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傾国老人 第三話

 翌朝、新大阪行きの新幹線の車中で、春斗は文庫本を読み耽っていた。小一時間ほど活字を追ったせいで乗り物酔いしたらしく、読みかけの文庫本を閉じ、リクライニングシートを限界まで倒した。
 いったい誰に似たのか、つくづく酔いには滅法弱い体質であるらしい。
「お茶でも飲むか」
「うん、欲しい」
 昨夜、みどりの窓口で指定席券を購入したものの、春斗が朝寝坊したおかげで新幹線に乗り込む前に飲食物を買い込む余裕がなかった。土曜日は学校が休みだから、ぼくも京都に付いていく、と前日ごねたわりには、きっちり寝坊するあたりは始末が悪い。
 東京駅から京都駅へは二時間少々で着く。朝昼兼用の食事は京都に着いてからでもよかろうと思っていたが、弁当や飲み物、お菓子類を満載したワゴンを押した車内販売の女性が通りかかったので、片手を上げて購入の意思を示した。
「とりあえずビールと」
 言いかけると、春斗が半身を起こし、即座に訂正した。
「ビールはやめて、お茶をふたつ下さい」
 売り子の若い女性が私と春斗の顔を交互に見比べ、当惑したような表情を浮かべた。じじいとお子様のどちらの意を汲むべきか、揺れているのだろうが、断じて財布の紐を握るものの意見に沿うべきである。
「ビールとお茶をひとつずつで」
「アルコールは医者から止められてるんじゃないの」
 春斗が咎めるように言うが、その台詞は無体な医者だけで十分である。
 酒も飲めない人生など何が楽しくて、以下略としたいが、なにを略そうとも酒を略すことは出来ぬ。私の表情を盗み見て聞き分けのないことを悟った春斗は、ぷいっと窓の外に視線を逸らした。
「弁護士に会いに行くのに、酒気帯びで行くのって、依頼人に失礼じゃないの」
 矛先を変えた一撃は、あまりに痛いところを的確に突いていた。
 それを言われては即座に白旗を振らねばなるまい。
 春斗の指摘通り、我々は京都に遊びに行くのではなく、弁護士に会いに行くのだ。
 ビール一杯分の酒気などすぐに醒めるとはいえ、案件の重さを鑑みると、ビールの一杯とて厳に慎むべきであった。かれこれ二年近くまともに仕事をしていなかった半引退セミリタイアの身なれど、職業的矜持を忘れ去っていい理由になりはしまい。
 先日の森保由布子の来訪の理由は、偽造された遺言書の鑑定依頼であったが、関連の筆跡資料は地元の顧問弁護士に預けてあるとのことで、京都まで赴くこととなった。
 森保由布子から事件のあらましを聞くことは出来たが、前後の事情については弁護士から詳しい説明を受けて欲しいと請われては、無下に断るわけにもいくまい。
「冷たいお茶をふたつで」
 財布から千円札を一枚抜き取り、売り子の女性に手渡した。
 京都駅ビル内で簡単な昼食をとってから、弁護士との約束の時間まではまだ余裕があったので、京都市東山区にある千年堂の現状を下見することにした。
 烏丸線と東西線を乗り継ぎ、東山駅で下車。
 東山三条の交差点を南に下ると、東大路通りに面して『千年堂』の暖簾を掲げた店舗が見えてきた。
 浄土真宗総本山である知恩院のほど近くに立つコンクリート造りの四階建ての店舗併用住宅は、一階と二階部分が店舗、三階と四階が創業者一族の住居スペースであるようだ。
 もう何十年も前になるのか、正確に思い出せないが、かつて見た千年堂の古色蒼然とした姿とは、明らかに様変わりしていた。
 千年堂の左右に軒を並べる古美術店や漬物屋、庭道具屋や材木店、法衣佛具店はどの建物も京町屋の風情を漂わせていたが、その分、老朽化は傍目にも激しかった。その中にあって、千年堂は建築間もなさそうな真新しい印象である。
 雨に濡れたように艶やかな黒瓦葺きの庇にコンクリートの外壁はモダンな佇まいで、ガラス張りの店内には色鮮やかな京友禅の着物が多数陳列されていた。しかし、店内に照明の光は灯っておらず、従業員の姿も見当たらない。
 ガラス窓に張り紙がしてあり、流麗な草書体で「当面の間、休業させていただきます 千年堂店主 森保伸太郎」と書かれていた。
 縦書きの文字はわずかに左に流れていたが、蛇行するほどの乱れはなく、軽い筆圧からは手慣れた筆記者であることが窺い知れた。
 張り紙の文字を書いた人物が長男の伸太郎自身であるのかは本人自筆の対象資料と見比べてみなくては分からぬが、少なくともこの文字を書いた人物は、そこそこ程度には書に造詣が深いようだ。
 晩年の伸和翁の筆跡を真似る程度の芸当は造作もないだろう。
「じいちゃん、これなんて書いてあるの?」
 春斗が張り紙の休業の挨拶部分を指差した。達筆の草書体で書かれた文字が読めないようだが、それも無理からぬことだろう。
 通りを行き交う地元住民らしき人々が、明かりの消えた店内を覗き見る私と春斗を遠巻きに見ながら、ひそひそと何ごとかを囁いていた。
「当面の間、休業させていただきます……だそうだ」
「ふーん、ぜんぜん読めないや」
 春斗に限らず、現代人の多くは文字を覚え始めてから今日に至るまで、すべてのメディアで楷書の文字しか見ていない。
 学校の授業にしても、教員は黒板に滅多に文字を書かず、パソコンで作成したレジュメを配布して授業を進めたり、動画を見せたり、といったことが当たり前になっていると聞く。
 そのため、彼らは文字をすべて平面の静止画像として見ており、筆の通る経路の繋がりである『筆脈』を認識する機会が極端に少なくなっている。
 楷書しか見ずに育つと、くずし字を読み取る能力が著しく乏しくなる。くずし字がまともに読めないどころか、行書体でも怪しいだろう。たとえば「昌」と「易」の行書を示すと、若者のほとんどは、どこが違っているかまったく識別できないはずだ。
 草書体や行書体がまともに読めないという傾向は、主に刑事事件の筆跡鑑定を担当する科捜研の人間も正直にいえば大差はない。
 くずし字を平素から見てきた我々のような旧世代の人間と、楷書のみで育った世代とでは、こと文字を見る目において基盤的な資質の備わりがまったく異なる、と言っても過言ではない。
 これは、郵便配達員にも共通する傾向である。かつての配達員の判読力は、草書の読みまで習得した特殊能力であったが、今や郵便局が「宛名は楷書ではっきりと」と求めるばかりで、ちょっと文字をくずそうものなら、宛先不明として戻ってきてしまう。
 郵便配達員の判読力が右肩下がりであるのと同様、科捜研の筆跡鑑定能力も年を追うごとに益々低下していくことは目に見えている。民間に開設される筆跡鑑定事務所の大半は科捜研OBが占めており、その他は大学の学者上がりや、書を教えていた人間がちらほら紛れ込んでいるぐらいのものだ。
 筆跡を鑑定するのに国家試験のような資格制度はなく、なろうと思えば誰でも鑑定士になれるが、どの鑑定士がどれほどの力量を有しているかは基準もデータもなく、測りがたい。
 科捜研においても独自に人材を採用し、一子相伝の如くに育成しているのが実情で、民間に鑑定力を養うような訓練所は皆無である。
 畢竟、筆跡鑑定事務所の鑑定士が科捜研OBによって多くを占められているのは、ごく自然の成り行きであろう。
「乗っ取られたお店の上で、一緒に暮らしているのかな」
 千年堂の上階を仰ぎ見た春斗がぽつりと呟いた。
 店を乗っ取った兄、店を乗っ取られた弟が、仲良く一緒に暮らすことが出来るだろうか。おそらく不可能だろう。
 関係良好であるならば、そもそも諍いなど起こるはずもない。
「兄弟は間違いなく別居しているだろうな」
「じゃあ、今はどこに住んでいるのかな」
 千年堂の周囲に創業者一族の別邸と友禅職人たちが働く工房があったことをふと思い出した。千年堂の裏手に回ると、ところどころに汚れの目立つ白壁の建物があり、玄関脇の表札に『千年堂(株)西工房』と書かれていた。
 店舗の並びにある連棟式の古びた平屋も千年堂系列の工房のようだったが、建物内に職人の姿は認められず、看板には「こちらは店舗ではありません。店舗は南へ30M」「The shop is just down the road」と併記されていた。
「じいちゃん、向かいの店にも張り紙がしてあるよ」
 東大路通りを隔てて、千年堂の向かいに建つ平屋を指差した。
 店舗改装中のようで、建物は青いビニールシートに覆われているが、玄関口には桜流水をあしらった友禅和紙がテープでとめられ、その下に絹色の和紙が連なっていた。
 通りを横切って平屋に近付き、書かれた文字を読むと、こちらは筆圧が強く、字形がやや縦長の行書体で「近日、開業いたします 森保商店 店主 森保滝二」と書かれていた。
 長男の伸太郎が店主に収まった千年堂はしばらく休業とあるのに、百五十年以上続く京友禅の老舗の四代目の社長を降ろされたばかりの次男の滝二は、通りを隔てた立地に新店舗を構える、という応戦ぶりであった。
「兄弟喧嘩の代理戦争みたいだね」
「この光景を見たら、伸和翁は悲しむだろうな」
 互いに剣を持って斬り合うかのような兄弟の断絶を招いたのは、二通の遺言書だ。
 一通は、三代目社長の伸和翁の紛れもない自筆。
 もう一通は、おそらくだが偽筆。
 滝二の妻である由布子の言によれば、科捜研OBの鑑定が決め手になって、「二通目の遺言書は、偽造とは言い切れない」との判決が下ったという。
 もしも伸太郎の持参した遺言書が完全に偽造であったとすれば、科捜研OBの鑑定士は、黒を白にして見せたことになる。
 偽物を作った被告が得になり、偽物と証明できなかった原告がすべてを失うという結論は、不条理以外の何ものでもない。
「敗訴の判決って、ひっくり返るものなの?」
「難しいだろうな」
 短く答えると、春斗は表情を曇らせた。
「だが、そのために来たんだ。出来る限りのことはするつもりだよ」

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