お尻絵巻~なにかと大変なトイレについて

※このエントリーは「全国学生トイレ研究会 Advent Calendar 2021」に寄せて書いたものです。

夏の朝、母が仕事に出かけた後で、ぼくは、親が働きに出るために昼の間ほったらかしにされた黒人の子供の群といっしょに、とある、小高い丘の麓へよく下りていったものだ。その丘のてっぺんには、がたがたになった木造の戸外便所がずらりと並んで立っていたのだが、後側が開けっぴろげになっていたものだから、そこから実になまなましい驚くべき光景がまる見えなのである。ぼくたちは、その丘の麓にうずくまり、二十五フィートか、あるいはそれ以上のかなたに展開される、黒や、茶色や、黄色や、あるいは象牙色をした男女の、人知れぬ、奇怪な実態を、眺めやった。ぼくたちは、何時間もにわたって、笑ったり、指さしたり、囁いたり、冗談をいったり、あるいは近所の人たちを彼らの身体の特徴でそれと見分けたりしながら、人々が難渋しいしい排泄したり、すさまじい勢いで下痢したりするのを、とやかく品評していたものである。

リチャード・ライト『ブラック・ボーイ(上)』p.43

ここはセグレゲートされた黒人専用のトイレ。しかしその排泄を適切に閉じ込めておくため、後に白人の警官が見張りのために配置されることになる。

ジム・クロウ法下のアメリカ南部に生まれ、激しい貧困と暴力的な差別を生き延びてシカゴに逃れた黒人作家リチャード・ライトの自伝的小説『ブラック・ボーイ』からの一節だ。全体として悲惨な出来事が続くこの作品のなかで際だって牧歌的なのがこの場面。お尻の丸出しになったトイレの後ろ側(rear ends――それ自体お尻を思わせる語)が丘のてっぺん(top)にあって彼らがそれを麓(bottom)から見上げるという位置関係の転倒が、祝祭的とまでは言わないけれど、愉快であるには違いない。

人間を後ろから、どうやら体面よりも"本当"であるらしい人間の内緒の場面を「二十五フィート」だかの距離を取って眺めるこの子供の姿はもちろん、貧困、人種、宗教、搾取といった布置においておのおのの振る舞いと精神性を身につけた人々への怜悧な観察眼を持つ大人になるライトの姿を予告してはいる。しかしそれ以上にトイレの話が示唆するところは大きい。

白人の警官が便所の後ろ(behind the privies)に置かれることは象徴的である。うんちは汚いだけでなく脅威だ。支配するものはその対象を排泄までもではなく、まずは排泄から秩序だてなくてはならない。人間の後ろもトイレの後ろも同じことである。

たとえばアジアで、植民者は非植民者の身体をどこにでも汚物を撒き散らす野蛮人として表象し、トイレという文明的な設備を課した。自分たちに都合よく生産し富を差し出す者たちに好き勝手されたら困るから。そして往々にして、その手の管理のやり口や表象の技法というものは植民者がいなくなったり奴隷制がなくなったりしても、あの手この手で人々のミクロな関係を規定していくものだ。

だから周縁からの想像力はそれを逆手に取り、自らの身体を祝祭的に書き直す――再占有することで課せられた秩序を転覆してきたりした。それは、悪い王様をやっつけていい王様にすげかえるのではなく、王様が見たくもないうんちを見ずに済ますためにどんな仕掛けを要したのかを明かすための方法である。

ライトはお祭り騒ぎの作家ではないし、人の外面の背後に下痢や便秘みたいな真実があるなんて書き方は面白くもない。しかしごく短い一段落のなかにこれだけの政治性を詰め込める――たとえば肌の色が列挙されている最後に象牙色(ivory)とあるのは、アフリカ系の血が一滴でも流れていれば肌がどれだけ白くても黒人とみなして差別の対象になるというワンドロップルールをほのめかしてもいる――のを読むときに、トイレがいかに政治的な場であるか、トイレへのアクセスをめぐる戦いがどれだけある秩序からの抵抗を受けるかについて、私たちが考えられることは多い。


参考文献
リチャード・ライト『ブラック・ボーイ―ある幼少期の記録―(上)』野崎孝訳、岩波文庫、1962年。
Richard Wright, _Black Boy: A Record of Childhood and Youth_. The World Publishing Company, 1945.


◆懶い河獺(ものういかわうそ)
小さな山奥の温泉宿の早朝、古いけれど手入れの行き届いた誰も居ないトイレのひんやりした空気とラベンダーの香りが好きです。


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