温又柔・福永信・木村友祐「今、この世界で、物語を語ることの意味」~推し中心の記録
甲南大学で豪華二本立ての文芸イベントがありました。第一部はイスラエルの作家エトガル・ケレット本人が主演するドキュメンタリー映画『エトガル・ケレット ― ホントの話』の上映、そして第二部が温又柔さん、福永信さん、木村友祐さんが登壇するシンポジウムです。シンポの内容を推し中心で書き留めます。ネタバレっぽいものを含むかもしれません。
秋元:(ケレットさんの"I'm not anti-Israel, I'm ambi-Israel"という言葉を紹介。)寛容さを失いつつある、そして文学が読まれなくなってきている「今、この世界」において物語ることの意味、理由は?
温:人や世界を嫌いにならないために。日本人ではない要素を持つ立場で日本語を使うときに感じるズレと向き合うこと。
今ここじゃない世界だってある、国民国家というファンタジーだけが全てじゃない、ということを伝えたい。
日本に来ずに台湾で育っていたら、自分はマジョリティ。そうして育ったら、違うタイプの作家になっていただろう。台湾では兵役があり、中華民国籍の男性は移民していても従軍しなければならないため、息子を持つ移民は現地国籍に帰化することが多いが、自分はたまたま女の子だったから中華民国籍。そのような、作品を成立させる条件に常に意識的でありたい。
福永:自分の作品は、物語ってはいない。最近は作品がどんどん短くなって、タイトルを付けるだけで満足してしまう。というのも、タイトルと著者名は作品の特等席だから。このふたつが作品の質を作る大きな要素。どんなタイトルか、著者名が女っぽいか、男っぽいか、日本人っぽい名前か、中国人っぽい名前か、など。そこで、今度ペンネームで作品を発表する予定。その作品が福永信のものであることは明かさない。作品の外側の要素が作品を形作るということにびっくりしているうちにここまで来てしまった。タイトルだけだと仕事にならないから困ってる。
ところで、今日は自分の話、今日ここには居ないけど映像を送ってくれた人(ケレット氏)、そしてここには居ない人を紹介して終わろうと思っている。
ケレットさんについて。映画の中で、作品は嘘の話なのか、本当の話なのか、みたいな話題があった。それを聞いて思い出したこと。以前、老齢の作家の随筆が新聞に載った。避暑地にピクニックに行ったというつまらない内容。ところが亡くなってから、実はその随筆は病床で書かれた真っ赤な嘘だったことが分かる。事実を書くことがルールであるような随筆という媒体でルールを破って願望を書く。作家ってそんなもんなのかな、と思った。
ここに居ない人、ケレットとも関係ないかもしれない人の紹介。今自分たちがここに居るということの面白さがあるから紹介する。長谷川三郎。甲南中学・高校の卒業生で、美術批評家・画家。作品が現在の甲南中学・高校の構内のギャラリーに収蔵されている。長谷川三郎が通っていた当時の中高は、現在の大学の場所(今、自分たちがいるところ)にあった。3日ほど前にそのギャラリーを観に行った。会ったことも無い人だから、作品からも人柄はわからない。抽象画をやっている時期も、風景画を描いている時期もあった人だからなおさら。しかし何かがやりたかったのだとは伝わる。絵を観ていると、会ったような気がする。その場に居ると好きになる。それは何故か。小説にも抽象が放り込まれているからではないか。小説を読むという経験が、抽象画を観ることに役立っているのではないか。絵を観るのに絵だけが好きなのではいけない。
抽象を小説でするのは難しい。抽象は物語と対立するから。でも、カギ括弧や句読点はある意味で抽象。それだけ取り出しても読めない。でも機能は理解できるし、それが存在しても不自然じゃない。現実の発話にカギ括弧なんて付かないけど、小説を読むときは物語とは別の抽象を自然に受け取っている。カギ括弧や句読点、あとゴシック体とか、黙読する散文とか小説の中でしか生きられない印や形がある。こうした抽象のポジションは、物語ることを(小説の)前提にすると消えてしまう。タイトルと著者名だけ、みたいな極端な方向に自分の創作が向かうのは、そういう部分に関心があるから。小説という形でしか出来ないことを考えてきた結果。
木村:「物語」に対する警戒はある。自分を物語作家とは思わない。生きるということの、自分がもつ虚ろさに重しを与えるために書いている。なぜ自分が存在するのか、という問い。無意味かもしれないが、それに意味を与えるため。物語は虚無に陥らないためのセーフティネット。そして、世界の見え方をずらす、更新するもの。
(ここからディスカッション)
福永:ケレット氏は、現実、言語、母語に向き合うと同時に、小説という場で遊ぼうとしている。名前の「エトガル」は「挑戦」の意。ミステリじゃなくても、読者に挑戦することはありえる。そして、「ケレット」は「都市」とか「街」という意味。ケレット氏は、街の中で誰かの振る舞いや遣り取りを見て、それをピンで刺すように物語にする。ということは、著者名が全てを語っている。常に各々の役割が入れ替わりながら、知っている人や知らない人が動いている都市で、それに挑戦している。
秋元:ケレット氏が映画で、自分の小説は「人生の広告」と言っていた。「人生、試してみませんか?」という生を肯定する広告。
福永:その決め台詞はピンと来ない。何度も言ってるんだろうなって感じで、それは良いな。それよりも、ラストシーン。ケレットさんの妻、シーラさんがこのドキュメンタリーを撮った監督と話しているときに、この映画の冒頭の場面を提案する。監督はすぐに乗り気になるが、ケレットさんが「もうちょっと渋ったほうがいいんじゃない? うーん、って感じで」とアドバイスする。これがアイディアが生まれた瞬間。決め台詞ではないけど、すごく良い瞬間。ケレットさんが、こうやって書いている、こうやって現実を変容させてきたんだということが分かる。演出なんだけど、そのアドバイスによって監督が実演する。それは現実の変容。そして、その監督の様子が作品に撮られている。この映画は監督の作品なんだけど、この場面はケレットの世界。いくつもの層の現実があって、そのどこに重点があるのかわからない。これが反-物語であるとすればそういう点。
こんなのは後付だけど、みんな物語への懐疑がある。昭和の終わりと今の平成の終わりはすごく似ていて、より悪い形で反復しているのではないか。昭和の終わりは、大きな物語の失効ということがすごく言われた。そして、新しい小さな物語を個々に探そう、という機運だった。日本でしか通用しない一つの区切りが勝手に終わり、勝手に総括して、それぞれの小さな物語を探し始める。いい話ばかり集めた平成の総括とか。そういう物語への懐疑がある。日本でしか通用しない物語である平成が勝手に終えられて、新たな物語探しが始まる。「終わったこと」として、外側から何を言われてもリセットしてしまう。それは作家がどこに向けて書けば良いのかわからない状況。日本語の受け手の存在がわからない。そういうとき、物語は物語としてあっていいから、新たな読み方が必要。
秋元:読者が減っていることについてどう思うか。文学はサヴァイヴ出来るか、する必要があるか。
温:たとえ読者が居なくても、言いたいことは言ってやる!
福永:物語を書く書き手への期待より、読者への期待を強く持ちたい。こんな風に読める、別の作品とこう組み合わせることで、違う感想を持ちうる、というような読み方がいくらでもある。書くやつは勝手に書くので、読む方が大事。読むことは積極的な行為で、最近は読みが単一に絞られすぎている気がする。いろんな読み方があった方が豊かなので、それを楽しみにしている。
「文学あります!」というスローガン(秋元さんがこのシンポの趣旨として提示したもの)は軽薄で良い。今物販で本を買って、帰りの電車で読めばいい。カバーもかけずに。すると(みんながスマホゲームしてる今では)異様な光景。一人でも読者がいたら、それは大きな情報。近くの人が「ケレットか」と思う。それは読者がやれるコミュニケーションのひとつ。色んな読み方があって、それは作品の外側にも広がっている。
書き手が書ける範囲は狭い。けど、作者は読者にもなる。どんな風にでも読めるけど、書くものはそんなに変化しない。結局いつもの温さん、いつもの木村さん。社会状況が違えばスタンスの違いはあるだろうけど、一人の書き手が書けるものには限界がある。しかし読み手になれば何でも読める。どう読むか、という読み手の積極性が大事。
(フロアからの質問タイム)
フロア1:コーヒーを飲もうとすると新聞を落としてしまう男を見てケレットさんが物語を作ろうとする、という映画の挿話が印象的だった。皆さんは、どんなときに書きたいと思うか。また、他者を排除するための物語とつながるための物語の違いはどこにあるか。
木村:感情が伝わらない、断絶を感じたときに書きたくなる。ケレットさんと同じ。何に感情が揺さぶられるかは人によって違うだろうけど。ヘイトにつながる物語とそうでないものの違いは、その人が人とつながることを肯定するか、気持ちいいと思えるかどうか。
福永:一義的な物語に対して、ケレットの"ambi"性がある。意地悪で書いているのか、マジで書いているのかは読者に委ねられる。読者は作者の信念を読みたいわけではない。作品がはらむ揺らぎそのものを読み取っていけばいい。どれだけ信念を持った書き手の作品でも、必ず優秀な読み手によって誤読される。作品には必然的に揺らぎがあるが、同時代の人間が一義的に捉えてくる。こういう話は余りしないけど、日本の憲法9条なんかも、いろいろな読み方をされてきた。そういう意味では、日本にはテクストを豊かに読むという蓄積がある。
書きたくなるのは、本を読んだとき。
温:近作の『空港時光』のほとんどの短編は、空港で目についた人から着想した。
フロア2:なにかに抗うための作品ではなく、ウリポ的な作品とか、遊びのための文章は物語として伝わったり、語り継がれるような強度があると言えるか。
温:言える。自分は抗うこと自体を楽しんでいる部分がある。社会を変えてやる、という側面と、テクストの美的側面、現実を再構築するという側面がある。非政治的な作品も、一度は人の心を掴んでいるのだから強度がある。
福永:遊び以外にない。子供には読めないすごい遊びがここにある。大人の脳がやること。そのためにだけ小説家は書いているといっても過言ではない。
木村:今の自分にはそのような作品は必要ない。
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