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君たちはどう生きるか〜夏子の不思議を考察〜(ネタバレあり)

君たちはどう生きるかのほとんどのシーンについて、やっと自分の中で謎がなくなってきた。観てすぐは不可解に感じた描写や展開も納得いく解釈を見出せた。

でも継母である夏子さんがなぜ異世界に向かったのか?
産屋でのシーンがなにを意味するか?の解釈は1番難しかった。

この映画について感想を書く多くの人もこのシーンを疑問に思いながらも解釈に苦しんでる。どの解釈も納得感がない。だから自分なりに重点的に考えてみることにした。

まずこの作品の考察は2軸で考える必要がある。ファンタジー世界の仕組み
宮崎駿監督の自伝として
この2つの意味合いを考える。

主人公の育った真人の家族は宮崎駿監督の幼少期の家庭環境に似てるらしい。戦時中に事業拡大して女たらしで、学生の時に結婚してすぐ後に宮崎駿監督の母と結婚してることととか。

宮崎駿監督に継母がいたわけではないけど、宮崎駿監督の母は後妻ではあったからなにかしら夏子さんのようなところがあったのかもしれない。

夏子さんは真人にとっては母が死んだ後に父と結婚した母の妹だ。叔母でもある継母だけど、いくら妹でも顔が驚くほどそっくりというのは双子なのかもしれない。夏子さんの妊娠の早さと、後妻となった夫に対する態度からすると、最初から姉の夫に好意を持っていたとか、姉に嫉妬していて成り代わりたいみたいな気持ちがあった可能性は高い。双子だから気持ちも共有しやすいとかそういう設定だろうか。

病院の火事は空襲要因らしかったし、もしかしたら母久子さんが入院してたのは妊娠してのことだろうか...。それもあって妊娠したいと急いだのかもしれないし、実際に妊娠できたことが誇らしかったから真人さんにお腹を触らせて見せようとしたのかな。そう考えると夏子さんの言動が理解できる。でも成長した息子のために本を用意してるということはもともと身体を壊してた可能性も十分ある。宮崎駿監督の母も結核で長いこと寝たきりだったらしいから。

夏子さんは自分より活発で歳が同じなのに少し先に生まれただけで姉になった久子さんのことを疎んでいた気がする。そうしたら、なんと本当に亡くなったんだろう。もちろん姉にそっくりな子供の真人のことも疎んでた。せっかく可愛がろうとしたのに可愛くない態度もされた。そしたら真人が怪我をした。だから怖くなったんだと思う。自分が邪魔だと思う者が死ぬ可能性がある。それはとても怖い。つわりで体調が悪くなる中、彼女は子供なんていなければと思ってしまったのではないか。

夏子さんがそう思えば本当にお腹の赤ちゃんが死んでしまうかもしれない。だからそんな考えが生まれなくて済む世界に逃げこんだのだろう。

生きていても死に近い世界に迷い込めるのは別に死にたいからじゃない。生きたまま迷い込めることは、お姉さんが1年後に帰ってきた時に夏子さんも薄々知ってる。しかもお姉さんは驚くほど元気になって帰ってきたのだから、自分のそうなりたいと思って塔に向かった。

塔の世界は死の世界に近く、生きてるものが珍しい。だから本当の子供はとても神聖なもの。まして想像主の大叔父の血縁者。夏子さんは丁重に扱われ、産屋で子供を産むことになる。少なくとも産むまでは帰りたくない。帰ると真人さんや赤ちゃんが危険だから。

真人やヒミが産屋に入ろうとしたら石はとても怒った。産屋に入るのは禁忌でルールらしい。世界のルールを決めたのは大叔父様だけど、決めた後は、石はルールを絶対にする。理不尽かもしれないけど、ルールはルール。

一度決めたことを変えることの難しさがここで表現されてた。このルールとはなんだったのだろうか。明確な言葉はないから見えないなにか、暗黙の了解で立ち入れない。そんなニュアンスを感じる。いわゆる同調圧力のような、言わなくても理解しなくてはいけない掟を表現していそうだ。

こういうファンタジーとしての考察以外に、この映画は宮崎駿監督の自伝として見る必要がある。

だとすると、このシーンは奥さんとのエピソードなんじゃないだろうか?宮崎駿監督の奥さんは、ゴローとケイスケ―お母さんの育児絵日記を書いてる元アニメーター。

奥さんは次男を産んでから2年後にアニメーターを辞めざるを得なくて辛かったと語ってた。奥さんは画力では宮崎駿さん以上とも言われてた人なだけに、その決断はかなり辛かった。だからこそ宮崎駿監督も申し訳ないと語っていた。

奥さんが退職したのは小さな子供が2人いる中でも、宮崎駿監督が毎晩、夜中とか未明に帰宅するようになっていて育児、家事が全てが奥さんの負担だったことが原因だったらひい。

映画でも旦那さんは仕事中心。家のことは夏子さんに任されてる。全く育児に参加できなかった宮崎駿監督に対して、奥さんがなにかしら怒りをぶつけたことがあっても不思議じゃない。

宮崎駿監督の家庭だけでなく、宮崎駿監督の母もまたそうだったのかもしれない。家のことは任されきり。宮崎駿監督の母は4人の子供の育児にかかりきり。宮崎駿監督の幼少期に身体を壊している。

産屋に入った時の真人が夏子お母さんと急に呼んでみたり、結局は夏子さんが部屋から出ることもできなかったりとこのシーンの謎は多い。

でもこれもこの時の夫婦喧嘩や、宮崎駿監督の母親が病気になった問題が根本的には解決しなかったことを考えると不思議でもなくなる。

結局は奥さんが仕事を辞めるだけで終わってしまったし、お母さんは寝たきりだった。当時どうしていいかわからなくてこうすればいいのか?みたいな男性的な唐突感と葛藤がこのシーンなら。大嫌いと言われても帰ろうと言える度量を見せることをすればよかったと思ってたから。

このシーンに抱く違和感て、男性がヒステリーを起こす女性にはこうしていたらよかったのかな?と考えそうな時に、女性はそうじゃないよね?と抱く時のものにとても似てるんだ。

もともと序盤から夏子さんの言動からなんだか焦りのようものを感じてたけど、当時の宮崎駿監督も子供ができるんだから自覚してね!みたいな奥さん側からのプレッシャーを無視し続けてたのかもしれない。奥さんのアニメーターとしてのキャリアを断つことになってしまったことの後悔がこのシーンに出てるのかもしれない。気付いた時には何をいって遅かったのかもしれない。そんな光景が思い浮かんだ。

宮崎駿監督は過去の作品であまり自分の今の家族のことを描いてこなかったように思う。でもこの映画では大叔父と真人の関係性はジブリを託そうとして、結局うまくいかなかった息子との関係性も入ってる。血縁でなければ継げない世界になってることも息子が自分の道を進むことになったのも。

夏子さんの産屋のシーンがしっくりこないというか感情表現がわかりにくいのは、監督にとっては特に照れ臭いシーンだからかもしれない。誰にも語っていない監督の人生経験がこのシーンに反映されてる気がした。

ファンタジー的な世界の話に少し戻すと石の決めたルールを破ったら死に近い罰があるらしい。

それは家族を失う、もしかしたら離婚の危機と似たようなものかも。アニメをやめるか?家族を失うか?そんな選択があってもあれだけの無茶をして映画を作ってるのだからありえる。でも大叔父だけは、まぁまぁいいじゃないかとと軽く考えてるあたりが仕事のことしか考えてない父親像らしきところが垣間見える。大叔父だけがルールを破ったことを、今となってはすぎたことって感覚もなんだか昭和に生きた男性らしい態度にも見えた。

インコ大王は凡人の中でも力の強い人たちを表現してるっぽいから、家庭との亀裂がある中でいろいろ言われることもあったのかもしれない。

映画のこの展開事態は映画の事実上の原作のような小説「失われたものたちの本」を読めばもう少し違う視点も出てくるかもしれない。

夏子さんの行動の謎の考察は、私の中ではこの見解が今のところ1番しっくりきてる。

それにしても、この作品の面白さはまさにこういうところにある。なにが描かれているかハッキリしない。だから観た人が好きなようにストーリーを作り替えることができるんだ。数千、数万、数億の意味のある作品に生まれ変わる作品。失われた物語ではなく、観るものがつくり続けることのできる物語。こんな作品はもう2度と生まれない気がする。そしてこんな作品が事実上の最後になりそうというところが宮崎駿監督の凄さだと改めて思った。

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