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少年コピーキャット 第八話

 中学最後の夏休みを一か月前に控え、ぼくは一足先にプチ夏休みに突入した。
 小峰先生の言いつけ通り、二週間ほど自宅に引きこもった。
 なぜ期末試験直前のこの時期に、二週間も学校を休まねばならないのか。ぼくの曖昧な説明では両親にまったく理解してもらえなかったけれど、クラス担任の小峰先生の家庭訪問が信頼の証となったのか、はたまた東大発のプロジェクトというパッと見それっぽい看板のおかげか、わりとすんなり引きこもり生活を許された。
 ぼくは嫌気の差していた部活を合法的に辞めるため。
 小峰先生は私淑する女性作家と知り合いになるため。
 お互いの利害が一致したとはいえ、なんとなく後ろめたい気分は消えずに残った。久しぶりに学校に戻ると、クラス内の雰囲気が微妙に前とは違っていた。
 文藝功労賞候補作家から英才教育を受けている天才少年。
 知らぬ間に、ぼくはそんな異能者設定になっていたようだ。どんな手練手管を使ったのか分からないが、小峰先生が何かしらの情報操作をしたのは明白だった。
 おかげでというべきか、あるいは当然の帰結というべきか。クラスメイトにはあれこれ聞かれたけれど、それも最初だけだった。
 異才発掘プロジェクトの活動に参加した実績なんてほとんどなく、一回だけ事前の面接に出向いたのと、開校の挨拶に顔を出しただけ。高槻先生に会うことは会えたけれど、何か特別な指導を受けるなんてことはなく、ただ二言、三言喋っただけだ。
 プロジェクトに裏口入学して、学籍名簿に名前が載っただけの宙ぶらりん状態であり、例えるなら、在籍はしているけれど活動はしていない幽霊部員みたいなものである。
「特に変わったことはなかったよ」
 プロジェクト関連の質問をされると、ぼくは決まってそう答えた。
 語るべき内容が皆無なためにあまり多くを語らないでいたら、指導内容を公言できないのか、守秘義務でもあるのではないか、お高くとまっていやがる、などと妙な勘違いをされてしまったらしい。
 以来、倫也を除いてぼくに話しかけてくる生徒はぱったりと絶えた。もともと口数は多い方ではなかったし、愛想が良い方でもなかったから、クラスメイトの誰とも喋らないでいることにさしたる苦痛はなかった。
 無口でいたほうが気分は楽だったこともあって、高校もその延長で過ごした。
 代わり映えのしない平凡な夏休みは、あれから三度繰り返された。
 高一の夏も、高二の夏も、そして此度の高三の夏も極めて単調なものだった。
 沙梨先生と出会い、同じ時を刻み、そして絶縁じみた別れを申し渡されたことだけが、変わり映えのしない灰色の日常の中で唯一、色のある思い出である気がした。


 沙梨先生に初めて会った日のことは、今でもよく覚えている。
 それは、あまりに鮮烈な一幕だったから。
 異才発掘プロジェクトの開校日、東大の会議室に報道陣がごった返していた。取材の目玉は十五名(+裏口入学一名)の異才の卵などではなく、美貌の文藝功労賞候補として世を騒がせていた高槻沙梨であった。
 会議室に集められた十六名は、校長先生の朝礼の挨拶ばりに退屈な開校の辞を聞いた。会議室後方には報道陣に混じって、異才の保護者らしき人たちが大勢立っていた。
 どの顔も我が子を心配そうに見つめている。
 小峰先生の指示とはいえ、引きこもりを偽装した僕は若干の申し訳なさを感じた。事前面接で引きこもり経験の有無を問われたから、学校不適応の気がある少年少女が集められていることはおよそ間違いなかった。
 コの字型に並べられた長机の中央に六名、両サイドに五名が座った。僕はいちばん目立たぬ中央の席の右端に陣取った。左端の席は出入口に近く、挨拶を述べるお偉方が壁際に配されたパイプ椅子にずらりと並んでいる。
 報道陣からは背中しか見えず、お偉方の位置からは横顔しか見咎められない絶好の席である。ここならば、少々退屈そうな表情を浮かべても平気だろう。
 お偉方の挨拶が終わると、異才メンバーは順々に簡単な自己紹介を述べた。天井から垂れ下がったプロジェクターに氏名、年齢、興味分野、主な選出理由が投射される。
「藤岡春斗、中学三年生です。文章を読むこと、書くことに興味があります」
 立ち上がって簡潔に述べた。出口付近から渇いた拍手が聞こえた。右端から回って来た挨拶の順番がちょうど中間の位置に来た。堂々と立ち上がった気の強そうな少年はメンバー中最年少の小学三年生であり、「ノーベル文学賞は通過点」と放言した子だった。
「坂上英知、小学三年生です。将来の夢はもちろん小説家ですが、十代のうちに文藝功労賞ぐらいは獲りたいです」
 英知という名には、優れた知恵や、深く物事の道理に通じる才知の意味が込められているのだ、と少年は自らの名の由来を語った。
 自信に満ち溢れた発言に、報道陣が一斉に色めき立った。無数のフラッシュが焚かれるのを気にする素振りもなく少年は着座した。
 文藝功労賞は、言わずと知れた文壇の頂点だ。純粋な文学であると同時に、大衆性も備えた作品が選出される傾向にある。
 第一線で十年、二十年と書き続けてきたベテラン作家に与えられるのが慣例であるが、今年度は十九歳の新鋭が受賞なるか、という一点に世間の注目が集中していた。高槻沙梨が受賞すれば、これまでの史上最年少記録を大幅に塗り替えることになる。
 坂上少年は、そんな話題の人物にナチュラルに喧嘩を売った。
 異才メンバー全員が挨拶を終え、高槻沙梨が無難な激励の言葉を言い終えると、報道陣からの質問は坂上少年に集中した。
「高槻先生は今年度の文藝功労賞候補に挙げられていますが、作品はもう読みましたか」
「ええ、読みました」坂上少年は素っ気なく応じた。
「感想は?」
「歴代の文士の作品に比べると、明らかに見劣りしますね。正直、今の僕でも書けると思いました」
 明らかに挑発だった。公衆の面前で小学三年生に罵られた格好の高槻沙梨は、口の端に苦笑いを浮かべているだけだった。ホワイトボードの前に居心地悪そうに立つ姿はさしずめ晒し者のようで、断頭台を前にして処刑を待つ囚人さながらであった。
「今の発言に関して、一言お願いします」
 なぜそこで無邪気にマイクを向けられるのか、その神経がまるで理解できないが、挨拶を終えて所定の位置に戻ろうとする高槻沙梨をレポーターが追いかけた。
「自分の方が絶対に面白いものを書けるはず。他人の作品を読んでそう思えるとしたら、もう半分ぐらいは小説家になっていると言えるでしょう。ぜひ将来、面白い作品をたくさん書いてくださいね」
 明瞭な響きではなかったが、慎み深い笑顔で答えたところに小説家としての矜持を垣間見た気がした。
「高槻先生もデビュー以前にそういった感想を抱いたのでしょうか」
 レポーターが再び高槻にマイクを向けた。
 意地の悪い質問だ。
 そんなところに食い付くなよ。深追いするなよ。
 他人事ながらにそう感じたのだから、切っ先を向けられた当人の心中が穏やかであるはずはない。だが、高槻沙梨は穏やかな笑顔を崩すことはなかった。
「高校在学中に応募した作品がたまたま新人賞に選ばれ、運が良いだけでこの場に立たせていただいていると思っています。ですから、どなたかの作品と比べて自分の作品が上手か下手かなどと比較する観点すらありませんでした。もちろん今だって、世にある作品と比べて自分が上手だと思えることなどありません。まだ私は半人前にすらなれていないのだと思います」
 誰に対しても嫌味のない配慮の行き届いた完璧な回答に聞こえた。
「文藝功労賞、期待しています」
 レポーターはお愛想を付け加え、高槻からマイクを取り上げた。
 お偉方がぞろぞろと退席し、取材を終えた報道陣が散っていくなかで、高槻沙梨はぼんやりとした暗い表情を浮かべて壁の端に居残っていた。
「あの、高槻先生……」
 緊張からか、わずかに声が震えた。小峰先生から託された特命ミッションはもはやどうでもよくなっていたが、胸に浮かんだ感想が消えないうちに伝えたかった。
「ぼくは先生の見る世界が好きです。先生の描く世界が好きです」
 二週間ほど引きこもる前、小峰先生から餞別のように高槻作品を二冊渡された。
 最初はぜんぜん、その良さが分からなかったけれど。これぐらいなら、ぼくでも書けるんじゃないかなんて侮ったけれど。
 およそ小説の形を成さない単なる日記だが、自分自身の言葉で文章を書き、拙いなりに胸の内のわだかまりを他人にぶつけた。そんな経験をしてから改めて高槻沙梨の紡ぐ世界を何度も読み直してみたら、また違う風景が広がった気がした。
 ああ、これはこの人の心の声なんだって。
 そう思ったら、文がところどころで乱れていたり、物語にあまり起伏がないことなんて気にならなくなった。
 淡々としたリズムは、慣れれば心地よかった。
 言い過ぎたり、言い足りなかったり。
 思考が拡散したり、収束したり。
 書く日によって気分が違うから、自ずと文章も姿を変えるのだろう。筆が乱れた痕跡を見つけるのもまた楽しかった。
「ありがとう。嬉しいです」先生は柔らかく微笑んでくれた。
「ぼくも高槻先生みたいに書けるようになりたいです」
 本心から、素直にそう言えた気がした。
「じゃあ、これ」
 高槻先生の顔を直視できないでいるぼくの手に何かを握らせた。
「書くことで困ったことがあったら連絡してね」
 手渡されたのは、ノートの切れ端に走り書きされた十一桁の電話番号だった。
「君の番号も教えてくれるかな」
 先生は手早くぼくの連絡先を登録していた。
「名前も教えてくれる?」
「藤岡です。藤岡春斗」
「ふ、じ、お、か、は、る、と」
 小さく呟きながら、高槻先生は文字を入力した。
「あの、大学って楽しいですか」
 ほんの少しでも会話を引き延ばしたくて、他愛もない質問をした。
「楽しくはないかな」予想に反した答えだった。「とにかく次のお話が書けなくてね。書いても書いても全部ダメなの」
 次というのは、文藝功労賞候補になった『狂った林檎』の次回作ということだろうか。三作目の『夢から醒めて』も間もなく刊行されると聞いたから、あるいはその次、ということかもしれない。
「本気で書けなくなったら、私の方が相談に乗ってもらおうかな」
 曖昧に笑った高槻先生は、言葉とは裏腹にぜんぜん大変そうには見えなかった。別れ際の何気ない言葉が社交辞令などでなかったことを知るのは、それからしばらく経ってからのことだった。

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