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傾国老人 第四話

 弁護士との約束の時間が迫っていたので、東大路通りを北上していた黒塗りのタクシーを呼び止めた。
 弁護士事務所の所在地をメモした紙切れを運転手に示すと、
「ああ、丸太町の駅のすぐ近くですわ」
 と言って、タクシーは静かに走り出した。
 我が家の建て替えを考えているからか、窓越しに京都の町の景観を眺めていると、解体中の古家ばかりが目についた。古家の多くは単独では建っておらず、隣の家と側面の壁がくっついて建っており、お互いにもたれかかって、支え合っているような印象を受けた。
 信号が赤に変わり、タクシーが停まった。
 窓の外を見ると、三棟が隙間なく居並ぶ古家の真ん中の建物が解体されていた。中央の建物が無くなると、支えを失った両隣の古家はいっそう寂しげだ。孤独になってしまった側壁は、隣家の材木の痕跡が完全には取り払われず、かつての連棟式の姿を保存するかのように一部が残されている。
「千年堂の着物を見に来たんですがね。もう営業されてはいないんですか」
 市中の人間は、千年堂の現状をどう見ているのかだろうか。ふと興味が湧き、独り言のように訊ねると、老齢の運転手はハンドルを握ったまま答えた。
「なんやら揉めているそうですな。熟練の職人が一斉に逃げ出したって噂ですわ。この辺りでお客さんを乗せると、よう聞かれます」 
 ルームミラーをちらと見て、運転手が苦笑いした。
「そのわりに建物は立派で、景気が良さそうに見えましたが」
 真新しいコンクリート造りのビルは、古都の景観にほぼ違和感なく溶け込んでいたものの、近隣の古めかしさと比べると、そこだけが別世界のように浮き上がっているようにも見えた。
「品質は良いんでしょうよ。着物の良し悪しなんぞわしらにはよう分かりませんが、見る人が見れば違うんでしょうな」
 京友禅の着物の値段はまさしくピンキリで、安いものでも三十万円ほど、高いと数百万円は下らず、最高級品ともなれば、我が家を新築できるくらいの値段になると聞いたことがある。
 三千万円を超える着物とは、いったいどんなものかと想像して、くらりと目眩がしたことをよく覚えている。
 タクシーが丸太町駅前の通りに停車した。料金メーターは千円を少し超えた程度であった。運転手が後部座席を振り向き、白手袋を嵌めた手で窓の外を指差した。
「そこの道を一本中に入ってもらえば、目的地やと思いますわ」
 料金を支払い、礼を言ってからタクシーから降りた。

 丸太町駅前から東へ一区画歩いた場所に、赤茶けた煉瓦壁の法曹ビルがある。
 柏木法律事務所の入居階を確かめ、エレベーターに乗り込む。
 受付で来意を告げると、すぐに会議室へと案内された。
 室内の壁は淡いクリーム色に統一され、焦げ茶色の横長のテーブルの周囲に、白い肘掛け椅子が三つずつ向かい合って並んでいる。
 壁際の席に森保由布子、その隣にがっちりとした体躯の弁護士と思しき人物が座っていた。
「藤岡様、お着きになりました」
 受付嬢が扉を背で押さえながら告げると、弁護士らしき男と森保由布子が同時に立ち上がり、こちらに振り向いた。
「弁護士の柏木と申します。遠路はるばるお越しいただき、恐縮に存じます」
 長身の男の紺色のスーツの襟に、鈍い銀色の弁護士記章バッジが付けられている。
 純銀製のベースに金メッキが施された弁護士記章は、長年使用していると金メッキが剥げ落ち、純銀が剥き出しの状態になっていく。ベテランになればなるほど金から銀へと退色していくため、経験を積んだ弁護士か否かは、襟元のバッジを見ればおおよそ判別可能だ。
 その点で言えば、柏木弁護士は紛れもなく、いぶし銀であった。
 猛禽を思わせる鷲鼻が鋭い印象を与えるが、甘い目元が鋭さを和らげており、柔和な笑みには不思議な包容力と安心感が漂っている。
 弁護士の力量を推し測るには、弁護士記章の輝きを見る以外に、もう一つの注目点がある。
 弁護士記章が、傾いているか否かだ。
 この観点から点数をつけるならば、柏木弁護士は文句のつけようもなく満点である。
 正義と自由の象徴である「ひまわり」の中に、公正と平等の象徴である「はかり」がデザインされた弁護士記章は、どちらか片方に傾くことなく、はっきりと水平に留められていた。
 身だしなみを気にする弁護士は多くとも、バッジの傾きに頓着しない弁護士は、それだけで論外だ。公正と平等のシンボルが傾いて掲げられている人間など、信ずるには足らない。
「藤岡圀光です。こちらは助手の藤岡春斗です」
 名刺交換の後、がっちりと握手を交わした。
「筆跡鑑定の第一人者である藤岡先生にお会いでき、たいへん光栄です」
 春斗がどことなく胡乱な眼差しで私を見つめた。自分が助手扱いされたことはともかく、酒飲みの偏屈じじいが筆跡鑑定の第一人者などと、業界の重鎮扱いされたことに違和感を覚えたからだろう。
「それでは、こちらにどうぞ」
 春斗がなかなか動こうとしなかったので、肘で小突き、柏木弁護士と森保由布子の対面に座るよう促した。
「わざわざ京都までお越しいただき、本当にありがとうございます」
 森保由布子が深々と頭を下げた。昨日、自由が丘の事務所で会った時の白蝋めいた表情と比べると、わずかだが血の気が戻っている。
「お気になさらず。仕事ですから、頼まれればどこへでも参ります」
 妻の葬儀や己の体調不良もあって、二年近く休業していた。
 入院中や不在時は春斗の母の幸枝に電話番を任せており、業務の依頼や相談など何かあればその都度知らせてくれと伝えてはいたが、幸枝から何かを聞いた覚えはない。
 森保由布子が私に連絡が取りたくても連絡がつかなかった、ということは、昨日初めて本人の口から直接聞いた。
 事務所に幾度も電話したが、電話番の女性が「義父は仕事を辞めました」と言うばかりで、齢も齢だし、事務所再開の目途は立っていない、と素っ気なく告げられたという。
 電話では埒が明かないので、無駄を承知で東京の事務所まで様子を見に来たら、玄関先で春斗を見かけた、という顛末である。
 義娘の幸枝が伝言を取り次がなかった訳には、ささやかながらも心当たりがある。退院後、私に手料理を振る舞った幸枝に感想を求められた際、「病院食の方が美味かった」と正直に口にしたことに立腹したようで、その意趣返しだったのだろう。
 かれこれ一年近くも怒りが持続しているとは驚きだが、こちらとて本心を撤回するつもりもない。胆嚢を全摘出した影響からなのか、味覚がはっきりと変わり、油っぽいものをほとんど受けつけなくなった。その状態で、あろうことか豚カツである。
 食事の感想もへったくれもなく、紛うことなき拷問だった。
 病院食の方が薄味で断然美味かった、というのは嘘偽りもない本音だったが、こんなもの食えたものじゃない、と付け加えたことは、さすがに余計な一言であったらしい。
 あの豚カツ事件以来、元々からして少なかった義娘との日常会話は完全に死に絶えた。そんな殺伐とした関係であるから、京都から電話があったとしても、幸枝が私に取り次ぐはずもなかった。
 極力、私と会話したくないのだから仕方あるまい。
 だが最も可哀想なのは、失言じじいとヒステリーな母の板挟みになった孫である。第一次豚カツ戦争に続き、第二次建て替え戦争が勃発した際には、さすがに春斗も呆れ返っていた。
 私の許可もなく建築家に設計を依頼していた幸枝を木っ端微塵に断罪すると、義娘は九州行きの飛行機に飛び乗り、一人息子をほったらかしにして、機上の人となった。
 なにかと馬が合わない義娘が離れていったことには清々したが、板挟みの孫に白い目で見られたことには、ほんのわずかばかりだが、申し訳なさを感じている。
 じいちゃん、ほーんと大人げない。少しはぼくの身になってよ。
 火中の家中を傍観していた仏頂面の孫は無言を貫いてはいたが、目は口ほどに物を言っていた。
「すでにお聞き及びと存じますが、判決の経緯をご説明いたします」
 柏木弁護士が大判の封筒の閉じ紐を解いた。
 由布子夫人の右隣は空席で、夫の滝二はこの場に同席していない。御家騒動の当事者である滝二が臨席できない何がしかの事情があるのだろうか。
「その前にひとつお尋ねしたいのですが、滝二氏は今何を?」
 率直に尋ねると、柏木弁護士は封筒の閉じ紐を結び直した。
 硬い表情の由布子夫人が口を開いた。
「今、千年堂の真向かいに新店舗を建てているのですが、夫は社員と職人さん一人一人に会い、現状を説明した上で、そちらに移るかどうかの意思を確認しています」
 由布子夫人の説明によると、京友禅の製作工程は少なくとも十七はあるそうで、それぞれの工程で職人が腕を振るい、職人技が幾重にも積み重なって出来上がる、完全な分業制になっているという。
 依頼主の希望を聞き、適切な職人を選び、依頼主の思い描く完成形に近づくよう、すべての工程を采配する、いわば着物のプロデューサー的存在である「染匠」を二十年近く務める滝二氏だが、特に職人の得手不得手を把握していないと、思ったような仕上がりにはならない。
 着る人が思い描いているイメージをどれだけ視覚的に表現出来るかが鍵であり、千年堂に着物の制作を依頼する顧客の信用を裏切ることはできないので、最初の話し合いがとにかく重要であるという。
 依頼主とのやり取りと並行して、各工程を担う職人への心配りも重要な仕事である。ただ単に反物を職人から次の職人へ持って行っていくだけであったらまったく相手にされず、自分が作りたいもの、依頼主が望むものを的確に伝え、その上で職人にも気分良く仕事をしてもらわねばならないそうだ。
「夫は常々、こう申しておりました。うちの店はまだ鼻たれだし、娘たちに後を継げなどとは軽々しく言えないけれど、せめて次の代までは残していきたい、と」
「鼻たれ、とは?」
 由布子夫人は和装業界を取り巻く厳しい状況を敷衍しつつ、夫の胸の内を代弁した。
「京都の商売は儲けることよりも続けることを考えろ。京都の老舗は百年、百五十年は鼻たれ小僧、三百年続いてやっと一人前なんて言われます。うちはたかだか創業百五十年程度ですが、代々続いてきた商売ですし、京友禅はまったくの新参者が軽々しく始められる商売ではないので、なんとか残していきたい。せめて次の代までは残していきたい。夫はその一心で、付き合いのある職人さんたちに千年堂の現状と今後の展望を説明して回っています」
 明治以降、生活様式が変化し、日本人の普段着は着物から洋服になった。着物を着る機会が激減し、着物の消費も落ち込んだ。
 それは京友禅も例外ではない、という。
 加えて、卓越した技術を持つ職人の多くが六十歳以上で、昔から受け継がれてきた技術は職人の減少や高齢化に伴い、後継者がいつ絶えても不思議ではない、という問題も横たわっている。
 千年堂と付き合いのあるすべての職人が京友禅の危機を肌で感じており、ある職人は自分の息子に後を継げ、とは言えない状況を嘆き、後継者不足、生産量の減少、販売価格の問題、問題視する点はそれぞれだが、誰しもに共通するのは「着物文化を絶やしたくない」との思いだという。
「幸い、ほとんどの職人さんが、会社をここまでにした大将がこれではあまりに気の毒や、と言ってくれはって、千年堂の看板を失っても変わらずの協力を約束してくださいましたが」
 森保由布子が必死に笑みを作ろうとしていたが、表情は強張り、泣き笑いのような顔になった。
「気持ちは嬉しいけれど、職人さんたちにお給料をちゃんと払えるのかと不安で」
 由布子夫人は、夫の滝二の崇高な精神と絶壁に立つ足元の危うさを説明し終えると、両肩にずしりと背負った荷物の重さを再認識してか、一気に何歳も老け込んだような気がした。
 柏木弁護士は両膝に手を置いたまま、身じろぎせずに沈黙を守っていた。夫人が話し終えるのを見計らった柏木弁護士は、茶封筒の閉じ紐を解き、厳かな手つきで書類の束を取り出した。
「こちらが千年堂三代目当主の森保伸和氏がお書きになった遺言書です。生前、顧問弁護士に預けられていたもので、その検認手続きとして京都家庭裁判所で親族立ち合いのもとに開封されたものです。便宜上、こちらを『第一遺言書』と呼称します」
 第一遺言書は、和紙の巻紙に毛筆でしたためられ、実印が押されていた。
「こちらが長男の森保伸太郎氏が検認手続きの日に持参した『第二遺言書』です。こちらも裁判所で開封されましたが、原本は伸太郎氏の手にあるので、原資料をスキャニングしたものになります」
 高精度のスキャニングがなされた第二遺言書のコピーはペン書きで、覚書も付されていた。原資料ではなくとも、スキャニングの精度が高いので、印された文字を検める上での不都合はないだろう。
 これが線質や濃淡が不鮮明なコピー資料となると、鑑定は困難を極める場合が多い。
「ご存知のこととは思いますが……」
 柏木弁護士が説明を続けた。
「遺言書が有効のものであるためには、全文が自筆であること、日付のあること、押印のあること、封書として密封が完全であること、が条件になります。遺言者の死後、家庭裁判所で検認手続きを経て、法的に効力を発することになります」
 助手として連れてきた春斗に向けての補足説明であるのだろう。弁護士事務所という名の、あまりに場違いな場所に迷い込んできてしまった少年を疎外しないための心配りだ。
 春斗に説明すると同時に、由布子夫人に改めて民事訴訟とはいかなるものであるか、その心構えを理解させようともしている。
 民事裁判の目的は、正義や真実の追求ではない。
 裁判所としては、私的紛争を効率的に解決すればよいのであって、当事者に代わって積極的に正義を追及してくれるわけではない。
 ゆえに、正しいものが勝てるという保証はなく、自分の正しさはあくまでも自分で証明しなければならない。
 裁判を争う当事者が自身に有利な事実、証拠を提出しない場合、敗訴となる。真実がどうであれ、しっかりとした証拠がなければ、正しいものでも敗訴の憂き目に遭う。
 国家から見れば、裁判制度に要する費用は社会秩序を維持するためのやむを得ないコストであるゆえ、できるだけ効率的に安く紛争が解決することを是とする。
 それでは弱者は浮かばれないが、とにもかくにもそれが現在のシステムである。なんとも受け入れがたい御上のロジックであるが、詰まる所、法は権利の上に眠るものを保護しない。
「遺言書の中になにが書かれているかを知りたくなって、こっそり開封したりすると罰せられます。密かに内容に改竄を加えたりすれば、改竄者は遺言の対象者から除外されます。遺言書が複数ある場合には、日付が後の方の遺言書に優先順位があり、それより以前に書かれたものは効を失うことになります」
 先刻まで借りてきた猫のように大人しくしていた春斗だが、説明を聞くうち、わずかに身を乗り出した。
 柏木弁護士はそれぞれの遺言書に記された日付を指差した。
「第一遺言書の日付は平成十八年十二月十二日、第二遺言書の日付は平成二十一年三月九日ですから、法律上は第二遺言書が有効、と判断されます」
 柏木弁護士がコピー資料の日付を指し示すと、由布子夫人の目がどんよりと曇った。
「藤岡先生、ひとまずお目通し頂きたく存じます」
「拝見します」
 まずは、伸和翁直筆の第一遺言書から目を通した。
 伸和翁の意図は、財産の分配方法を見るだけで一目瞭然であった。

 ○伸和が有する千年堂株式会社の株式の遺贈
  次男の滝二に三万株
  三男の喜久雄に二万株
  次男夫人の由布子に一万株

 ○伸和が有する銀行預金と上場株式の遺贈
  長男の伸太郎に七割五分
  三男の喜久雄に二割五分

 ○伸和が所有する東山区下河原通八坂にある宅地と居宅の遺贈
  三男の喜久雄にすべて

 千年堂の経営権は次男の滝二夫妻に委ね、その代わり現金および上場株式の多くを長男の伸太郎に与える。三男の喜久雄は不動産の他、千年堂の株式と現金、上場株式にまたがって得ているが、身体の弱い喜久雄をおもんばかっての措置であろう。
 なんの問題もない、順当な内容のように思えるが、長男の伸太郎に対しては、金は十分に与えるが、千年堂には一切関わらせない、という意図にも読み取れた。
「第一遺言書を読む限り、伸和翁のお考えは明白ですな」
 ざっと目を通した限りの感想を伝えると、柏木弁護士が頷きを返した。続いて第二遺言書に目を通したが、細く、弱々しい筆跡で、目を覆いたくなるような内容が書き連ねられていた。

 ○伸和が有する千年堂株式会社の株式の遺贈
  長男の伸太郎に五分の四
  三男の喜久雄に五分の一

 ○伸和が有する不動産の遺贈
  三男の喜久雄に東山区河原通八坂にある土地建物
  次男の滝二にその残り

 ○伸和が有する上場株式の遺贈
  次男の滝二にすべて

 ○伸和が有する預貯金およびその他の財産
  伸太郎、滝二、喜久雄にそれぞれ三分の一ずつ
 
 さらに、次の二項が補記されていた。

 ○遺言執行者を長男森保伸太郎に定める
 ○従前に作成した遺言書はこれを取り消す

 第一遺言書の主旨が「長男伸太郎に対して金は十分に与えるが、千年堂の経営には関わらせないこと」にあるのに対し、第二遺言書はそれを百八十度覆していた。のみならず、千年堂に対する滝二氏の後継権を完全に剥奪し、由布子夫人への一万株の贈与までが消滅していた。
「目に余る内容ですな。先日お聞きした内容も酷いが、実物はさらにえげつない」
 第二遺言書の極めつけは、滝二夫妻に対して、執拗なまでの追撃がなされた覚書の存在であった。
 覚書には「頼んだわけでもないのに、滝二が新聞社を辞めて千年堂に入社してきたこと」「滝二に跡目を継がせるつもりはなく、長男の伸太郎を中心に兄弟三人が仲良く協力し合って欲しいこと」「二回に渡る増資と滝二の代表取締役就任、それに伴う自分の退任は事前に伸太郎に相談しておらず、兄弟の義に反すること」といった内容が、一見したところ、淡々とした筆致で書かれていた。
 第一遺言書は自分の本意ではなく、伸太郎を呼んで書き改め、「千年堂の将来は、孫のうち、唯一の男系男子である伸太郎の長男が受け継ぐこと」「森保以外の人間が当主となるのは困ること」といった旨が細々と書かれていた。
 森保以外の人間が当主になるのは困る、という記述は、どこをどう切り取っても、恐ろしい差別意識の塊であるとしか読み取れない。
 滝二夫妻の子供は女子二人であるため、滝二が社長になれば後継者は女性にならざるを得ない。それをあたかも血筋を由布子夫人に持っていかれることと理解しており、隠し切れない差別意識が由布子夫人への一万株遺贈の権利を消滅させていることに表れていた。
「第二遺言書が伸和翁の筆跡であるかを裁判官から問われたと思いますが、滝二氏はなんと答えたのでしょうか」
 夫人は助けを求めるように柏木弁護士を仰ぎ見た。
「滝二氏は、そんな風にも見えますなあ、と仰った、と聞いております。即座には否定できなかったようですね」
 柏木弁護士は茶封筒の中から、さらに書類の束を取り出した。
「こちらが京都地裁に提出された鑑定書の写しです。原告、被告共に三部の鑑定書を提出して、第二遺言書の真偽が争われました」
「三部も、ですか?」
「ええ、一部ではなく三部でした」
 こういった民事裁判の場合、裁判官が裁判所の作成した鑑定士の登録名簿から適任者を推薦し、鑑定費用を原告、被告で折半させることが通例になっている。よほどの案件でなければ、鑑定書は一部あれば事足りる。双方それぞれが三部の鑑定書を提出して争われたということは、相当厳重に審理が行われたということだ。
「拝見します」
 滝二の用意した三部の鑑定書のうち、一部は伸和翁の筆跡をよく知る人物の証言集、一部は骨董と文事の趣味を持つ人物による考証、一部は民間の筆跡鑑定士による古いタイプの鑑定書で、いずれも科学書形式を持たず、筆跡に気のついたことを書き込んだ程度のものだった。
 一方、伸太郎側が用意した鑑定書は最新の科学書形式を踏まえた、科捜研出身鑑定士のボリュームたっぷりの作を中心とした、いずれも鑑定書としての体裁を備えたものであった。
 これはある意味、負けるべくして負けたと言わざるを得ない。
 滝二側の鑑定書はあまりにも趣味的で、主観的な判断が先行するきらいがあるのに対し、伸太郎側の鑑定書は、自己の論理に一応の具体的な根拠が示されていた。
 遺言書が本物であるか、偽物であるか正解は一つしかない以上、鑑定書の取捨選択は完全に裁判官の心証に左右される。
 滝二の提出した証拠は、真実を話せば必ず通ずるものだ、という人の良さが其処此処に見受けられたが、自由心証主義の建前のもとに動く法廷では命取りになりかねない。
 双方三部ずつの鑑定書に目を通すうち、あまりにも私の表情が険しくなったためか、柏木弁護士は一呼吸置いてから、第一審以降の判決の経緯について語った。
「科捜研出身の鑑定士の鑑定書が最終的な決め手となり、京都地裁での第一審で『偽造とは言い切れない。よって第二遺言書は有効である』との判決が下りました。滝二氏は判決を不服として大阪高等裁判所に控訴しましたが、大阪高裁は新しい証拠資料が出ればそれについての審理は行うが、第一審ですでに審理した内容は、そこで十分になされているはずであって、同じ内容の審理は繰り返さないと退けられ、敗訴しました。さらに最高裁判所に提出した上告の申し立ては不受理となり、敗北が決定的なものとなりました」
 柏木弁護士の過不足のない説明には合点がいったが、胸の内には依然として釈然としないものが残った。筆跡を巡る裁判で明らかになったことといえば、法廷は真相がなにかを判断する場ではなく、原告・被告の証明力のテクニックについて、いずれが優れているかを御上として判定する場である、ということに尽きる。
 この裁判は、被告は正当性の可能性を論じれば事足りるのに対し、原告は正当性の一切なきことを証明せねばならないという、端から原告に不利な戦いであった。
 かくして、「第二遺言書が偽造であるとは言い切れない」という玉虫色の判決によって、被告は百パーセントの勝利を勝ち取った。
 二通の遺言書と六通の筆跡鑑定書に目を通すうち、すっかり喉が渇いてしまった。事務員に振る舞われた温いお茶を啜ると、いやに渋い味がした。
「藤岡先生、率直にお尋ねします。この第二遺言書は偽造であると証明することは可能でしょうか」
 柏木弁護士の眼差しには真摯な色が宿っていたが、すでに最高裁で判決が下ってしまった判決を覆すのは九割方不可能である。
 そもそも民事訴訟法では、判決が確定した場合、当事者は二度と同じ訴訟を起こすことは出来ない、と定めている。
 これを確定判決の「拘束力」「既判力」というが、平たく言えば、同一内容の訴訟の蒸し返しは断固として許されない、ということだ。
「あくまで一読した限りですが、第二遺言書は伸和翁が書いたものとは思えません。仮に偽造したものであれば、精査すればどこかに必ず綻びはあるでしょうから、第二遺言書は偽物だ、という鑑定を導くことは可能でしょう。ですが、夫人を前にこう申し上げるのはたいへん酷かと思いますが、今さら判決を蒸し返そうとするのは、遅きに失したと言わざるを得ませんな」
 せめて大阪高裁で判決が下ってしまう前に鑑定を依頼されていれば、多少なりとも力になれたかもしれない。そう思うと、胆嚢癌なんぞに侵された自らの間の悪さに、つくづく嫌気が差した。
 これが良心の呵責というやつなのか、胸の下あたりがずきずきと疼き、万力でぎりぎりと締めつけられたように痛んだ。一瞬、息が出来なくなったが、大きく息を吐くと少しは落ち着いた。
「お力になれなくて、たいへん申し訳ない」
 平静を装いつつ、脇腹のあたりに手を添えながら頭を下げると、由布子夫人はがっくりと肩を落とした。ひたすら黙りこくっていた春斗が、私に噛みつくような目を向けた。傷心の夫人の肩を持ち、この場で私に反抗するとは、たいした助手である。だが義侠心だけではどうしようもあるまい。法廷には血も涙もないのだ。
「偽造だって証明できるなら、勿体ぶってないで証明してあげたらいいじゃん。いったい何が問題なのさ」
 またぞろ、じいちゃんは聞こえないふり、ボケたふりでしているのか、と春斗は受け取ったようだが、それは違う。今さら遺言書の偽造を暴いたところで、何の役にも立てないのだ。
「再訴訟の糸口が見つかれば、お力にはなれるとは思いますが」
 含みを持たせて言ったが、小さな助手からさらに責め立てられた。
「いちばん納得できないのは森保おばさんだよね。こっちのおじいちゃんの文章はきちんとものが見えている感じなのに、こっちの文章はものすごく独善的だよ。書き手の思想って、たった数年でこんなに劇的に変わるものじゃないはずだよ」
 春斗は春斗なりに第一遺言書と第二遺言書を読み比べ、自分なりの見解に達したようだ。筆跡云々には触れず、書かれた文章から受ける印象にだけ言及するとは、小説家の卵らしい着眼であると思う。たしかに春斗の指摘する通りの印象を私も抱いた。
「それは私もそう思ったよ」
 一応の同意を示すと、春斗はいささか勢いを失ったようで、浮きかけた腰をすとんと落とした。
 筆跡の偽造はそれと企んだものであるからには、書かれた文字が似通うのは当然である。オリジナルに似せようと思って書いているのだから、ぱっと見で似ていなくては問題外だろう。
 第一遺言書と第二遺言書に書かれた文字自体は似通っていたが、書かれた文章から受け取る印象はまるで似通っていない。しかし、判決を言い渡した裁判官は文字の異同のみに着目し、科捜研出身のベテラン鑑定士の手管にまんまと欺かれた。
 人それぞれに自分の筆跡が有されていることは誰もが認めるところであろうが、これを「筆跡の固有性」といい、そこに現れた明瞭な特質を「固有筆癖」という。
 しかしながら、筆跡は体調や気分、書かれた場所や筆記具、紙の質などによって微妙に変化するものであり、これを「個人内変動」と呼ぶ。
 この科捜研出身者は、まず筆跡は模すことのできないものとし、「筆跡の固有性」を前面に押し出して鑑定を展開した。
 鑑定は第二遺言書と晩年の伸和翁の筆跡について、一字一字の拡大写真を示して字形の点画の形状を比較し、類似、非類似を分類することに終始した。これに統計的な集計を加え、圧倒的に類似筆跡が多いことを数値的に示し、第二遺言書を是とした。
 しかしながら、偽作とは本物を模したものである。
 この鑑定方法によるならば、贋作の書作はすべて本物の範囲内として鑑定されてしまうだろう。だが、裁判官はこの数値のまやかしにまんまと乗せられてしまったのだ。
 筆跡の類似・非類似を「固有性」と「個人内変動」で争う方法は、まさしく旧態依然の典型だ。筆跡の類似を唱えたい場合は、わずかな共通点も固有性を大きく解釈して結びつけ、類似性を否定したい場合は、類似する部分を個人内変動の範囲外として退ける。
 結論ありきのよくある手口だが、これでは鑑定の争いが「いかに真相を明らかにするか」という本来の目的から「いかに筆舌の巧妙さによって有利条件を引き出すか」にすり替わってしまっている。
 もとより類似・非類似の明確な判定基準など提示されていないのだから、結局は法廷でのやり取りが、ああ言えばこう言うの際限のない泥仕合に陥って、客観的であろうとする裁判官すら、どちらの主張が正当であるか、容易に判断できなくなる。
 そこで多くの場合、裁判官は鑑定書を深く読み込むことなく、科捜研出身者という金看板や鑑定実績の多さを論拠に軍配を上げることになる。しかし、それでは本末転倒だ。いったい肩書きありきの判断のどこに客観性や科学的見地があるのか、甚だ疑問である。
「二つめの遺言書について、おばさんはどう思っているんですか」
 春斗の率直な質問に由布子夫人は少々面食らったようだが、やがてぽつぽつと話し始めた。
「お義父さまの介護をしていた際、いつも、おおきに、ありがとう、と言ってくれました。義父の筆跡を知る古い友人がたも口を揃えて先代の字ではないと仰いましたし、なにより第二遺言書の内容は、生前のお義父さまの言葉とあまりにかけ離れています」
 今の回答で良かったのか、と採点を仰ぐ生徒のように、ちらりと柏木弁護士の方を振り向いた。
 柏木弁護士は小さく頷きながら、言葉を継いだ。
「第一遺言書には、由布子夫人に感謝の意を込めて、一万株を遺贈したい、との内容が明記されていました。しかし第二遺言書には、家族全体を考えると、森保以外の人間が当主となるのは困る、との覚書があり、夫人への感謝の件はまったく触れられておりません」
 柏木弁護士が厳かな調子で言った。
「夫人に対して感謝の意を告げながら、第二遺言書にあるような執拗な覚書を書いたとすれば、伸和氏は酷い二重人格者になってしまいます。そういった点から再訴訟の糸口を探ろうと思っていますが、お力添え頂けますでしょうか」
 柏木弁護士の言わんとすることは、たちどころに理解出来た。
 第二遺言書の偽造を暴く、という手段は同じだが、裁判の目的が違う。敗訴した裁判の争点が「第二遺言書が偽造か否か」であるとすれば、次なる裁判の争点は「第二遺言書は有効か否か」だ。
 証明することは同じでも、争点が異なれば、よもや訴訟の蒸し返しとは判断されないだろう。
「再訴訟の糸口さえ見つかれば、鑑定に協力することはやぶさかではありません」
 そう言うと、由布子夫人はほっと胸を撫で下ろし、しきりに目元を擦った。
「ありがとうございます。なにとぞよろしくお願いします」
 由布子夫人が立ち上がり、深々と頭を下げた。
「どうか頭を上げてください」
 そう言ったが、しばらくの間、夫人は頭を下げ続けていた。
 気丈にも人前で涙を見られたくなかったからなのかもしれないと思うと、協力を渋る理由など何ひとつ浮かんではこなかった。
「それにしても、さすがに藤岡先生の助手だけあって、お若いのに良い着眼をしています。筆跡鑑定業界の未来は明るいですな」
 柏木弁護士が快活に笑ったが、この褒め言葉ともただの場繋ぎとも取れぬ京都人特有のお愛想に対して、春斗は露骨に顔をしかめて見せ、すぐにその表情を吹き消した。その表情の意味するところは、何ひとつ言わずともよく分かった。
 え? 
 ぼく、じいちゃんの後を継ぐの? 
 冗談でしょう? 
 冗談だよね? 
 ぼくには無理でーす。
 だって、くずし字読めないもん。
 そんなようなことが春斗の顔にばっちりと書いてあった。
「春斗。お前、本音が顔に出過ぎだ」
「そっちこそ。どうせ、お前にゃ継げんよ、とか思ったでしょう」
「減らず口が」
「そこはじいちゃん譲りです」
 偏屈なじじいと可愛げのない孫のやり取りを微笑ましく眺めていた柏木弁護士が立ち上がり言った。
「やはりお孫さんでしたか。ご子息にしてはずいぶんお若いな、と思っていましてね。どうだい春斗君、先生の後を継ぐ気がないなら将来は弁護士を目指してみるというのは」
 会話が長引き、少々眠そうだった目を大きく見開いた春斗は、弁護士なんてとんでもないとばかりに首を左右に振った。
 仕草の意味するところは手に取るように分かった。
 ムリっ!
 だってぼく、根気も根性もないもん。
 弁護士とか、ぜってームリ!
 六法丸覚えするなんて、百パー無理っ!
「だから、お前は何もかもが顔に出過ぎだ」
 寝癖のはねた後頭部をぺしりと叩く。春斗は大袈裟に頭を押さえながら、恨みがましい表情で私を見つめた。
「勝手にぼくの頭の中を読まないでよね、どうせ、いつも見当違いなんだから」
 ぶつぶつと小声で文句を並べていたが、聞かなかったふりをする。ボケたふりをするのは、禁酒令を解禁予定の帰りの新幹線にでも、とっておくことにしよう。

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