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数字に色がついていても


俗に云う、「共感覚」の色彩の方の持ち主らしいです。

そのことに気付いたのは、わりと最近。ここ数年なのですが、今のところ特に得したと感じることはありません。キッカケは母親に、スーパーの閉店時間を訊ねられたことから。『あー、あそこはピンクだから(午後)9時かな』と何気なく答えたことでした。

そうです、私はお店の閉店時間を色で記憶していたことにここで気付きます。
母親はビックリ。「共感覚」の存在を知っていたらしいので、まさか自分の娘がその持ち主だったとは思いもよらなかったということでしょう。

ここでは、閉店時間以外には適用されない(思考に含まれない)と思っていましたが、しばらくして暦の月にも色を認識していることに気付きます。

ここから、少しだけ自分の持つこの「共感覚」とやらに興味が湧いてきまして、いろいろと検索してみたらですね、年月の中で生きている感覚も「共感覚」のひとつだと言うことを知りまして。

これを書いたところで、はて?となるのが普通の感覚かと思います。私も、これが普通なのでそれを言語化することがとても難しいのですが、要するに、2年分の大きな横に繋がったカレンダーが、自分の周りを回っている、という感じなんですね。(これでもきっと伝わらない)

これは、【過去1年、現在1年】の2年分にもなれば、【今年1年、来年1年】の2年分のカレンダーにもなるんです。大体その月の場所も決まってまして。聞かれれば迷うことなく即答できます。

だから、歳月記憶はそのように刻まれていっていたのですが、いかんせんそんな話を他人と交わすこともないので、これが普通だと思っていたわけで。知って、こちらも特に得はしてませんが、とても驚きました。

言いたかったことは「共感覚」のことではないんです。
自分にとっての「当たり前」は、他人にとっての「当たり前」ではないということ。話さないと、これって気付けなかったことなんです。

自分のことを知るにも、気付くにも、もちろん他人を知るにも言葉を交わすということはとても大切で、全ての行動には必ず何かしらの理由が付随するんです。

大学で教育心理学を専攻していたときに習いました。子どもの行動には全て理由があって、大人のモノの見方や考え方、そのときのシチュエーションや常識だけで何事も判断できないと。

でも、これって全人類、はたまた全生命に言えることなんじゃないかなって最近めちゃくちゃ思うんです。

今ここで、この記事を書こうとした理由。共感して欲しいから。誰かに反応して欲しいから。読んでもらいたいから。届けたい人がいるから。きっとこのどれもが理由で、まだ他にもあるはずなんです。

実は今週はじめから体調を崩して療養しています。検査も連れて行かれました。なんとなくの原因はわかったものの、まだ医学的観点から見た正確な結果は出ていません。来週くらいには呼ばれるでしょう。

服用しているお薬が増えていきます。少し不安です。でも、今年はこれでも心身共にとても健康で、幸せに生きられているんです。

ワクチン接種が出来ずとも、最近は会いたい人に会いたいと伝えたり、いつも感謝している人にありがとうと伝えたり、言葉をこうして残したりして何かしらのアクションを起こすように心がけています。

何も変わらなくても、いつか何かのタネになるかもしれない。誰かの何かのキッカケになるかもしれない。そんな大それたことでなくてもいい。今、このときを豊かに、これから先をもっと楽しくするために。

人との対話を大切に、後悔のない選択をこれからもしていきたいと思います。

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