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「ただいま」(2022年5月9日)

長野市には、至るところに思い出の断片が散らばっている。
幼少期から少女時代、学生時代から人生の社会人編に至るまで。

c-oneビルにも、MIDORIにも、アゲインにも、権堂アーケードにも。小さな路地のひとつひとつや、ふと視界を上に向けたときに見える景色にも。


こんなに思い出だらけなのに、私にとって長野はずっと「行く」ところだった。
いい街だなあ、好きだなあと思いながら、帰るのはいつも別の場所だった。

そんな長野市が、
私の「帰る」場所になった。

*

小さな非日常を感じる場所

北信の中でもさらに北出身の私にとって、長野市は「ちょっと特別な場所」だった。

幼少期は親の車に揺られ、東急のデパ地下や善光寺に連れて行ってもらった。デパ地下で、いつものスーパーより高級感のあるお惣菜やパンを見るとわくわくした。善光寺の境内で、鳩にお米をあげるのが好きだった。

高校生になると長野電鉄の「ホリデーチケット」(※当時は1日700円で、乗り放題だった)を使い、長野へ遊びに出かけるようになった。MIDORIで買い物をしたり、駅前のカラオケボックスで1日中歌いまくったり、平安堂へ本や参考書を買いに行ったり。バンドをやっていた頃はスタジオやライブハウスにも行ったし、映画を観たい時は決まってグランドシネマズに行った。

就活時代は、東京と長野を反復横とびしていた。サイゼリアで唸りながら履歴書を書き、面接の後には好きなカフェでパフェを食べた。私は社会人になるのかあ、と現実味のない感覚に陥りながら、日の暮れた長野駅前でよく物思いに耽っていた。


社会人になり東京で働くようになってからも、長野には度々足を運んでいた。高校の頃遊んでいた街の居酒屋でお酒を飲むと、大人になったことを実感し、感傷に浸らざるを得なかった。疲れている時も悩んでいる時も、長野はいつでも私を優しく迎え入れてくれた。帰る前はいつも、新幹線乗り場で泣きそうになっていた。

ここで生きられたらいいのになあ。
そう思っていた。
そう思うだけでは嫌になった。

生きたい場所で生きられるように、動くなら今だ。

そう決意して、私は長野に帰ってきた。

「つくりたい」の因数分解

昔から「何かをつくりたい」という気持ちが強かった。放っておくと、物語をつくるのをやめられない子供だった。

だから色んな方法で、「つくる」ことをしてきた。

文章は10年以上書き続けているし、絵を描くのも好きだったし、高校では演劇に浸り、大学では一眼レフを買って写真を勉強した。
その中でも文章を書くことは、もはや呼吸と同じくらい生活の一部になっている。小説の毎日投稿はそろそろ5年目になるし、エッセイやブログのように「自分の思考や生活の断片」を文章化することがルーティンとなっている。


そんな私は社会人になり、不思議な巡り合わせで、WEB制作の世界に触れた。大人になっても新たに「楽しい」と思えることがあることに驚き、嬉しくなった。
生活の中で、看板や広告、サイトのデザインや言葉について考えることが増えた。これは好きだ、とか、これはもっとこうしたらいいのに、とか考えながら満員電車に揺られていた。次第に、考えるだけでは物足りなくなった。
だから、感覚ではなくて根拠を以て、デザインについて考えを述べられるようになりたいと思うようになった。

こんな風に思い返すと、私は「思いをいかにかたちにするか、いかに伝えるか」を考え続けて生きてきたように思う。「つくりたい」の根底にあるのは、「伝えたい」という思いだった。

私は、自分の思いだけでなく、人の思いも丁寧に聴き取って、それをかたちにできる人で在りたい。

*

誰が為に我は書く

仕事について考える上で、私にとって大切なのは「誰と、どこで、どんなものをつくりたいか」だった。

「クリエイティブな仕事がしたい」というありきたりな言葉が世の中には溢れ返っているが、それを口にするにはまず、思いの本質をしっかり捉えなければならないと思った。

私は、「好きな人と、好きな場所で、人の思いを伝え、繋げていけるようなものを作りたい」と思った。
私をここまで生かしてくれた人たちに恩返しがしたかった。
つくるのは大好きだけれど、ただの自己満足ではなく、誰かの思いに寄り添ったものをつくれる人で在りたかった。

長野には思い出が沢山あった。今長野以外の場所にいる、大切な友人とだって、出会ったのは長野だった。

その一つ一つの出会いや思い出に、私は何度も救われた。だから、救いをくれた場所や人たちに、恩返しがしたいとできる人で在りたいと思った。

「自分のやりたいこと」も大切だけれど、それ以上に「自分がどんな形で恩返しをしていきたいか」という軸で考えて、仕事を探した。悩みに寄り添い、人の思いをかたちにし、繋げていける仕事を。

その思いが、縁に繋がった。

伝わらない、のその先へ

これまで生きてきて、「伝わらない」瞬間に何度も出会った。だからこそ私は、私は思いが「伝わる」瞬間のために併走できる人で在りたい。
かたちにしなければ消えてしまう思いを伝え、残したい。
人の思いを聞き、整え、言葉やデザインを使って「伝わる」かたちにしていたい。

今自分には何ができるのか、何ができないのか、それをできるようになるには何が必要なのか。考え、書き、色んな人に伝え、話を聞き、また考えて、悩み、それでも伝えようとしてきたから今がある。

これからも悩んだり立ち止まったりするのだろうけれど、長野に帰るまでの過程で考えたこと、実際に「帰りたい場所」に帰り、伝えたいことが伝えたい人に届いたという経験は、きっと自分の糧になってくれると思う。



引っ越してきた日、荷解きもそこそこに、長野の街を散策した。
善光寺の通りは御開帳でにぎわっていた。夕陽が落ちると途端に気温が下がる感じが懐かしかった。見知らぬ路地、見覚えのある店、初めて見る店、懐かしい店。何度も通っているはずの道沿いに知らない公園があった。

街も人も、変わっていく。
季節が移ろうスピードより早く、移り変わっていく。

変わらないものも変わっていくものも、愛おしいと思った。

今までの私が歩いてきた道の上に、私は今立っている。幼少期の私もJKだった私も文学生だった私も、24歳の私の中で確かに生きて、背中を押してくれている。

灯りがともっていく大通りを歩きながら、心が満たされているのを感じた。新しい人生の一幕が始まる予感がした。
この感情はかたちにして残さなければと思いながら、瞬きをするようにシャッターを切った。


*

立ち止まること、悩むこと
進むこと、変わっていくことの肯定

ここに辿り着くまで、本当に色んな人に支えられた。
生きたい方向に向けて舵を切ることは、決して一人ではできなかったことだ。
そばにいてくれた人、話を聞いてくれた人、縁を繋いでくれた人。優しさも愛情も沢山もらった。感じられる人で在り続けたいし、もらった分、いやそれ以上の愛を、返し続けられる人で在りたい。

人生って不思議だ。繋がりは繋がりを生み、悩みや苦しみの中から新たな答えが見つかることがある。

変わっていくようで変わらないこともあるし、変わらないようで変わっていくこともある。

それでいいのだと思う。
そのすべてを穏やかに肯定できる人で在りたいと思う。

変わらない店も、新しい店も。
変わらない繋がりも、新しい出会いも。

全部大切だから、これからも大切にしていきたい。

悩んでいた自分のことも、これから悩むかもしれない自分のことも、別の選択をしていたかもしれない自分のことも、肯定できる自分でありたい。そのために、自分で選んだ人生を幸せに生きたい。

勉強したいことがたくさんある。行きたい店も。語り合いたいトピックも。見たい景色も。立ち合いたい瞬間も。

生きていく中で迷い立ち止まる瞬間に、隣で一緒に考えられるような。
伝えたい感情を、伝えたいときに、伝えたいひとに伝えられるような。
そんな人で、在りたい。

ここからだ。
生きたい場所にやってきた。やりたい仕事に辿り着けた。
ここからが本番だ。

と、つい緊張して身構えてしまうのだけど、がちがちにならないよう深呼吸しつつ、楽しみだなあ、と思う瞬間を大切にしよう。伸びをして空気を吸い込んだら、もう少し夏の匂いがした。

ただいま長野。
これからよろしくね。

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2022.5.9
雨の降る月曜日、
珈琲専科ブラジルにて

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