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BTS of 福寿外伝 | About BaBa

今日は、作中に出てくる「バーバー」についてちょっと語ろうかと。
バーバーは、私の父のことです。バーバーは中国語で「お父さん(爸爸 |bà ba)」という意味ですね。なのでバーバー。
私の父は、中国の東北地方の出身で、90年代に私の母と結婚して暮らすために東京に来ました。
その時彼はまだ20代。母は10歳年上の姉さん女房です。

以前彼の誕生日にインスタで過去のエピソードを書いたので、改めて日本語で起こしたいと思います。
ちょいと、というかけっこう暗い話なので苦手な方はこのへんで。

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彼は結婚するためだけではなく、千葉にある大学院に通うために来日しました。
当時の日本と中国で私の両親はさまざまな経験をしてきたのですが、特に父は苦労をしたと聞いています。
その頃、まだ日本では中国に対するイメージがあまり良くなく、父は当たり前のように差別を受けてしまう、そんな存在でした。

彼が日本で結婚し、合法的に移民として暮らすためには保証人が必要でした。
どんな制度の保証人も、頼まれた人はもちろん重責を負うのでプレッシャーがかかるものですが。
その保証人の白羽の矢がたてられたのは、私の母の弟でした。
私は、一度もその方に会ったことは残念ながらありません。
そんな弟さんは、かなり差別的に父のことを扱ったとききます。
保証人になってほしいと何度もお願いに伺い、私の母方の祖父と何度も頭を下げにいったそうです。
幸い、父方も母方の祖父母は、私の両親の結婚にその時代では非常に珍しく非常に寛容的で、よく肩を持ってくれて助けてくれたそうなのですが、
その弟さんにしか保証人を務めてもらうことしかできず(年齢や収入などステータスの関係上)、残念ですが、かなり蔑んだ対応をされてしまったようです。

また、父は大学院に通いながら一家の大黒柱としてお金を稼がないといけなかったのですが、仕事を探す時も相当苦労したみたいです。
あるラーメン屋さんのバイトに応募しようとしても、中国人だから、という理由で断られてしまったり。
たった「中国人だから」という理由だけで、門前払いがザラだったようです。
幾多の拒絶を受けてようやくありつけたのが新聞配達のバイト。
事業所が川崎にあったので、一時期は父ひとりで川崎の下宿所で暮らし、早朝のバイトをこなしながら、千葉に渡って大学院に通うなどしていたようです。

その頃に私が生まれました。
私が生まれた後も父は、必死に働きながら学校へ通いました。そして大学院を卒業し、東京のごく普通の一般的な職場に就職しました。

父との思い出は、私が小さい頃から中学くらいの時までの記憶しかないです。
私が中学後半からは、父は単身赴任をして、ほとんで電話で会話するぐらいに留まりました。
私が高校2年の時、彼の病気が発覚するまで。

父からはいつも、タバコの香りがしていました。小さい頃、よくタバコを買いに行くがてら夜に一緒に散歩に出かけました。変な歌をよく歌って聞かせてくれました。その歌は中国語で歌われていて、何を言っているのかちんぷんかんぷんでした。
私が中国に留学してからようやく、「パパの小さい我が子 可愛くて可愛いな」という意味の歌詞を口ずさんでいたことが分かりました。
彼は、タバコの不思議だけど暖かい香りがいつもしていました。

私の父をどう表すか、言葉はなかなか見つかりません。
ただひとつ言えるのは、彼はとてつもなく純真無垢でした。
無垢すぎて、とてもじゃないけど全てを諦めて中国に帰れなかったのだろうし、私と私の母を愛してくれたのでしょう。
無垢すぎて、私たち家族が彼の病気を理由に言い合いになったりしないように、せっかちに天使になっちゃって、私が自分の父親のことを気にかけることを、今後生きるうえでもうできないようにしちゃったのでしょう。
本当に、純真無垢な人だと思います。

我々一家は本当に不思議で、一緒になったことのある機会は本当に少なかったです。
別に離婚もしていないし、私も両親と絶交するほどグレてなかったし。
でも、私と父とは、実は私が成長して10代、20代になったあと一緒に映る写真は一枚もありません。
撮っておけばよかったなんて思います。

そんな想いもあって、いま、自分の作品に父を登場させています。
バーバー、見てるー??娘はいま、わりと疲れた顔いつもしてるけど元気にやってるよーい。
これからも見守っていてね。

また書こうかな。
エピソード2は来週以降描きます(震)

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