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本居宣長『玉勝間』(一)からごころ

  ——筑摩書房「 本居宣長 全集」 第一 巻より 

〈本文〉
  漢意(カラゴコロ)とは、漢国のふりを好み、かの国をたふとぶのみをいふにあらず、大かた世の人の、万の事の善悪是非(ヨサアシサ)を論ひ、物の理リをさだめいふたぐひ、すべてみな漢籍(カラブミ)の趣なるをいふ也、さるはからぶみをよみたる人のみ、然るにはあらず、書といふ物一つも見たることなき者までも、同じこと也、そもからぶみをよまぬ人は、さる心にはあるまじきわざなれども、何わざも漢国をよしとして、かれをまねぶ世のならひ、千年にもあまりぬれば、おのづからその意(ココロ)世ノ中にゆきわたりて、人の心の底にそみつきて、つねの地となれる故に、我はからごゝろもたらずと思ひ、これはから意にあらず、当然理(シカアルベキコトワリ)也と思ふことも、なほ漢意をはなれがたきならひぞかし、そも〻人の心は、皇国も外つ国も、ことなることなく、善悪是非(ヨサアシサ)に二つなければ、別に漢意といふこと、あるべくもあらずと思ふは、一わたりさることのやうなれど、然思ふもやがてからごゝろなれば、とにかくに此意は、のぞこりがたき物になむ有ける、人の心の、いづれの国もことなることなきは、本のまごゝろこそあれ、からぶみにいへるおもむきは、皆かの国人のこちたきさかしら心もて、いつはりかざりたる事のみ多ければ、真(マ)心にあらず、かれが是(ヨシ)とする事、実の是にはあらず、非(アシ)とすること、まことの非にあらざるたぐひもおほかれば、善悪是非に二つなしともいふべからず、又当然之理とおもひとりたるすぢも、漢意の当然之理(シカアルベキコトワリ)にこそあれ、実の当然之理にはあらざること多し、大かたこれらの事、古き書の趣をよくえて、漢意といふ物をさとりぬれば、おのづからいとよく分るゝを、おしなべて世の人の心の地、みなから意なるがゆゑに、それをはなれて、さとることの、いとかたきぞかし。

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