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「フェアプレイ」はまだ早い——魯迅評論集 (岩波文庫) – 1981/9/16 竹内 好 (編訳)より

一 解題 

 『語絲』の五十七号に林語堂(リンユータン)氏が「フェアプレイ」を説き、この精神は中国にはごく少いから、われわれは勧奨に努めなければならぬ、と述べ、さらに 「水に落ちた犬を打」たぬことを「フェアプレイ」の意義の補足的説明としている。私は英語にうといから、この語のふくむ意味がどうなのか、よくわからないが、もし「水に落ちた犬を打」たぬのが、その精神のあらわれだとすると、私には大いに言い分がある。もっとも、表題に直接「水に落ちた大を打つ」と書かなかったのは、人目に立つのを避けるためであり、つまり、ことさら頭上に「にせの角」を装う必要がないからである。私の言いたいのは、要するに「水に落ちた犬」は、必ずしも打つべからざるものではなく、否、むろ大いに打つべし、というだけのことだ。

二 「水に落ちた犬」に三種類あり、いずれも打つべきものであること

 今日の批評家は、しばしば「死んだ虎を打つ」と「水に落ちた犬を打つ」とを、ならべて取りあげ、いずれも卑怯に近いとしている。私の考えでは「死んだ虎を打つ」のは、臆病者が勇者のまねをすることで、すこぶる滑稽味があり、鬼怯のきらいはないわけではないが、むしろ憎めない卑怯である。ところが「水に落ちた犬を打つ」ほうは、それほど簡単ではない。犬はどんな犬なのか、どうして水に落ちたか、それを見てからでないと決められない。思うに、落ちた原因はほぼ三つである。(一)犬が自分で足をすべらせて落ちた場合。(二)ほかのものが打ち落とした場合。(三)自分が打ち落とした場合。もし前の二者に遭遇して、人の尻馬に乗って打つならば、それはあまりに曲のない話であることは申すまでもないし、あるいは卑怯にさえ近いかもしれない。しかし、もし犬と奮戦して、みずから水中に打ち落としたのであれば、たとい落ちた後から竹竿でめった打ちしようとも、決して非道ではない。前二者の場合と同日には論じられない。
 話にきくと、勇敢な拳闘士は、すでに地に倒れた敵には決して手を加えぬそうである。これはまことに、吾人の模範とすべきことである。ただし、それにはもうひとつ条件がいる、と私は思う。すなわち、敵もまた勇敢な闘士であること、一敗した後は、みずから恥じ悔いて、再び手向いしないか、あるいは堂々と復讐に立ち向ってくること。これなら、むろん、どちらでも悪くない。しかるに犬は、この例を当てはめて、対等の敵と見なすことができない。何となれば、犬はいかに狂い吠えようとも、実際は「道義」などを絶対に解さぬのだから。まして、犬は泳ぎができる。 かならず岸へはい上って、油断していると、まずからだをブルブルッと振って、しずくを人のからだといわず顔といわず一面にはねかけ、しっぽを巻いて逃げ去るにちがいない のである。 しかも、その後になっても、性情は依然として変らない。 愚直な人は、犬が水へ落ちたのを見て、洗礼を受けたものと認め、きっと懺悔するだろう、もう出てきて人に咬みつくことはあるまいと思うのは、とんでもないまちがいである。 
 要するに、**もし人を咬む犬なら、たとい岸にいようとも、あるいは水中にいようとも、すべて打つべき部類だと私は考える。 **

三 狆はことに水中に打ち落としてさらに追い打たねばならぬこと

 狆は「叭児狗(パルコウ)」とも「哈吧狗(ハパコウ)」ともいうが、南方ではこれを西洋犬と呼んでいる。 だが、じつはこれは中国の特産だそうで、万国品評会ではしばしば金牌を受領するということだ。 『エンサイクロペディア・ブリタニカ』の犬の写真のなかには、わが中国の狆が何匹もいる。 これまた国の誉であるわけだ。 ところで、犬と猫とは仇同士ではないか。 しかるに、かれは犬でありながら、猫に酷似している。 折衷、公正、調和、平衡の状掬すべく、悠然として、ほかのものはみな過激で、自分だけが「中庸の道」を得たといいたげな顔である。 これによって富豪、宦官、夫人、令嬢たちに鍾愛せられ、その種は綿々として絶えない。かれの仕事といえば、こざかしい皮毛をもって貴人の飼育を獲得し、内外の女人たちが町へ出かけるおりに、首を細い鎖で結ばれて靴のかかとについてゆくだけのことである。
 この手合いは、まず水のなかへ打ち落とし、さらに追いかけて打つべきである。もし自分で水へ落ちたにしても、追い打ちしていっこう差支えない。ただし、あまりにもお人よしならば、むろん打たなくてもかまわぬが、気の毒がる必要はない。狆にして許せるものなら、ほかの犬は大いに打たぬがよろしい。なぜなら、かれらはいかにも権勢にこびるが、まだ何といっても狼に近いだけに野性を帯び、これほど二股膏薬にはなりきっていないからである。
 以上は、ついでに述べただけであって、本題とはいささか関係が薄いかもしれない。

四 「水に落ちた犬を打」たぬは人の子弟を誤るということ

 要するに、水に落ちた犬を打つべきかどうかは、第一には、かれが岸へ上ってからの態度によって決まる。
 犬の性は、概してあまり変化するものでない。かりに一万年もたてば、現在と変ってくるかもしれないが、私がいま問題とするのは現在のことである。もし水へ落ちた後が可憐だという なら、人を害する動物で、可憐なものはいくらでもある。たとえば、コレラ菌などにしても繁殖は早いが、その性格はじつに真率である。だが医者は、それを決して見放してはおかない。
 いまの官僚と、国産型紳士あるいは西洋型紳士は、自分の気に食わぬものをすべて赤だとか、共産党にしてしまう。民国元年以前はいくらかちがっていた。はじめは康有為(カンヨウウェイ)党だといい、のちには革命党だといって、ひどいときは役所へ密告さえした。むろん、それによって自分の尊栄を保全するためだが、また一面、当時のいわゆる「人血をもって官帽の玉を赤く染める」意味がないわけでもなかった。しかるに、革命はついに勃発した。いばりくさっていた一群の紳士どもは、たちまち喪家の犬のようにしょぼんとなって、辮髪を頭のてっぺんに巻きあげた。そして革命党は、新しい気風——紳士たちが以前深刻に憎悪した新しい気風を発揮して、すこぶる「文明」になった。「成与維新(みなともにこれあらた)」なんだ、われわれは水に落ちた犬は打たぬ、勝手に上ってこい、というわけである。そこで、かれらは上ってきた。民国二年の後半期までひそんでいて、第二革命の際、突如あらわれて衰世凱(ユアンシーカイ)を助け、多くの革命家を咬み殺した。中国はまた一日一日と暗黒に沈み、今に至るまで、遺老はいうに及ばず遺少さえ、うじゃうじゃしている。これすなわち、革命の烈士たちの人のよさ、鬼畜にたいする慈悲が、かれらを繁殖させたのであって、そのため目ざめた青年は、暗黒に反抗するためには、ますます多くの気力と生命とを犠牲に供さねばならなくなったのである。
 秋瑾(チウチン)女史は、密告によって殺されたのだ。革命後しばらくは「女俠」とたたえられたが、今ではもうその名を口にするものも少くなった。革命が起こったとき、かの女の郷里には都督——いまいう督軍とおなじもの——が乗り込んできた。それはかの女の同志でもあった。王金発(ワンチンファー)だ。かれは、かの女を殺害した首謀者をとらえ、密告事件の証拠書類を集めて、その仇を報じようとした。だが結局は、その首謀者を釈放してしまった。というのは、民国になったのだから、おたがいに昔のうらみを洗い立てるべきではない、というのが理由だったらしい。ところが、第二革命の失敗後になって、王金発は袁世凱の走狗のために銃殺された。その有力な関係者に、かれが釈放してやった秋蓮殺害の首謀者があった。
 この男も、いまでは「天寿を全うし」た。しかし、そこに引きつづき跋扈出没するものは、やはりこういった手合いばかりである。だから秋瑾の郷里は、いまでも昔のままで、一年また一年、いささかの進歩もない。この点から見れば、中国の模範とされる都市に人となった楊蔭楡(ヤンインユー)女史と陳西瀅(チェンシーイン)氏は、まことに天下の好運児である。

五 失脚した政客を「水に落ちた犬」と一律に論じてはならぬこと

 「犯さるるもあらがわず」は恕道だ。「眼には眼を、歯には歯を」は直道だ。ところが、中国にもっとも多いのは枉道、つまり、水に落ちた犬を打たずに、逆に犬に咬まれることである。もっともこれは、実直な人がすき好んでばかな目を見るだけのことだが。
 俗に「おとなしいは一名能なし」ということがある。少し薄情なようではあるが、よくよく考えてみると、それは人に悪事をそそのかすことばではなく、たくさん苦い経験をなめたはてに出てきた警句であることがわかる。たとえば、水に落ちた犬は打たぬという説にしても、その成因はふたつある。ひとつは、打つ力がないこと。もうひとつは、類比の錯誤である。前者はしばらく問題外として、後者の錯誤にも二種ある。ひとつは、失脚した政客を水へ落ちた犬と同様に見なす錯誤、もうひとつは、失脚した政客にも善玉と悪玉があるのを見分けられずに一律に見、そのためかえって悪をはびこらす錯誤である。そのことを今日の状態でいうと、政局の不安定のために、起きたかと思うと倒れ、倒れたかと思うとまた起き、まるで車の廻るように交替がはげしい。そして悪人は、権力のうしろ盾があるときには横暴のかぎりをつくすが、一旦失脚すると、たちまち人に憐れみを乞う。そうすると、その咬むところを実地に見るか、あるいは自分がじかに咬まれたことのある実直な人が、それを「水に落ちた犬」と同一視して打つことをやめる。いや、打たぬばかりか、憐れみさえかけようとする。正義はついに勝った、いまこそ侠気を示してやろう、というわけだ。あに図らんや、相手はほんとに水に落ちたのではなくて、巣はとっくに設けてあるし、食糧も十分蓄えてあるのだ。しかも、租界のなかにだ。まれに負傷したように見えることがあっても、実際はそうではなく、びっこの風をよそおって人々の同情を引き、そのすきに悠々と雲隠れしようという寸法なのだ。 いつかまた勢力を盛り返したときには、やっぱり前と同様、実直な人に咬みつくことを手はじめに、ありとあらゆる悪事をはたらくが、その原因は何かといえば、まさに実直な人が「水へ落ちた犬を打」たなかったことに一部はもとづくのだ。 それゆえ、いささか苛酷な言い方をすれば、自分で墓穴を掘っただけのこと、天を怨み人をとがめるのは、まったくの見当ちがいである。

六 今はまだ「フェア」万能ではないこと

 仁人たちは問うかもしれない。 では結局、われわれには「フェアプレイ」は一切無用なのか、と。 私はただちに答えよう。 もちろん必要だ。 だが時期が早すぎる、と。 これすなわち「言い出しっぺ」論法である。 仁人たちはこの論法を採用したがらないかもしれないが、私のほうが筋が通っている。 というのは国産型紳士あるいは西洋型紳士たちは、中国には中国の事情があるから、外国の平等や、自由や、等々のものは中国には適用できぬと、
口ぐせのように言っているではないか。 この「フェアプレイ」もそのひとつだと私は思う。 そうでないとすると、相手がきみに「フェア」でないのに、きみが相手に「フェア」にふるまう結果、自分だけがバカを見てしまって、これでは「フェア」をのぞんで「フェア 」に失敗しただけでなく、かりに不「フェア」をのぞんだとしても不「フェア」に失敗したことになる。 それゆえ「フェア」をのぞむならば、まず相手をよく見て、もし「フェア」を受ける資格のないものであれば、思い切って遠慮せぬほうがよろしい。 相手も「フェア」になってから、はじめて「フェア」を問題にしてもおそくはない。
 これはすこぶる二重道徳を主張するきらいはあるが、やむを得ない。 そうでもしなければ中国には多少ともましな道がなくなってしまうからだ。 中国には、今でもまだたくさんの二重道徳がある。 主人と奴隷にしても、男と女にしても、道徳がみなちがっていて、統一されていない。 もし「水に落ちた犬」と「水に落ちた人」だけを一視同仁にあっかったとしたら、それはあまりに偏した、あまりに早い処置であること、あたかも紳士たちのいわゆる、自由平等は悪いわけではない が、中国では早すぎるというのと同様である。
それゆえ、「フェアプレイ」の精神をあまねく施行したいと思う人は、少くとも前に述べた「水に落ちた犬」が人間の気を帯びるまで待つべきだと私は考える。 むろん、今でも絶対におこなってならない、というのではない。 要するに、前に述べたように、相手を見きわめる必要があるのだ。 のみならず、区別をつける必要があるのだ。 「フェア」は相手次第で施す。 どうして水に落ちたにしろ、相手が人ならば助けるし、犬ならば放っておくし、悪い犬ならば打つ。 **一言にしていえば「党同伐異」**あるのみだ。
 心はどこまでも「婆理(ボーリー)」、口はどこまでも「公理(コンリー)」の紳士諸君の卓論はここでは問題外として、誠実な人がよく口にする公理についてみても、それは今日の中国で、けっして善人を助けることにならず、かえって悪人を保護する結果になる。なぜなら、悪人が志を得て、善人を虐待するときは、たとい公理を叫ぶ人があろうとも、かれは絶対に耳に入れない。叫びはただ叫びだけにおわって、善人は依然として苦しめられる。ところが、なにかの拍子に善人が頭をもたげた場合には、悪人は本来なら水に落ちなければならぬのだが、そのとき、誠実な公理論者は「報復するな」とか「仁想」とか「悪をもって悪に抗する勿れ」とか…...をわめき出す。すると、この時ばかりは単なる叫びでなくて、実際の効果があらわれる。善人は、なるほどそうだと思い、そのため悪人は救われる。だが救われた後は、してやったりと思うだけで、悔悟などするものでない。のみならず、兎のように三つも穴を準備してあるし、人に取り入ることも得意だから、問もなく勢力を盛り返して、前と同様に悪事をはじめる。そのときになって公理論者はもちろん再び大声疾呼するであろうが、今度は耳も貸すものでない。
 もっとも「悪を疾(にく)むこと太(はなは)だ厳」にして「之を操ること急に過ぐ」るのこそ、漢の清流と明の東林とが失敗した原因だといって、批評家はよく非難を浴びせるが、そのくせ、相手のほうが「善を疾むこと仇のごと」くであったことは忘れているのだ。もしこれからも光明と暗黒とが微底的にたたかうことをせず、実直な人が、悪を見のがすのを寛容と思い誤って、いい加減な態度をつづけてゆくならば、今日のような混沌状態は永久につづくだろう。

七 「相手のやり方を相手に適用する」ということ

 中国人は、あるものはの漢方医を信じ、あるものは西洋医を信ずる。ちょっとした都市なら二種類の医者が看板を並べていて、すきなほうを選べる。これは、たしかによい方法だと私は考える。もしこれを拡充することができれば、きっと不平不満がへるにちがいないし、天下太平が実現するかもしれない。たとえば、民国の普通の礼法はお辞儀だが、もしそれではいけないという人がいたら、その人だけには土下座をさせる。民国の法律には笞刑はないが、体刑があったほうがいいという人がいたら、その人が罪を犯したときだけは特別に笞で尻たたく。碗に箸に飯に菜、これが現代人の食事の習慣だが、もし燧人氏以前の原始人になりたいという復古主義者がいたら、その人には生の肉を食ってもらう。さらに草でふいた家を数千軒建てて、いま大邸宅にいて堯舜を景慕している高士どもを引っぱり出して、そのなか住まわせる。物質文明に反対する連中は、むろん、不平たらたら自動車に乗ってもらう必要はない。これこそ「仁を求めて仁を得たり、また何をか怨みん」で、そうなれば私たちの耳もすっかり洗い清められるだろう。
 だが残念なこに、多くの人はそれをしないで、ひたすら己をって人を律したがる。そのため天下が多事になるのだ。 ことに「フェアプレイ」にはその勢害が大きく、極端な場合は、むしろそれが弱点になって、逆に悪勢力にうまい汁を吸わせる結果にもなりかれない。 たとえば、劉百昭(リウパイチャオ)が女子師範大学の学生を暴力で構内から追い出したときには、『現代評論』は屁もひらなかったが、ひとたび女子師範大学が再建されて後、今度は陳西瀅が反対派の女子大学の学生を煽動して校舎を占領させたときは、こういった。 《もしかの女たちが頑張って出て行かないとしたら、どうなる?まさか諸君は、暴力でかの女たちの品物を運び出すわけにもいくまい》殴り、引きずり、そして品物を運び出したのは、劉百昭の先例があることだ。今度にかぎって「わけにもいくまい」なのはなぜか。 それというのも、女子師範大学の側が多少とも「フェア」の気味があることを嗅ぎつけたからだ。 しかしその「フェア」は、すでに弱点に変じて、逆に章士剣(チャンシーチャオ)の「遺沢」を保護することに利用されているのだ。

八 結び

 以上に述べたことは、新と旧、またはその他ふたつの派閥間の争いを刺激し、悪感情を深め、もしくは対立を激化させる、などと懸念する人があるかもしれない。 だが、私はあえて断言する。反改革者の改革者に対するあくどい攻撃は、これまで緩められたことはないし、そのやり方もますます陰険になって、ほとんど極限に達している。 改革者だけがまだ夢を見ていて、いつも損をしているのだ。そのため中国は、いつになっても改革が実現できないのである。今後は、ぜひとも態度なりやり方なりを改めなくてはならない。

  一九二五年十二月二十九日

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