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日本文学盛衰史 覚書 ちょびっと

たまたま古本屋でつげ義春の漫画を買った日の前後に、友達二人また別のつげ義春の書いたものを買っていて、さらにその次の日もインスタでなんか見た。私が世事に疎いだけで、なんかあったのだろうか。

それはともかく、高橋源一郎の『日本文学盛衰史』を読み始めたのは、年始の休日に研究や仕事とぜんぜん違うタイプの小説を読んで過ごそうと思って用意したのが佐藤友哉であって、『1000の小説とバックベアード』の参照元がこれだと知ったことによる。こっちを読むと、『1000の~』の最後に出てくる「日本文学」なる人物(?)が、客死した二葉亭四迷だとはっきりわかる。(それにしてもこんなにおもしろい小説が存在するなんて、もっと早く教えてよ)

で、読み進めるタイミングで青年団のメルマガに同じ文字列が。これはちょっともうあなた、というわけで、伊丹演劇ホールを訪れたのだった。

文学+の明治文学研究者の座談会を読んで明治文学に興味が湧いたりもしていたところだった。高橋の小説はまさに日本の小説が生まれようとしたその黎明期に苦心に苦心を重ねた作家たちの試みがいかなるものであったのかを、90年代当時の日本語で、あるいは日本で、何が試みられていたか、に重ねて描く。(啄木の短歌は本物の穂村弘の描き下ろしや引用である。)言文一致への挑戦と描くべき内容の模索は終わるものではない。高橋源一郎も登場し、おまけに本物かどうか知らないが胃カメラ写真までついている。

したがって、そのような小説論的小説の舞台における脚色とは、小説のみならず、近現代演劇の歴史を導入し、また、2020年代の諸現象が舞台に上げられることになる。5年ぶりの再演とのことだが、それにあたってシナリオが変更されていることは明らか(ミルクボーイの漫才が引用され、ウクライナ侵攻が言及される)。原作ではパンクっぽいフェミニストとして登場する樋口一葉は舞台上ではチェルフィッチュのセリフ回しが引用されており、アフタートークで平田オリザは岡田利規と樋口一葉の言葉の類似に触れていた。

二葉亭四迷の死にはじまり、文学の葬送として終わる原作をなぞるように、舞台は北村透谷、正岡子規、二葉亭四迷、夏目漱石の葬儀が舞台となり、最後に登場する無頼派トリオがAIが小説を書き、AIが小説を読むようになる未来を予告して終わる。こうした再演可能性というか、応用可能性みたいなもの、が原作の企てをうまく引き継いでいると思った。

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