フットボールにおけるダービーとは何か。

 フットボールは紛れもなくスポーツという文化だ。けれどもフットボールの応援もまた、スポーツではないものの、一つの文化であると、おれは思っている。スポーツではないと書いたのは、それが競技ではないからだ。

「フットボールの応援が文化である」という考え方は、日本ではそれほど根付いていない。そもそもフットボールとは別物だという認識もない。文化というのは、つまるところ歴史の積み重ねだ。だから、少なくとも応援は文化であると自称する者なら、その歴史を知っておく必要がある。できれば自分の肌で。無理ならば本や映像などで歴史を紐解き、追体験をしておきたい。

 中村俊輔が所属していたスコットランドリーグの名門セルティック。そして不倶戴天のライバルであるレンジャーズ。共にグラスゴーという都市を拠点とする両チームの対戦は歴史ある「オールドファーム・ダービーマッチ」として知られ、両サポーターは普段以上にヒートアップした応援合戦を繰り広げる。それは、ただ単に応援するクラブが違うという事実を超えた熱狂だ。彼らサポーターは“本当にサッカーを見ているのか?”

 実はこのオールドファーム・ダービー、フットボールの名を借りた“代理戦争”だ。

 セルティックとはケルト人のカトリック教徒をルーツとするチームである。そもそもCelticという綴りがケルトを意味しているのだ。もちろんサポーターもカトリック教徒だ。

 一方、レンジャーズは16世紀にスコットランドで起きた宗教改革によって多数派となったプロテスタント教会をルーツとするチームだ。当然、こちらのサポーターはプロテスタントが多数を占める。

 これが、北海道と同程度の国土しかないスコットランドで、しかもその中のグラスゴーという都市内でこの2チームが苛烈な争いを行う理由だ。中村俊輔がそうであったように、クラブの選手が全員その宗教の教徒という訳ではない。だからこそ、ダービーマッチにおける選手の熱量・純度はファンのそれに比べると高くないと言える。試験に出るから覚えておいてほしい。“ダービーの主役はサポーターである”

 ここで、唐突に映画トレインスポッティングの話をする。主人公のレントンはスコットランドに暮らす無職の青年だ。窃盗の前科がありドラッグ中毒者でもある。また、実家に寄生するニートでもある(ニートという言葉はイギリス発祥だ)。 イギリスの事を「クソ」と呼び、自国を「そのクソの属国だ」と卑下する。けれども、それは自国へ苛立ちであり、愛国心の裏返しでもある。

 そう、スコットランドは元々、陸地は繋がってはいるものの、ゲルマン系をルーツとするイングランドとはルーツを別に持つケルト系民族の王国だった。しかし300年前、イングランドに侵攻されて併合されてしまったのだ。故に、未だに独立運動が起きる地域であり、地域性をルーツとするフットボールにおいてはイングランドのプレミアリーグと別に、スコットランドリーグが運営されている。つまり、実質はイギリスという連合国の一部であっても国としての誇りや機能を捨ててはいない。

 レントンはセルティックと同じく、カトリックをルーツとする地元エディンバラのクラブ「ハイバーニアン」の熱狂的なサポーターである。行きずりのセックスの後で"この快感はゲミルのゴール並みだ"というセリフを吐く事からもそれが覗える。そして、それは彼が鬱屈とした内向きな、もっと言うと右翼的な思想を持っている事を示している。カトリックは、スコットランドの土着であり国家独立を支持している宗派だからだ。

 なぜ彼や、彼の仲間たち、そして多くの若者がそのような思想を持つに至ったか。90年代中頃のスコットランドは不景気のどん底にあった。若者は職がなく、窃盗や強盗、ドラッグが横行していた。レントンもその一人だ。そんな現実と未来への絶望の中で、かつてのスコットランド王国人としての誇りだけが彼の自尊心を満たす支えだったのだろうと思う。自分自身には何もないから、せめてルーツを誇ろうと。

 話をフットボールに戻そう。セルティックやハイバーニアンはレントンのような貧困層・ワーキングクラスに支持されているクラブである。一方で、レンジャーズを支持するプロテスタントは国家独立ではなく、あくまでもイングランドやウェールズなどと連帯しイギリス連合の一部として生きる。そういう考え方である。これは宗教の問題でもあるが、それ以上に経済的な理由でもある。だからレンジャーズのファンは自ずと経済活動を活発に行う資本家や中流以上の層になる。

 つまりセルティックとレンジャーズのサポーターの戦いは、宗教戦争であると同時に階級闘争でもあるのだ。カトリックの、王国スコットランドの誇りを背負うセルティックの選手はワーキングクラスの英雄であり、そのゴールは自尊心を満たし、セックスをも超える快感となる。中村俊輔が未だに英雄視される理由はそこにある。

 そして、これこそがダービーだと、おれは思う。別に欧州の真似事をしなくてもいいが、日本の各地で銘打たれる「ダービー」は、それと比べるとあまりにもリスペクト(と敵意)が足りないとも思ってしまう。

 欧州のサッカーの歴史は古い。応援の背景には宗教や政治が関与してくる。それらは純粋にスポーツ文化として見るならば負の遺産、闇の歴史とされがちな事だ。けれども応援を文化とするならば、それこそが最も興味深いトピックであり、学ぶべき事でもあるだろう。

 翻って、日本には宗教対立や階級闘争というものがないから、本当の意味で熱くなる代理戦争のようなダービーは一つもない。おそらくこれからも出てこない。

 けれども、隣県対決以上の意味を持つようなダービー(のようなもの)なら作れると思っている。本場感のあるダービーは無理だとしても、オフィシャルが企画するような仲良しこよしの手ぬるいダービーじゃない、勝ち点以上に得るものも失うものも大きい、何かを懸けるような一戦が。

 例えばダービーではなくても、おれの地元である岡山のサポーターなら岡山県の代表として応援する以上、他所の県には絶対に負けることは許されない。それは岡山という、地元という“宗教” だ。近隣県ならなおさらだ。讃岐に。愛媛に。徳島に。まあ、この辺りは人口も少ないしサポーターも大して多くはないから勝って当然、という気持ちだ。ならば、広島や神戸はどうだ。相手はJ1だ。人口でも上回り、サポーターの人数もそれなりに居る。当然、それでも負ける訳にはいかない。勢いで、声量で、あらゆる面で上回っていかなくてはならない。そうだな?だって“敬虔な岡山教徒”なんだから。相手だって、きっとそう思っているはずだ。

 たまたまサッカーという競技でフェアに決着をつけるだけ。間違っちゃあいけない。サポーターの敵はサポーターだ。試合はともかく、応援では優勝しなければ嘘だ。

 結局、それだけの気持ちを持ってフットボールと向き合うなら、応援文化はつまるところ「ゴール裏」という事になる。ある意味で異端者とも言える熱い気持ちを持った狂信者たちが増える事によって、「応援では勝っていた」と試合後にどこのサポーターもが思わず口走る負け惜しみが、負け惜しみではなくなってくる。

 そうでなければ「ゴール裏の民」である理由がない。別にメインスタンドやバックスタンドで試合を観るような、競技や娯楽としてのフットボールを楽しむ人たちに言っている訳ではない。これは棲み分けの問題だ。誰が来ても構わないし制限するべきでもない。だが「ゴール裏」に居るなら戦うべきだ。チームが劣勢であるとかイケイケであるとか、そんな事は関係ない。

 そういう、一見つまらん意地の積み重ねがダービーの種と糧になっていく。まだ芽も出てはいないが、それは若い人たちに託そう。歴史はそうやって作っていく。10年後、20年後、熱くなれるダービーのようなものが、因縁や文化が生まれているといい。また、それまでの長い間にチームが街に根付くように支える。それがサポーターというものだ。カテゴリーなど何処だって構わないが、決して消滅させてはいけない。

 ダービーとは何か。それは歴史。そして、サポーターが作る空気そのものだ。


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