見出し画像

濡れた路地裏のツインドラムと練りゆく黒猫

 渋谷の中心地にある流行りのカフェで、シャンピニオンのガレットを食べた。前に座っているのは、某大企業でデータアナリストとして、エンジニアとして、プロジェクトのチームリーダーとして、採用担当者として多面で活躍されていらっしゃる方、私と同様社会人4年目らしい。
 ガレットは色とりどりで華やかに見えるけれど、チーズも生ハムもリーフもそれぞれがそっぽを向いている。むしゃむしゃと頬張りながら社会人になってからのことを思い返し、ぼうっと塞ぎ込む。

 近年悩むことは毎度同じで、堂々巡りで結局一歩も踏み出せていないように感じる。その上、どうも前より一段とわがままに、中途半端に、何かにつけては文句を言って環境のせいにして、怠惰に甘んじてしまっていると思う。

 私には本を読む友達がいる。パーティーを開く友達がいる。DJの友達がいる。映画を観る友達がいる。楽器を嗜む友達がいる。芸能活動をしている友達がいる。画家の友達がいる。仕事に打ち込む友達がいる。結婚している友達がいる。
 していることは皆違えど彼彼女らの特徴として、自分の興味関心に愛と覚悟があること、学ぶ意欲と得た学びを自分の血とし肉とし内面をより重厚なものにしていっていること、その上で自分が従事するものへの責任感が揺るがないことが挙げられる。だからこそ皆熱く語ることができるし、そういう人たちの言葉からは人生とポリシーが滲み出ていて聞き応えがある。
 そう考えると、かつて身をも捧げる思いで何かに熱中したことなんてないし、何一つ誇れるものがないのだと嘆く私に「ゼロヒャクで考えるのはやめなよ、複雑に考えることを面倒臭がって逃げているだけだから、もっと思考を細分化したら?」とクリティカルな発言をしてくれる友達もいる。なるほどな、と思うけれど、そこに「正論乙〜」と返せるような友達もいて同様になるほどな、と思う。

 兎にも角にも仕事・プライベートの両方において自分の意見というものがまるでない。何を聞いても「うんうん、そうだね」「なるほどね」の相槌しか打てない。話すことも想いを伝えることもいつからこんなに億劫になってしまったのだろう。私が今の私と不意に出会って話をすることがあったならば「なんだこの人、心底つまらないな」と絶対に思うだろう。こんなだから最近は人と話すことにも正直乗り気になれない。つまらないって思われるのなんてごめんなんだもん。こんなことを書き綴るこのnoteも本当につまらない。

 ただ、なんとか、なんとかこの受動的で怠惰な状況を脱したくて、藁にも縋る気持ちで来週金曜日、下北沢の音楽イベントのフード出店に手を挙げた。それも今まで全然作ったことのないウズベキスタン料理で。コンセプトがしっかりしているイベントだし、きちんと固めたものを出したいからそのためには試作して、レシピを練ってもう一回試作して、うん、うん、停滞していた日常に動きが出てきそうな予感。帰宅早々布団に横になってリールを見ている時間なんてない。

 それから昨日、地下のライブハウスに某バンドを聴きに行った。初めて生で聴くバンドだったけれど、重たいベースとリフレインする叫び声、向かい合わせのドラムの互いに畳み掛けるパワフルな音の数々が全て硬い鉛となって、真正面からずどんと食らってしまった。当分動けなくなった。ああそうか、熱だ、感情だ、怒りだ、歓びだ。
 自分の中のエネルギーがすっからかんだったということにやっと気付いた。好きなものは好きだと、おかしいものはおかしいと、恐れるものは何もないと言い切れるだけの強さは持っていなければならないし、楽しそうなものにすぐ飛び付けるだけの健康的な体力は温存しておかないといけない。気楽にユートピアに逃避行できるような音楽ばかり好んで聴いていたところでの、この一種お叱りとも受けられる逞しい音楽!私は5kaiに感謝する。

 鬱陶しい梅雨の時期はどうしても退屈でやりきれない感情の波が押し寄せてくるけれど、つまりは何が言いたいかって私は読者の貴方に憧れていて、それでいて貴方の自慢の友達でありたい、からそんなものに負けずに少しずつ精進したいなっていうこと。小さな甘えを手放して、私がより面白くなるために。
 よし、スーパー寄って帰ろ。


 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?