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満洲映画協会

 1937年8月に満洲国政府と満鉄が折半出資して設立した特殊会社。正式名称は株式会社満洲映画協会(通称満映)。総務庁弘報処直轄の満洲最大規模の文化機構で、当地における映画の製作、配給と輸出入を独占していた。そのほか、満洲光音工業株式会社、新京音楽団、満洲恒化工業株式会社、満洲音盤配給株式会社、満洲雑誌社などの関連子会社を有した。しかし、満映に課せられた最大の使命は満洲住民に対する宣撫教化という国策遂行を担うことであった。
 満映を考える場合、1937年から39年までを前期とし、1940年から45年までを後期と区分する。前期の理事長金璧東は飾りにすぎない存在で、関東軍および満洲国政府による満映への干渉が強く、満映の撮影所も建築中で、映画製作は軌道に乗っていなかった。後期は理事長に就任した甘粕正彦が関東軍・満洲国政府当局の支持を取り付けて満映を支配した時期であり、資本金も当初の500万円から900万円に増資され、新築された東洋一の規模を標榜するスタジオで日本の映画人と満映が養成した中国映画人の協力で本格的に映画製作を行った。
 前期の満映映画は、宣伝・宣撫の政治色が強く、満洲の風習に馴染んでいない日本人が即効をねらって無理に映画を作ったため、観衆に人気がなかった。また、巡回映写も本格的に行われておらず、期待された宣伝効果を発揮できなかった。後期では、甘粕は満映の機構改革を行い、いわゆる「満人に
よる満人が楽しめる」
映画づくりを試みた。具体的には製作する映画を啓民映画と娯民映画の二つの系列に分けて、宣撫教化の効果を挙げようとした。このような措置によって、満映の劇映画製作は繁盛期を迎え、製作本数が大幅に増加したほか、ジャンルが多様化し、作品の質も向上した。とりわけ、
時代劇は観客の人気を集め、興行成績もよかった。満映が製作した劇映画は、前期17本と後期91本を合わせて全部で108本を数える。また、満映は関東軍・政府・協和会などと連携して、映画館建設、巡回映写網の構築に力を入れ、映画による宣伝宣撫活動を活発に展開した。
 李香蘭(本名山口淑子)は満映が生んだ最大のスターで、当時日中両国で絶大の人気を博した。満映の作品は虚偽性が強い国策宣伝映画で、反満抗日人士は匪賊であり、日本の軍警は大衆の救いの星であるかのように描かれ、日本人の独りよがりの描写が多かった。この点から見ても、満映が文化侵略
の一翼を担ったことは否めない。しかし、満映の8年間にわたる映画製作ならびに巡映活動により、満洲の地に映画文化が浸透し、多くの映画人材が育成されたことも事実である。

[参考文献]
山口猛『分のキネマ満映——甘粕正彦と活動屋群像』(平凡社、1989年)
胡昶・古泉『満映——国策電影面面観』(中華書局、1990年)
山口猛『哀愁の満州映画——満州国に咲いた活動屋たちの世界』(三天書房、2000年)
南龍瑞「『満洲国』における満映の宣撫教化工作」(「アジア経済」五一ノ八、2010年)

—— 二〇世紀満洲歴史事典(南 龍瑞)

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