 春斗の言わんとしていることはよく分かった。
 京都の家とは千年堂のことだろう。コンクリート造りの真新しいビルはどこにも欠けはなく、たいそう立派なものであった。
 家相的にも風水的にも問題のない造りであるはずなのに、どうしてあの家はあんなに揉めているのだ。
 春斗の脳裏にそんな疑問が湧いたのだろう。当然の帰結として、だったら風水とか家相って、あんまり意味ないよね、という結論に至ったとしても不思議ではない。
 案の定、春斗の続きの言葉は辛辣な色を帯びていた。
「家に欠けがあろうがなかろうが、結局はそこに住む人間の問題だよね」
「風水なんて無意味だと言いたいのか」
 春斗はこくりと頷きかけて、慌てて首を横に振った。
「無意味とまでは言ってないよ」
 唇を尖らせ、不満そうな顔をした。
「京都の戦争は勝てそう?」
 これ以上踏み込むと旗色が悪いと思ったのか、春斗は裁判方面の話題に切り替えた。
「裁判官次第だな。書に興味のない裁判官だと鑑定書の中身をほとんど読みもしないで、鑑定人の鑑定実績の多寡で判決を下すことがあるからな」
「どういうこと?」
「ひとりの裁判官が受け持っている裁判は数百件もある。しかも、二年から三年で転勤するから、同じ場所にいるのはせいぜい三年だ。難しい事件だと長引くから、自分で判決を書かないと思えば熱心に記録を読まなくなるし、なるたけ判決文を書きたくないから基本的には和解で終わりにしたいと思っている。要するに、裁判官が提出された鑑定書や記録を念入りに読むとは限らんのだよ」
 春斗が目を見開き、驚愕した。
「鑑定書を読まない裁判官なんているの?」
「転任が間近だと思えば、念入りには読まないだろうな。まあ、転任したら前任者の記録をぜんぶ読まないといけないがな」
「じゃあ、じいちゃんは読まれもしない鑑定書を一生懸命書いているわけ?」
「それは違うな。読まれもしない可能性があるからこそ、少しでも裁判官の印象に残るように手を尽くさなければならんのだ。正しい鑑定をするのは当然で、それをいかに裁判官に理解させ、印象付けるかが勝負の分かれ目なのだよ」
 春斗は一瞬、呆けたような表情を浮かべた。
「用意した鑑定書が読まれなかったらどうしようもないじゃん。裁判って、ほんとうに運頼みの戦争なんだね」
「ああ、まさしくな。民事訴訟は私的紛争という名の戦争だ。裁く側はそれを見守るだけで、見守るだけの人間に判断を丸投げすれば、相手方の言い分が通るのは当然だ」
「裁判官が鑑定書を詳しく読まないんだったら、なにを決め手にするわけ?」
「鑑定実績の多さだけを見て決める場合がある。向こうの鑑定士は実績が四千件以上らしいからな。鑑定書をまともに読まない裁判官だと、この時点で負ける可能性がある」
「四千件って多いの?」
「あり得ないぐらいの多さだな」
「じいちゃんはどれぐらいなの?」
「いちいち数えていないから知らん。だが、四千件は絶対にないな」
「ふーん。だから、じいちゃんイラついているのか」
 なにをどう理解したのか知らぬが、春斗は勝手に納得したらしく、建築模型をそっと置くと、自室のある二階へ上がっていた。
「べつに相手が格上の鑑定士だ、と認めたつもりはないのだがな」
 孫に対して言い訳のごとき独り言を口にしたが、春斗の姿は応接室から消えていた。
 長男の伸太郎を強力に援護した大阪府警察本部、科捜研出身者の鑑定実績は、一見すると、他に比肩するもののない卓越したものだ。
 同氏の経歴書によれば、職に就いてから定年退職するまでの二十余年の間に「四千件以上もの筆跡、印影、印刷物、文字検出等の文書鑑定を行った」と誇らしげに書かれている。
 だが、四千件を勤続年数の二十年で割ると、一年間に二百件。
 週休一日の勤務としても、二日に一件超のハイペースで鑑定をこなしていた計算になる。
 いくら警察とはいえ、一府の警察において筆跡絡みの事件がかくも頻繁に起こっていたとは考えがたく、筆跡担当の技士が複数人いれば、なおさら鑑定件数は減少するだろう。
 この鑑定書が宣誓を前提とするもので、しかも警察出身者であるからには実績を上増せしたとは考えづらいが、仮に四千件もの鑑定件数が嘘でないとすれば、次に問われるべきは、科捜研筆跡鑑定の厳密さである。
 経験と睨みで断を下す骨董屋ならともかく、科学と名のつく鑑定をするからには、それだけの論理と根拠、証拠と証明が欠かせない。 
 科学は深めれば深めるほど、誤りを犯さないために否定的条件を除去する多くの手続きと時間が必要となる。
 いったいぜんたい科捜研は、二日に一件などという、かくも性急な鑑定環境をどう考えているのだろうか。
 この経歴書から浮かび上がるのは、マニュアルに従って慌ただしく単純に数をこなす姿ばかりである。裁判官はややもすると実績件数の多寡を能力の有無と解する傾向にあり、それが鑑定士の価値であると信じて疑わぬ部分が垣間見える。
 しかし、鑑定件数の多さがすなわち実績ではない。その中に誤審、誤認が多数含まれていたとすれば、むしろ害悪でしかないだろう。
 とはいえ、見かけの実績を高く評価するタイプの裁判官が審理を担当することになれば、鑑定書の内容以前に決着してしまう。
 はてさて、科捜研の牙城をいかに切り崩すか。くどくど書いては読まれぬが、すっぱり言い切っても結論のみでは裏付けが足りぬ。
 一読してすぐに内容が理解でき、なおかつ反論の余地を与えない鑑定書をしたためられればそれが理想だが、最善手はその都度知恵を絞り、捻り出さねばならない。
 だが、さっぱり妙案が浮かんでこない。休憩がてらにアルコールを摂取しようと、重い腰を上げ、冷蔵庫まで歩いた。小腹もすいたので冷蔵庫内を物色したが、すぐに食べられそうな調理済みの食品はなく、生鮮野菜や豆腐、納豆があるのみだった。
 豆腐だけでは味気ないし、野菜だけではヘルシー過ぎる。米は炊いていないので、納豆だけ食べるつもりもない。
 早々に食事は諦め、残り少ない缶ビールを確保し、ソファへ戻ろうとしたとき、急に立ちくらみがした。
 頭がふらつき、呼吸が苦しく、家の床がぐるぐると回転しているような錯覚に囚われた。床を這うようにしてなんとかソファに辿り着き、うつ伏せに倒れ込んでしばらく休んでいると、頭のふらつきはだんだんと和らいでいった。
 薄く目を開けると、テーブル上の書類は脇に寄せて一カ所に固められ、プルタブの空いていない缶ビールが隅っこに置かれていた。
「じいちゃん、疲れてるね。ちゃんと寝てないでしょ」
 季節感のない着古したパーカーにハーフパンツを履いた春斗は、氷を入れたグラスにコーラを注いでいた。身体を起こし、気付けの一杯を口に含むと、ようやく人心地ついた。
「母さんが夜ご飯、勝手に食べとけって」
「冷蔵庫になにも食べるものはないがな」
「出前でもとる? ピザとか」
「油っこいものは食べたくない」
 対面に腰掛けた春斗の提案をあっさり却下すると、一瞬むっとしたような表情を浮かべた。
「じゃあ、どうするの」
「軽く食べに行くか、鳥まさにでも」
「それはダメ。また戦争になるから」
 今度は春斗が外食案を却下した。義娘は行きつけの焼鳥屋に管を巻きに行ったらしい。
「私は欠けのある家は許せん、と主張しただけだ。施主の希望も聞かずに建築家に設計を依頼したのは拙速だったな」
 こちらの言い分を主張したら、相手が激昂しただけである。
 元々、戦争する意思などない。
 だが、相手が戦争を仕掛けてくれば話は別だ。
「母さんは、じいちゃんをないがしろにしているわけじゃないよ」
 聞き分けの悪い子供をあやすような口調で、春斗が言った。
「ハウスメーカーとの打ち合わせの後に、じいちゃん言ったじゃん。ただの箱に何千万円も出せんな。設計に面白味がないって」
「そんなこと言ったか?」
「言った」
「覚えとらんな」
 記憶が定かではないが、もしかしたら、そのようなことを言ったかもしれない。
 ハウスメーカーの建てる家など、どれも大差ない。
 しょせん「箱」だと。
「ハウスメーカーがお気に召さないのなら建築家を探すしかない。でも遠方の建築家だと、頻繁に打ち合わせするとじいちゃんの負担になるから、なるべく近場で探そうねって母さんは考えたんだ」
 諸々を勘案し、件の建築家に依頼したという。自由が丘から二駅隣の学芸大学に事務所を構えており、事務所での打ち合わせが多くなっても移動の労力は最小限で済む、との配慮らしかった。
「でもじいちゃんの結論は、面白味はあるが、欠けがあるのが気に食わんでしょう。ハウスメーカーはどこも箱だから駄目。建築家は欠けがあるから駄目。じゃあ、どうすればいいのよ、って母さんが怒るのも無理ないと思うよ」
 春斗の説明を聞いてはじめて、義娘が独断で暴走していたのではないことが窺い知れた。事後承諾であることが気に食わぬが、一応はこちらに気を遣っていたらしい。
「だったら建築家に面白味があって欠けのない家を依頼すればいい」
 その反論は予想していたらしく、あっさり打ち返された。
「母さんは二回目の打ち合わせのときに欠けのない家は作れますか、って質問したよ。そうしたら建築家が怒っちゃってさ」
「なぜ怒るのだ」
「そのような単純な設計が御希望でしたら、わざわざ私のような建築家に依頼せず、大手ハウスメーカーでお建てになればいいじゃないですか、って捨て台詞みたいに言われたんだよね」
 春斗は口の端を歪め、自嘲気味に笑った。
「母さんは作り笑いしていたけど、ぼくは正直カチンときたな」
 伝え聞いただけで無性に怒りが込み上げてきた。
 気がつくと、飲みかけの缶ビールを思い切り握りしめていた。
「なんだ、その失礼な奴は。そんなのに頼むのはやめてしまえ!」
「うん、まあそうなんだけど」
 義憤に駆られて吠えたが、春斗は飄々とした仮面を崩さず、べつだん怒ってはいなかった。
「でも、じいちゃんだって、明らかに偽造の遺言書を白にしてください、って頼まれても、別のところに行けって言うでしょう」
「言うな」
「それと同じだよね」
 建築家の横柄な態度と筆跡鑑定士の然るべき態度とを両天秤にかけて、どちらも同じだと言いたいらしいが、断じてその二つが同じであるはずがない。
「金を出すのはこっちだぞ。施主が欠けた家を作るなと言えば、建築家はその意見を反映すべきだ」
「じいちゃんだって、いくらお金を積まれても黒を白にはしないでしょう」
 たしかにその通りである。真実を捻じ曲げてまで依頼人の望む通りの鑑定をしようとは思わない。たとえ大金を積まれようが、黒は黒として鑑定するだろう。
 どうしても黒を白にしてほしいと請われれば、やってやれないこともないとは思うが、まずは医者に相談しなくてはなるまい。
 良心は摘出できるのか、と。
「専門家って、ぜったいに譲れない部分があるものでしょう。その建築家は欠けた家が好きなだけで、それがいやならよそに行けっていう態度はじいちゃんも同じだと思うけどな」
 完全に言い負かされ、それが真実の一端を抉っていたからこそ、余計に癪に障った。
「欠けた家でも構わんぞ。私が死んでから建てるのならな」
 アルコールがほどよく回っていたせいか、ついつい口が滑ってしまった。春斗の表情を窺うと、可哀想なほど蒼白に変じてしまっていた。
「縁起でもないこと言わないでよ」
 春斗は私と視線を交えようとはせず、ソファから立ち上がると、黒い液体の入ったグラスを持って冷蔵庫の方へ歩いていった。
「夜はぼくが作るから。うどんなら食べれるでしょう」
 冷凍庫から取り出したうどんには麺つゆが付いていなかったようで、どこか不安げに首を傾げながら、調味料やら醤油やらを湯を張った鍋に投入していく。
 味を整えながら麺を湯がく手つきは遠目にも危なっかしくて、とても料理しているようには見えず、化学の実験でもしているかのようだった。案の定というべきか、春斗の作ったうどんは、なんとも言えない壊滅的な味がした。
 見た目だけなら関東風の黒っぽい汁だが、ドブ川のような濁った色をしており、味が濃いのかと思って恐る恐る一口啜ると、やけに酸っぱかった。
「なんか酸っぱいね。すげーマズいや」
 作った本人でさえ素直に不味いと認める会心の出来であった。
 孫のせっかくの手料理だったが、半分ほど食べてギブアップした。麺つゆの付いていない冷凍うどんとはいえ、ここまで不味くできるとは、ある意味において才能である。
「ふつう、ここまで不味くはならんぞ」
「うん。ぼくもびっくり」
 うどんがあまりにも不味かったからか、急激な嘔吐感を覚え、たまらずに吐いた。テーブルや床の上に吐かないようなんとか我慢してシンクまで歩み寄ったが、ほんのわずかに間に合わず、吐きだしたものの一部はキッチン下の床に飛散した。
「いくらマズかったからって、吐くことないじゃん」
 春斗が呆れながらキッチン横まで歩いてきたが、吐瀉物に赤黒い血が混ざっているのを見つけると、にわかに表情が強張った。
「いいよ、ぼくが掃除するから。じいちゃんは休んでてよ」
「ああ、すまんな」
 吐瀉物を跨いでシンクの前に立ち、軽くうがいをしてから口元を拭った。カウンターにもたれて座ると、先ほど感じた猛烈な吐き気はすっかり消退していた。
「これ、血だよね」
 春斗は水を含んだ雑巾を絞り、床を拭いた。
「トマトだろう」
「そんなの入れてないし」
「じゃあ、朝の残りじゃないか」
「じいちゃん、今日は朝ごはん食べてないじゃん」
 うどんの残骸に赤黒い血が混じっているのを心配したようだが、取り越し苦労だろう。
「歯周病で歯茎から血が出たんだろう。齢をとると歯茎が弱るからな」
「いちおう病院に行ったら」
「医者になんて言うんだ。まずいうどんを食べて血を吐きました、とでも言うのか」
 あまりに心配そうな目を向けるのでそう笑い飛ばしたが、春斗はしばらく押し黙ったままだった。

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