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性的指向の探求

私は女性の身体を見るのが好きだ。

長年女性アイドルを応援し続けている理由も、「女性の身体が見たい」という邪まな気持ちが多くを占めているからだろう。
この欲望から、自分は女性と性的に交わりたいと思っているのではないかという仮説を立てた。

しかし、女友達と手を繋いだり腕を組んだりした時に性欲が湧き上がったこともなく、女性に恋をしたこともなかった。
つまり思考の飛躍が甚だしいのだが、それはいつもの事なので私はレズ風俗に行くという自己探求の旅を決心した。

一大決心から半年間、私は全く勇気が出ずにいた。お願いしたい方は早々に決まっていたのだが、何かと理由をつけ先延ばしにしていた。

ある日、彼女がお店を辞めてしまうことが分かった。まずい、絶対この人にお願いしたいのに…!私は大慌てで予約をした。

そして迎えた当日。待ち合わせに向かう道中、想像以上に緊張しなかった。むしろあんなにかわいい人に触れられるのかと考えるとマスクの下でニヤニヤが止まらず、そんなこんなしていたら待ち合わせ場所に着いた。
153㎝くらいの小柄な方で、まあかわいい。ショートカットの柴咲コウみたいな感じで、三白眼が素敵なお姉さんが立っていた。

お姉さんは緊張をほぐそうと色々話を振ってくれたにも関わらず、私はほぼ意味わからん回答をしてしまい、プチ錯乱状態に陥っていることを自覚する。
新卒で入った会社に退職届を提出した時も思ったが、己のキャパシティを超える行動をしている時、自分が自分ではない感覚に襲われるのである。
そんなカオスの私を優しく抱きしめ、「あなたにとって良い体験になるといいな」と囁いてくれた。もうちょっと泣きそうである。

ぬるっと事は始まった。結果、大きな収穫はあったものの、理性を失う程没頭することはできなかったように思う。

男とか女とかの前に人と人

私と彼女の間には大きな精神的隔たりがあった。
人間と人間が性行為をする動機を掻き立てられる要因として、性的対象かどうかということのみならず、あらゆるものが挙げられる。

親密さ、信頼関係、性的対象、恋愛感情。この全てを満たしていない状態での性行為はなかなかロックであり、終始第三者目線で自分を見つめているようだった。
男とか女等の「性」の境界線よりも、自分にとっては「精神的隔たり」の方が大きく疎外感を感じさせる因子だということが分かった。

社会的動物としての自己抑制

理性を失わず、終始比較的冷静でいられたのは社会的動物としての自己抑制も起因していると思われる。
25年間の人生で、女の子に性的な興奮を覚えても良い状況になったことがなかったため、いきなりそれが許される環境になっても適応できなかったんじゃないか、と思う。

バカリズムのすべらない話で、リビングでお漏らしをすることに挑戦したが、しようと思ってもなかなかできなかった、という話と非常に似た感覚である。

金銭発生と一方的なサービスへの罪悪感

女性との性行為も初めでであったが、他人に金銭を払い、性的サービスを受けることも初めてであった。金を払って相手に自分の望むような行動を強いることへの妙な違和感、罪悪感も没頭できなかった要因の一つであると思う。
自分ばかり良くしてもらって申し訳ない、相手にも何かせねばと思うのだが、金銭が発生しているのだからこれでいいのだと言い聞かせる自分もいて感情が大変にごちゃごちゃになった。

女体は大好き、だが見たり触ったりで十分

結論は、これである。
本当に女性の身体が大好きである。お相手の方があまりにも素晴らしくお綺麗なお身体(本当に、赤ちゃんかと思うくらいすべすべ)だったので、一生触っていたかったし土下座して拝みたいくらいだった。お姉さんがかわいいという事実とそんなお姉さんが自分だけに時間を使ってくれるということへの幸福感は大きかったし、こんなに新鮮で尊い光景は二度と見ることができないかもしれないと思いしっかりと目に焼き付けた。
しかし、私が女性をかわいいとか綺麗とか言って愛でることは、一方的な「芸術鑑賞」に過ぎないのである。私が長年やってきたことは「芸術鑑賞」であり、人と人が向き合い、同じ目的を共有し何かを一緒にするという性行為や恋愛とは全く別物であるということを身をもって実感した。

自己探求の旅には大きなリスクが付き物である。女性との性行為は自分が想像している以上に精神的ダメージが大きかったらしく、翌日も翌々日も12時間程眠った。

以上、自己探求の旅は幕を閉じた。
精神的衝撃は受けたものの、受けるべき衝撃であったし何よりこの体験を経て、自分が感じていることをよく観察することができた。
これからも多方面への探求を続けてゆきたい。




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