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目潰しや金的の是非

実は格闘技界隈のXで話題になっていることがある。
目潰しや金的をスパーリングでしていいかどうかということだ。ここでのスパーはマススパーと言って当てない感じの寸止めルールだと思っていただいたらいい。

ことの発端はリー先生主催のスパーリング会で敬天愛人のひと(仮にAさんとする)が目突き(開手での上段)をしたことによるものだ。

元の動画は確認できていないので、僕はなんとも言えないのだが、まぁAさんが目突きに準ずる危ない行為をしたということだろう。単発でジャブのように目突きを使っていたようだ。
ここから目突き論争が始まった。

目突きを容認するか否か

Xで代表同士の考えが発表された。敬天愛人や誰ツヨDOJOy代表の菊野克紀先生とその時のスパーリング会を主催していたリー先生だ。リー先生のことをご存知ない方もおられるかもしれないが、このリー先生というひとはテコンドーの日本代表監督をしていたひとで、多分軍隊にも格闘を教えているか教えていたか。いつものあたおか歯科医師の友人もスパーリング会に参加したことがあり、リー先生と組手をしたことがあると言っていた。
その時の感想が

「踵落としをあんな実践的なコンビネーションに組み込んでいるひと初めて見た。」
「めちゃくちゃ理論立てて組手が構成されていて、しかもその理論を運用できるだけの実力もある。なんとか切り崩そうとやってみたけど、どうにもならなかった。」
「手玉に取られるなどというレベルではない。釈迦の手のひらの上だった。」

とのことだった。
まぁ要するに実績も実力も充分な人物であるということだ。
菊野先生は言わずもがな、UFCに参戦したり、巌流島など格闘技の界隈のひとでは知らないひとがいないぐらい結果を残しているひとだ。
その二人の意見が違ったのだ。

まず菊野先生の言い分としては
あくまで安全な場の空氣(多分あえてこの字を使っている。)を作り、双方の認識、意識、テンションをそろえた上で行うルルブ(菊野先生のグループのスパーみたいなもの)のような稽古は安全で有益で楽しいものである。

自分より体格の良い暴漢に襲われたら一般的なパンチとかキックで倒せるのは一部の素質を持った練習を重ねたひとだけである。

そうでないひとが自分や自分の大切なものを守れないというのはつまらないし、諦めたくない。そのために必要なのが、目つき、金的などの一般的な格闘技で危ないからと禁止されている技である。

相手が目突きや金的をしてきても、複数人でも武器を持っていてもどんな状況でも守りたいものを守れるようになりたい。そしてそれによって心に余裕ができて、冷静になれて、優しくなれる。

そうすると世界が優しく見える。

という主張だ。

そしてリー先生の主張としては、
この度の目潰しの件で様々なご意見を頂戴しております。
目潰しが当たり前の組手を親が子どもに見せたい姿とは思いませんし社会体育として安全に取り組む自信がないので、当会主催のスパーリング交流会では目潰しが標準んお敬天愛人関係者のご参加を都度慎重に検討してゆく次第です。

とのことだった。文章の長さに違いが出てしまったが、菊野先生を優先したとかそういうことではなく、お互いが書いている文章の長さに由来するものと思っていただきたい。なるべく二人の主張を曲げないように要約、リー先生についてはほぼ全文記載した。原文ママではないが、二人の主張は損ねていないと思う。

ここで大事なのは二人の主張はそれぞれどちらが善でどちらが悪とかそういうことではないということだ。菊野先生は武術としての鍛錬を考えて、いかなる状況でも勝てる可能性を考える時に目突きなどは必要である。その練習は普段からすることによって精神的にゆとりができる。というものだ。
リー先生は不特定多数のひとがくるスパーリング会の中で、目突きや金的をありとすると、社会体育として安全が担保できない。というものだ。

二人の主張はそれぞれ正しい。これは対象としている人間の違いだ。
菊野先生は武術として行うもので菊野先生に習いにくるそういうものを求めているひとであり、お互いの了承があり、菊野先生がその場の空氣(あえてこの字)にまで気を使って練習をする。

リー先生は不特定多数の格闘技や武道経験者を集めて行うスパーリング会。お互いの技術や出自もレベルも違う中で目突きや金的ありのルールは安全を担保できない。
ここであえて指摘しておくが、リー先生はおそらく目突きや金的ができない訳ではない。昔にそのような動画も上げておられるし、自分はできる(多分かなり高い水準で運用もできる)けど、あえて認めていないということだ。
目突きや金的が卑怯と言っている訳ではなく、あくまで自分のスパーリング会の運用上危ないと言っておられるのだ。

その後、菊野先生もおっしゃっているが、『ルールは思想である』と。

これは確かにそうで、「ボクシングはなんで蹴らないの?」って言っているようなもので、それぞれの思想の中で戦っているのだ。MMA至上主義の人がいたりもするが、そうなってくるとなんで目をつかないの?、金的しないの?ひいては戦うん前提やったら武器用意しろよということになってくる。どこまでにラインを引くかは思想なのだ。

お互いのそれらを否定するのはそれぞれの神を否定するに等しい。そうなるとお互いの正義のための戦争になる。

正直、僕から見ると菊野先生もリー先生もそれぞれが人格者であり、考えや主張もそれぞれ筋が通っていると思う。

今回の問題は目突きの是非ではなく、AさんがTPOを弁えていなかったというだけのことだ。

リー先生のスパーリング会は基本的なルールは決まっているが、お互いの申し合わせ事項が成立したらかなり自由なルールで戦っていい。そのあたりを弁えなかったAさんの問題であり、菊野先生とかリー先生の目突きの是非はあまり関係ないように思う。

実際、リー先生は敬天愛人のひとを出入り禁止にするとは言っていない。都度慎重に検討していくとしている。要するに融通を効かしてその場所のルールに従ってくれるならいいし、自分のルールを押し付けてくるなら参加しないでねということだと思う。

それはそうだろう。ボクシングジムに来ました。スパーリングします。「なんで蹴りを出したらダメなの?」と言って相手を蹴りました。そんな奴は排除されるだろう。主催者のルールに従うのが妥当だと思う。

逆に敬天愛人の組手会に出て、「目突きなんてひどい!」と言ったところで、「元々そういうルールだけどなぁ」となると思う。

逆にその場のルールを守らずに暴れたならバットでしばかれても文句は言えない。ルールを守らない以上、相手がルールを破っても文句は言えない。

菊野先生もリー先生も目突きや金的が卑怯などとは言っていない。危ないと言っているのだ。これは二人とも意見は一致している。その安全をどこまで了承するのかの問題なのだ。果てしなくリスク0にするならそもそも格闘技なんかできないし、スポーツをしていても死ぬことはある。菊野先生は目に指が触れるぐらいまでは了承する。それぐらい「危ない」という感覚に触れておくのがいざという時に心のゆとりになるし、直感が働きやすくなるという考えだ。
リー先生としてはそこまでのリスクは了承できない。目突きや金的は各々で研究したり了承の上、あぁでもないこうでもないと試行錯誤するぐらいだろう。
ということだと思う。

例えばシステマでは刃引きしていないナイフ、鞭を使うこともあるし、空手でも武器はある。日本拳法やフルコン空手などもガチガチに打撃を当てている。鍛え上げられた拳は下手な武器より危ない。強くなるためにどこまでリスクを取るのか、どういうリスクを取るのか、という問題なのだと思う。

結論としては
・菊野先生もリー先生もそれぞれが正しい。
・今回の問題は目突きや金的の是非ではなく、AさんのTPO意識。
・『ルールは思想』。お互いの思想は尊重すべき。

友人の話を聞いても、今回の声明文を見ても二人ともしっかりした考えのもとそれぞれの立場で格闘技界隈や武道界隈を盛り上げていると思う。
あくまで思想が違うだけでお互いを尊重して格闘技界隈や武道界隈を盛り上げてくれたらいいなと考えている。

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