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傾国老人 第六話

 京都を訪れてからゆうに一週間以上が過ぎたが、第二遺言書が偽造であることを立証するための鑑定作業は遅々として進まなかった。ひとまず、これまで相互に提出された鑑定書に検討を加えることから着手したが、どうにも身体が怠く、すぐ疲れを感じる体たらくで、往時の集中力の半分も保てなかった。
 しかし、仕事がはかどらない最大の原因は、身内にいる敵の存在であろうと思う。次男の単身赴任先である九州に逃亡した義娘は、一週間以上ものリフレッシュ休暇を経て傾いた我が家に舞い戻ると、口うるささは以前にも増してパワーアップしていた。
 自分で淹れた番茶をちびちび啜りながら日がな一日鑑定書と格闘していると、キッチン奥から義娘の幸枝から大した用事でもないのにいちいち声をかけられ、そのたびに仕事を中断させられては心底辟易した。賢妻ぶりをアピールしようとしてのありがたい忠告なのか知らぬが、酒は嗜む程度にしろだの、仕事をし過ぎると老体に響くだの、きちんと三食召し上がれだのと、くどくど、ねちねち言われると、そのたびに血圧が五十ほど上昇するような気がした。
 翻って晩年の伸和翁は介護をしてくれた由布子夫人に「おおきに、ありがとう」と心からの謝意を示したと聞き、自分ならそっくり同じ言葉を幸枝にかけるだろうかと想像してみたりもしたが、死の淵でさえ、そんな殊勝な言葉は口が裂けても言えないだろう。
 いわんや「感謝の意を込めて義娘の幸枝に自由が丘の自宅を遺贈する」などと遺言書に書き記す意欲は未来永劫持てそうもない。
「お義父様、折り入ってご相談が」
 夕食前の時刻、春斗はまだ帰宅していないなか、水玉のフリルのついたエプロンをかけた幸枝が伏し目がちに話しかけてきた。
 こちらに視線を合わせようとはせず、両手は後ろに隠している。勿体ぶって、さもこちらに気を遣っているかのような話しぶりだったが、慇懃な態度の裏には何かしらの図太い要求がセットになっていることがほとんどだ。
 答えるのが面倒だったので顎をしゃくって続きを促すと、幸枝は両手を前に出し、応接間のテーブルに建築模型を置いた。
 机いっぱいに広げた鑑定書類の上に模型を乗せる神経からして、理解できない。私の仕事をいったいなんだと思っているのだ、と問い質したい衝動に駆られるのを我慢して、表情の上では平静を装い、続きの言葉を待った。じいちゃんは大人げない、という孫の呆れ顔を見たくはないがための妥協的態度だ。
「設計を依頼していた建築士に作って頂いたんですけど」
 性懲りもなく持ち出してきたのは、第二次建て替え戦争勃発時に棄却したはずの建築プランだった。前回とどこがどう変わったのか知らぬが、一瞥の必要すらなく即刻却下である。
 都心部の限られた建築面積のなか、テラスやバルコニーを居室と地続きで組み合わせて実際の間取り以上の広さを演出し、吹抜けや建築面積に含まれないロフトを設け、上下にも広がりを持たせるというアイデアは斬新な設計と言えばその通りだが、一階部には駆体を抉るようにウッドデッキが三つも配され、凹凸の激しい構造は、真四角には程遠い代物だ。
「欠けている家は好かんと前にも言ったと思うが、聞いていなかったのか」
 家相的にも風水的にも家は四角くあるべきで、わざわざ欠けた家を作る必要などどこにもあるまい。この設計の斬新さが理解できないなんて感覚が古い、と責められようが知ったことではない。
 傾いた家はともかく、欠けた家は嫌いだ。
 その一点に関しては、いかなる専門家の意見があろうと心証形成を覆すつもりはない。我が家の裁判官である私がそう判じた以上、すでに決着のついた案件であり、懲りもせず同じ案件を蒸し返してくるとは図々しいにも程がある。
「でも、この設計だと家が広く使えるんですよ」
 幸枝は建築模型のあちこちを指差し、この設計がいかに優れているかを熱っぽく語ったが、何ひとつ心を動かされることはなかった。
「くどい! 欠けた家など建てるつもりはない」
 民事訴訟法では判決が確定した場合、当事者は二度と同じ訴訟を起こすことは出来ない、と定めている。
 これを確定判決の拘束力、既判力というが、裁判官ならずもこの概念がいかに必要不可欠なものであるのかは、蒸し返された事案を裁く側の立場になってみて、はじめて腑に落ちた。
 水玉のエプロンをキッチンのフロアに叩きつけ、ものの数分で外出用の身支度を整えた義娘は私になにを言うでもなく、肩を怒らせ大股で家を飛び出していった。
 キャリーバッグのような大荷物はなく、ハンドバッグひとつの軽装だったので、大方夕飯を作るのを放棄して、憂さ晴らしに飲みにでも行くつもりなのだろう。
 いつぞやのように九州まで逃亡しないだけまだマシだが、コップ酒片手に鳥まさあたりで愚痴をこぼすことは目に見えていた。
 それにしても、エプロンを床に叩きつけた、あの好戦的な態度はいただけない。
 もしここが法廷であったら、退廷の態度の悪さが裁判官の心証に大きく影響するのは必定であり、第一審であっさりと敗訴した後に、控訴した第二審でも同様の判決が下ったとはいえ、判決が覆る可能性は限りなく薄くとも、上告の権利は残されている以上、あのような捨て鉢な態度は厳に慎むべきである。
 建築面積を広く使うというお題目は結構だが、そのために建物を欠けさせたり、凹ませたりするのは、ただ状況を複雑にしているだけで、およそ単純さとはかけ離れた小手先のやり口としか思えない。
 欠けた部分を埋めるなり何なりして、もっと事の本質を訴えかけるような提案であったとしたならば、聞く耳を持たぬわけではない。
 義娘が推す建築士の設計プランは、依頼人の望む通りの鑑定書を書く科捜研出身の鑑定士の鑑定法と大差ない。
 最終的な判決は裁判官の良識任せとはいえ、小手先のテクニックで裁判官を謀ろうとするのではなく、情理を尽くして事の本質を平明に説明すべきであろう。
 いかに情理を尽くして説明しようと、それでも裁判は五分と五分なのだから。

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