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宮廷生活の幻想 ——天子即神論是非——

折口信夫(昭和二十二年七月「日本歴史」第二巻第三号)

神話と言ふ語は、数年来非常に、用語例をゆるやかにして使はれて来てゐる。戦争中はもとより、戦争前から、既に広漢とした、延長することの出来るだけ、広い意味に使はれてゐた。其は、'なちす・どいつ' の用語をそのま直訳したものであらうが、——さうして、近年の外国語飜訳に屢伴ふ漠然たる訳語から来る、一種の気分的の効果を喜ぶ癖——この神話といふ語も、さうした象徴風な受けとり方がせられてゐる。
私ども、民俗学を研究する者の側から考へると、神話といふ語は頗範囲を限つて使ふべき語となる。普通に使はれてゐるより、更に狭い意義なのだから、其とはよほど違ふのである。神話は神学の基礎である。雑然と統一のない神の物語が、系統づけられて、そこに神話があり、其を基礎として、神学が出来る。神学の為に、神話はあるのである。従つて神学のない所に、神話はない訣である。謂はゞ神学的神話が、学問上にいふ神話なのである。
神代の神話とか神話時代とか、普通謂はれてゐるが、学問上から謂ふ神話は、まだ我が国にはないと謂うてよい。日本には、たゞ神々の物語があるまである。何故かと言へば、日本には神学がないからである。日本には、過去の素朴な宗教精神を組織立て系統づけた神学がなく、更に、神学を要求する日本的な宗教もない。其で自ら、神話もない訣なのである。統一のない、単なる神々の物語は、学問的には、神話とは言はないことにするがよいのである。従つて日本の過去の物語の中からは、神話の材料を見出す事は出来ても、神話そのものは存在しない訣である。
第一次世界戦争の後に、神話と言事を言ひ初めたのが、第二義とも言ふべき近年の用語例を持つた神話と言ふ語の行はれ初めらしい。敗戦の為に、殆すべての歴史的権威が失はれ、破滅してしまうたので、其以外に権威を求めなければならなかったからである。それで、宗教的権威を探し求めた訣である。そこに現実を超越した、歴史以前のある聖なる契約を、思はせるやうな言語が用意せられて来た。其が変った内容を背負つた新語、神話であった。
併しながら、西洋諸国に於いては、一般の宗教的情熱が高く、様々の宗教的様式が繰り返されてゐる為に、宗教の価値はよく訣つてをり、又其を目の前に見せつけられてもゐるので、既成宗教の権威にすがつてものを処理する情熱は、おこつて来ないのである。其は宗教を無視してゐない国でも、同じ事であつた。すると其処で別の力が、求められねばならなかつた。
'どいつ' では、こゝに到つて、おそらく民族の伝統の上に、力を求めようとしたのである。併しそれには、民族生活を調べなければならないので、其為に 'どいつ' は、'ふらんす・いぎりす' の如く、自分の国以上に隆んだつた此学問を取り入れたので、急激に、民俗学に対して、情熱を持つて来た。'どいつ' にとつて其唯一の救ひは、民族の持つ伝統だと言ふことは訣つては来たが、それは謂はゞ、単なる 'どいつ' 精神と呼ぶべきものに過ぎず、民族の伝統の上にあるもの——民族伝統を形づくるもの——は、単にそれだけではなさゝうな気がして来た。其をどう説明したらよいかと苦しんだのである。
民族の伝統の上に感じた、其伝統構成の原動力——超論理的なもの、謂はゞ、一種の想像にも似、又夢にも近かつた、其民族の夢を、神話と言ふ今まであつた語で表さうとしたのである。
従つて、神話の意義は著しく変り、捉へ難いものとなったが、一方、詩的な文学的な気分を十分に持つて来たのである。結局 'どいつ' は民族の英雄精神を信じようとした。そして其英雄精神に、神話の色彩を持たせようとした。そこに 'なちす' の学問が、神話を振り廻す理由があつた。
ほんたうは、神話的に存在する英雄精神は、民間の一個の英雄において考へるべきではなかつたのである。西洋には、さうした英雄精神の具現者として、過ぎし世の羅馬法王があった。此、羅馬法王的なものが、神話的な存在として考へられ、威力の源・敬虔の泉であった。併し現実においては欧洲諸国は、羅馬法王の為に、苦しみ悶えた久しい経験を持つてゐる。だから当然、さうであるべき筈の「神話」の対象に据ゑることは出来なかつた。それで、民族の陣頭に立つて、自らを神として立ち裁いて行く人自体を、神話的存在と考へるやうに傾いて行つた。かうなると、単なる一つの生身信仰である。'なちす' の民俗学は、研究の方法も行き詰り、研究の結果も徒労になつてしまった様な形をとつた。
此点に於いては、日本にも十分反省せねばならぬものがある。
前に言つた様に、日本には、正確な意味に於いての神話はないと言つてよい。併し、常識風の言ひ方における神話、又 'なちす' 流の表現としての神話は、考へられる。
一体日本に於いて、所謂神話的英雄を、どう言ふ考へ方に置いてゐたかと言ふと、一部は確かにある。日本武尊などは、其に当るというてよい。民族の伝統の上に、理想——と言ふより空想をかけた——さうして、多くの文学的色彩をおびたものである。我々の代にはもはや書かれた以外の資料は全然痕形もなくなつてゐるので、日本の神話的英雄は、非常に文学的な要素が多く書かれざる詩の姿を持つて、われ/\の前に立つてゐる。其点は、'なちす'が持つた現世の英雄神話とは違ふ。
かう言ぶ様な意味で書かれてゐる過去の神話上の英雄はあるが、併し記録の上に書かれてあるものは極僅かであつて、其を心の中に入れて、日本武尊の詩を画いて、其処に神話を見出してゐる。
併しさう言ふ神話は、何の意味もない。'どいつ' に於いても何の意味もなかつた。謂はゞ、文学的幻影として過ぎ去つたのであつて、民族生活の上では、何の意味もないことになる。
けれども、立ち場を変へて、羅馬法王を神話的存在として考へた場合は、どうであらうか。譬ひどう言ふ立ち場から見るにしても、長い過去における伝統的な考へ、それを衡にかけ、手にのせて、その重さを十分に、感じてかゝらなければならぬ。議論はそれからなのである。
翻つて、我々の中には、天子を神話的な意味において考へようとしてゐる者が沢山ある。比は大いに考へる必要がある。天子と神話との関係を考へて見たいと思ふ理由である。
此問題を、私が考へようとするには、相応の理由がある。それは我々は国文学を専攻してゐる者である。国文学が、ある目的を持つて来ると、国学と謂はれる学問になる。そして国学者は、其研究に倫理的な目的を持ち、道徳の問題に進まうとする。さうなると、それまで土台になつてゐた国文学の、純文学的な方面は、問題にならなくなつてしまふ。
天子に関して、長い年代をとほして考へて来た事は、我々の天子は神である、生き神様だと言ふことである。併し、此事は、常識では此傾向の考へが続いて来たやうであるが、実証的なものを欠いてゐた。さうして、古代に於いてさうであつたと考へるのではなく、現在さうであるといふ比喩的な尊敬観であったと言へる。其が古代的に確実性を持つたものとして、主張せられ出したのは、幕末から維新へかけての国学者たちの間からであつた。其以前は、唯近代的な素朴な生き神観が行はれてゐたに過ぎない。だから以前の国学者は其を言つてはゐない。之を揚言したのは平田系統の国学者である。時代は、総ての歴史、又は歴史としての理会におくことの出来るものを、すべて世の中の飛躍の助けにしょう、と言ふ時代であった。即、所謂'なちす'流の神話を切望した時代であつた。其為に、急速に天子即神論が成立したのである。
その為の資料としては、国文学上のものが用ゐられた。宣命も、歌も皆、即神論に役立ち、あらた代の神話は描かれて行つた。国文学に携る者には、学問上、責任は大いにある訣なのである。だから国学の基礎になつてゐる国文学の上で、天子即神論の当つてゐるか居ないかを考へてみるのは、伝統上からせねばならぬ責任がある訣である。
天子即神論は、国文学上に、正しい根拠あつて主張せられたものか、其を明らかにすることは我々の学問の方法の正しさを示す事にもなるのである。
第一に、天子即神論の常識的根拠を形づくつてゐる語として、近代まで生きてゐた「あらひと神」といふ語である。此は生神といふ語の一つ前の国語で、近代に廃語になったばかりのやうな気のする語である。だが存外、使用の歴史は古かつた。唯一つの語形を長く用ゐて、内容は大いに変化したものと見ることが出来るのである。
此語に就いて、問題のおこつた事がある。今はおなじ夢と過ぎた満洲国に使した或文学者が、かの国の皇帝を現人神と書いた賀表を草した。ところが大いに非難を受けた。此語は日本の天子を申す語なのだから、さうした使ひ方は不都合だ、とする意見が強かつた。
併し考へると、此語を天子の御人格を表す為に用ゐた確かな例はない。少し其と思ひ紛れさうな例はあるが、正確には使つた例がない。此間違ひは寧、普通人は正しい用語例を保つてゐたのに、学者の方が間違つて言ひ出したのである。
学者でない人ならば、必、天子の事を申したと信じさうな例は、日本紀、景行四十年紀にある。日本武尊、東国入りの時、蝦夷の国神、島神が、

君が容の人倫に秀れたるを仰ぎ視て、若し神ならむか。姓名を知らまく欲りす。王対へて日はく、吾是現人神之子也。是に於いて、蝦夷等、悉く懐く。

とあるのが、其である。ところが同じ日本紀でも、雄略四年紀にあるのは、大分様子が変つてゐる。

二月、天皇葛城山に狩猟す。忽長人の来りて丹谷を望むを見る。面貌容儀天皇に相似たり。天皇是神なるを知り、猶故らに問ひて日はく何処の公ぞ。長人対へて日く、現人之神。まづ王の諱を称へば、然後応に道ふべし。

第一は現人神を「天子即神」とすることが出来るも、第二例では、天子御自身に関りのないことである。天子であると、天子でないとに繋りのない、ある種の神性を表す語だつたのである。
雄略天皇に答へ申した長人の語は、天子のお詞を学んだのではない。「現人之神」といふ語に別義があることを示してゐる。人間身を示現して、人の目にふれる神をいふので、ある時代において、最威力ある者と見たのである。即、長人は、自分が人間身を現じた葛城の神なることを誇りかにいふのである。少くとも天子を意味する語ではない。神の表現の一形式である。だから、日本武尊の「現人神の子なり」といはれたのも、威力ある人間身を持つ神の子と言うて、天子を現人神に譬へて、賊人を威嚇せられたものと見るべきである。万葉巻六には、「住吉乃荒人神、船の舳にうしはきたまひ……」(1020・1021)とある。此も船神として、人間身を示現して、船を守りなされると考へたのである。今も船霊信仰はあることである。
平安朝の気分のある時代には、住吉は勿論北野にも、石清水にも此語を用ゐて、天子にかゝはりなく、其社の神を表してゐる。大鏡には、

菅原のおとゞ、… 北野に数多の松を生さしめ給ひて、渡り住み給ふをこそは、唯今の北野ノ宮と申して、あら人神におはしますめれ。

とある。此などは、後世の解釈は、荒の方に傾いて、荒神と感じてゐるところもある様だが、やはり天満宮の現形あることを言うたのである。
袖中抄には、

顕昭いふ。あら人神とは、まさしき人の、神となれるを申すべきにや

後拾遺には、八幡に寄せたてまつる歌、

すべらぎも、あらひと神もなごむまで、鳴きける森の時鳥かな(巻十七、九九九)

顕昭は、人が神となつたのが其だと言うてゐるが、此は合理観である。神が時あつて、人間身を現ずる——さうした威力ある神である。人間で神になつたものでもない。又神が一時、人間界に生れて人間として居るといふのでもない。
現人神は、右の如く、高い神には備つてゐる一つの神格の名であつた。だから、天子よりも却て天子に対して、現人神といふ名のりをあげた神があった程なのである。天子の場合、現人神の神格を以て比喩表現したものと見てよい訣である。恐らく威風堂々たる軍旅の中に、稜威あたりを払ふさまを、現人神にして、其神の子なるものと言はれたのだらう。現人神は、生き神ではない。神、時に人間身を以て出現し来り、人に接するのである。抽象的な神としては救はれない、抽象的といふ程抽象化して考へぬ古代でも、神は姿を持たぬものと考へてゐた。目に見える人間に近い感情をも予期することの出来る、具体化された神を翹望し、さうした神の示現を信じるやうになつてゐたのである。
つまり、昔の人が解釈法を誤つた為に、いつか、常に天子に結びつけて感じ申す様になつたのである。此誤解の責任は我々にある。
生き神と言ふ事と、現人神とは違ふのである。現人神は、神自体が、時に人身を現ずるのである。此様に、天子ならぬ神に就いて使った例は明らかで、天子に当る例は頗明らかでないのである。此は我々及び我々の先輩の、不詮索・不用意から来てゐる。
第二に、現御神・明御神・明津神・明神など書く、「あきつかみ」系統の語の説明をして見よう。実際のことを言ふと、まことは意義が明らかでない。神道の用語を使へば、幽界(カクリヨ)の幽身(カクリミ)に対して、顕界(ウツシヨ)の現身(ウツシミ)を持った神と言ふ義らしく思はれてゐる。だがまだ、語からは、さうした説明はついてゐないのである。使ひ方は生き神の事に使つてゐる様子なので、近代の人は、天子即神論の出発点の一つにしてゐる。
あきつといふ語が、私には訣らぬ。あきは明ではない。さうすれば、が訣らぬ。あきつが動詞とすれば、さういふ動詞が見つからぬ。に当る領格の助辞と見るのも、正しくない。明神(アキカミ)、あきらかみと言ふのを、あきかみと言ふ法はない。今までのところは現神・現御神、明津神など書いて、訓み方だけは訣つて意義不明の語である。だから、字面の現御神や、明津神から、天子即神論を解決しようとするのは無理である。
  明神御大八州日本根子天皇勅(アキツカミトシロシメスオホヤシマグニヤマトネコスメラガオホミコト)
といふ風な宣命系統の表現は、祝詞にも継がれてゐる。が、此は天子の最荘重なる御名宣りの形であつた。だから「あきつみかみ」といふ表現が、一つの称号の様に感じられて来た。宮廷の最重んずべき儀式なる大事には、明神大八州天皇詔旨と名宣って、みことのりを下された。大八州国を治めたまふことは、あきつ神の資格においてせられることを明言遊されたのである。
  明神御宇日本天皇詔旨(アキカミシロシメスオホヤマトスメラガオホミコト)
  明神御宇天皇詔旨(アキカミトシロシメススメラガオホミコト)
此等も重大な、外蕃に対する詔旨であるが、やはり、大日本国を治め(形式上簡略にしたのが、後者である)られる御資格を宣り給ふのである。
この詔旨の習慣によつて、臣下から、天子を「あきつかみ」と申す風も出来た。「明津神吾皇之天の下八しまの中に」(万葉集巻六、1050)。かう言ふ例は、皆詔旨から出たものであるが、讃め詞としての意義を持つてゐるらしい。従来の解釈では、あきつ神を、前に述べた様に説いてゐるし、延長して言へば、あらはな神、生き神、肉体を持つた神、かう言ふ風に訳してもよい様に見える。ところが、必しも古人が然感じ、我々が受け継いだ語感どほりの意義が、比語にあったかどうかは訣らぬ。文字は、「明」「現」などを宛てゝゐるが、其も真実を得てゐるかどうか知れぬ
唯、「と」は「として」であるか、「ごとく」であるか、確かでないが、聖なる御資格を宣り給ふことには違ひない。さうすると、明神・現神そのものではない。......神の位に於いて言ふことになるので、神自体だとは、御宣りになつたのではない。又、若しあきつ神あきつが、古来の解釈どほりなら、神とあきつ神とは別なのである。つまり神と認められる人、今や神の位に立つ人といふことになるのだらう。
此神旨から出た天子御自身のお名宣りの「あきつ神と」は、二重に、神そのものでないことを、下に持つた表現になつて来る。
古い習慣によつて行はれた祭りには、現実に神が出現するものと感じようとした。まことに神を目に見ようとする欲望から、神の姿になつた人が出て来る。宮廷の場合に限らず、社々では、さうした神聖な祭りを近代まで行つて来た。さうして何時か其は神であることを忘れて、神事を執行する人といふ自覚を持つて来る。神と神人との関係が、神人自身には訣って居るのだから、かういふ正しい混乱が起るのである。
神人の座長の人を神主と言ふ。つまり、主座の神、正座に居る神の意である。此神主と言ふ語の方が、現つ神と言ふよりは寧、即神観を明らかに示してゐる。祭りの間は、神の資格を以て、神の代りに祭りを饗ける人がなくてはならぬ。其神役をする者が神人たちであり、その主となる人が、神主である。どこまでも神の資格に於いてなのである。祭りの興奮において、皆神と、感じてゐるが、長老たちは之を傍視してゐる。神人及び神人の長として位置は明らかに知られてゐた。だが、一時的には自他共に神と感じてゐる。けれども唯其祭りの間だけである。この興奮を、神の感覚を以て表すことは、祭場ぎりに過ぎる。後はやはり、経験を積んだ長老の見るとほり、初めから終りまで神人であつたといふ散文的な気分に還る。永続して神なる人を考へることは、古代にもなかつたのである。
ところが、宮廷に於いては、既に奈良朝以前に、宮廷の祭りには天子以外に神主が出来てゐる。中臣・斎部の族長(ウチノカミ)なる人が、之を勤める事になつて、天子は最重大な祭りの外は与られぬことになつた。中臣・斎部両氏の神主の出来たことは、天子と神との間に隔りの出来たことを示すもので、即神・非即神の問題などは、風くに消えてゐるのである。
天子即神論からすれば、神主と言ふ語が寧肝心であって、それに次いでは、現神である。併し現神は、語自身、神だとは言つてゐないのであつて、初めから神に修飾がついてゐる語である。
天子即神論のまう一つの有力な根拠になる筈の信仰は、神ながらと言ふ語に含まれた考へである。此もどう言ふ語かよく訣らないで世間は解釈してゐる。古文献でも、実に用語例がまち/\になつて居て、疑はしいものである。「神ながらの道」と言ふ語も、神から伝つてゐる道、神の意志のまゝの道を意味し、それが所謂神道だ、と言つてゐるが、さう言ふ意味は一个処もなく、又「神ながらの道」と言ふ、厳格な用例もない。
この神ながらと言ふ古代語などは、注意を深めて見ると、古代信仰の種々の様相が実に、はつきりと浮んで来る。惟神・随神の字面(孝徳大化三年紀)などが問題になり、「神ながらの道」といふ語が、如何にも、昔から放すことの出来ぬ語形のやうに思はれて来てゐる。が、其等は皆、此語の歴史から見れば、末の分化である。又、神ながらの道を以て、自然神道或は、自然に神の意志があつて、そこに道がある様に考へ、遂に道徳・文化などの意義を考へて、此語を無制限に拡充して、大いに価値を高めたのはよいが、原義とはまるで交渉のないものとしてしまうたばかりか、その第一義をすら忘れて、捕捉出来ぬものにしてしまうてゐる。
神ながらといふ語は、日本紀よりも何よりも、更に古い源泉から出てゐるのだ。今存する宣命の最古い文武紀のものにも、既に此語は見えてゐるが、さうした記録を存せぬ古い宣命——宣命とすら申さなかつた古代のみことのりから伝った、重要な用語であつたのだ。常に念(オモ)ほしめすといふ語を伴うて「神ながら念ほしめす」とあり、宣命の中でも、重大な宣命には、此用語が必挿入せられてゐる。つまり、此考へは、「我が考へならず、神念ほしめすまゝに、然思ふなり」といふ風の表現である。天子御自身の思惟でなく、神の思はしめる所の考へであり、その思惟から出た行動であるといふことになる。

天の下の公民(オホミタカラ)を、恵み給ひ、撫で給はむとなも、随神所思行<佐久止> (おもほしめさくと)詔る天皇が大命を…… (続日本紀文武元年紀)
食国(ヲスクニ)天下をば、撫でたまはむとなも、神奈我良<母>念坐<須>(同じく聖武天平勝宝元年紀)

天子は神だから、神としての意志を以てかう考へる、と説明してゐる。私などは、久しくさう考へて来たのであつた。 ほんたうは、此は自分が言ふ事で、同時に神の言ふ事だと仰せられてゐるので、ながらは、二つ の動作が併行してある時、どつちにか主がある場合 に使ふ語である。神が思ふのと併行して、天子なる咲が思つてゐる、と言うてゐられるのである。
勿論此語も、使ふ人によつて、——代々の宣命を起草した人の解釈次第で、使ひ方が変つて行かないでは居ぬが、神の意志と同じし様に俺はかう思ふ、と言ふ事で、神そのものとは、古い神ながらの用語例にも見えない。「俺の言ふ事は神の言ふ事だと思つたらよからう」と言ふ位に釈くべきであらう。従つて神ながらと言ふ語でも、天子即神論は解決しない
以上に挙げた様な材料で、此が誤解をかさね、更に明治維新の折に、急速に解決したのが、天子即神論であつた。だからどうしてもあわたゞしい結論が出てゐる。
併し古く天子が神として現れた事はあつた。そして其と同時に、文学の類型として文学の作物の上に現れた、さう言ふ考へがある。万葉集巻三に、人麻呂の作物として伝へた短歌に、
  大君は神にしませば、天雲の雷が上に、廬せるかも(ニ三五)
天子は神であるからして、雷の丘陵の上に廬を拵へてゐられる。天雲のは所謂枕詞。は雷の丘を暗示してゐる。雷の丘は実在の地名である。極度に興味が昂揚した時に、雷の上と言つて、感じられる語のあやを楽しんでゐる。よく考へてみれば、雷の丘は実際のものなのだから、其上に廬する事も出来る訣だが、さう言つてしまつては文学と言ふものはなくなつてしまふ。さう言ふ言ひ方が、文学の価値ではないが、一種の誇張である。神でなくてはこんな事は出来ない、と言つてゐるのである。
語通りにとれば、天子は神だからと言つてゐるのだから、天子即神観が、真実に行はれてゐたといふ論拠になりさうであるが、此も、神でない天子が、神でなくては出来ぬことをなさるといふ、驚嘆するやうな表現法をとつてゐる訣である。

大君は神にしませば、赤駒の制ふ田居を 都となしつ(万葉集巻十九、四二六〇)
大君は神にしませば、真木の立つ 荒山中に、海をなすかも(同巻三、二四一)

二つとも天子の徳を讃美した歌である。赤い馬が腹這ってゐた田圃を、一度に都にしてしまはれた、それは天子が神だからだ。建築用材の立ち繁つてゐる荒い、歩かれぬ山の中に、一遍に海が出来た、其は天子が神だからだ。(うみと言ふのは、海ばかりでなく池や沼など、すべて大きい水面を持つ
地形にいふ。)此「大君は神にしませば」と言ふ歌の類は沢山ある。此を以て、天子が神だと信ぜられた証拠であると、昔の学者も、今の学者も考へて来たし、今も、あなたたちはさう考へてゐられるであらう。併しさう考へることは、比等の歌の文学としての価値を薄くすることになる。昔びとの持つ讃美と、驚異と誇張との関係を、しみ/˝\考へて見るべきである。文学としての此等の作物の価値は、自らそこにあるのである。
かう言ふ、天子の徳を讃美する形がか、飛鳥・藤原朝で盛んになつて来た。宮廷に於ける肆宴、或は行幸などに従うた時行はれる饗宴、さういふ時に、讃頌の歌が献られた。
さう言ふ儀式の盛行は、支那文化模倣から来た風習であるが、さうした宮廷の饗宴の時の詩人の作物も、数多く伝つてゐる。さう言ふ作物は、其揚々々の間に合せのものではない。やはり相当な情熱の昂揚が見られる。詩も歌も、美しいものがか出来て、当代の文化の印象をはなやかにしてゐる。
場合々々に応じて、情熱は出来るだけ発露してゐる。従つてかう言ふ場合のものが、単に形式的のものに過ぎないとは、一概には言はれぬのである。
「大君は神にしませば」と言ふ型は、きまつてゐた。そして第三句以下をつけて行くのである。其は難しいと思ふかもしれないが、実際は作り易い。初めから作るのでは、興趣が湧きにくゝて、切り出し方に困る場合が多いが、類型できまつた語があると、後は楽だ。大君は神にしませば、と歌つてゐる中に、思案は纏つて来る。さう言ふ風に、三十一文字の中、十二字も済んでしまふが、それを言つてある中に、感情が少しづゝ動いて来て、自分の文学の向ふ方向がきまつて来る。そして、ぴたりとしたものが出来て来る。それで、昔の類型的文学は、作るのに易しかつたのである。
饗宴に於いて、天子を讃美する歌の類型として、「大君は神にしませば」があったのであるが、宮廷詩人として、さう言ふ歌の旨かったのが、人麻呂であつた。謂はゞ、窮屈な思ひを抒べる時に、それが自由に出て来た人であつた。それで人麻呂は名高い人となった。さう言ふ種類の歌は、人麻呂が中心になつてゐるのである。
此種の歌の、天子は神だからと言ふのは、天子がほんたうの神なら、不思議はないので、何も取り立て入言ふ事はないのである。既にわれ/\の様な、人間でいらせられることは、明らかに知つてゐるのであって、人間でゐながらこんな事が、お出来なさる、と言つてゐる訣だ。神だからかうしてゐる、と言ふのなら、平凡だ。謂はゞ、過去の神話を現実に押しあてゝ、成程とうなづける事を歌に作つてゐる。天子は神だからと言ふ事を、真向から歌ってゐるのではない。天子は人間だが、こんな事をなさる、と言ふ一つの証明法を文学の上で用ゐて、其を列座の人の興奮を誘ふ中心に置いたのである。それを、天子が神である証拠立てに、第三句以下の事を言つてゐるととるやうでは、余りに考へが、単純すぎる。それでは古代文学の味は訣らない。古代の文学は、さう言ふ処に価値を置かなくてはならぬのである。殊に歌は散文ではなくて、陰翳の多い、刻みの多い律文なのである。従つて、「大君は神にしませば……」と言ふ歌では、天子即神論は証明出来ない。それ処か、当時既に天子が遠く神から遠ざかつてゐられた事を、人民も、とりわけ宮廷の人が一番よく知つて居たのである。「こんな処を見ると、やはりあなたさまは、大昔通り、神様ですね」と言ふ位の気持ちで、神としての生活が既に去つて後に、同じものを感じさせる、と言ぶ事であるが、実は其処までは感じてみない。文学の力で、其処までのぼつた、と言ぶだけの事だ。
田圃を都としても、荒山の中に海を作つても、又雷の背中に廬しても、それは別に神である訣ではなくて、やかましく言へば、一種の語の上の酒落だけである。従つて此等の歌を以て天子即神論の証明にしてはならない。「こんな素晴しい事が出来るのだから、あなたはやつばり、神話上の人としての威力を持っておいでゞすね」と讃へてゐるのである。其讃めてゐる心にも、天子即神論を考へてゐるのではない。天子が現実の人間でいらつしゃる事を信じてゐて、文学の力で、そのすばらしい夢にまで、我々の心を持つて行くのである。饗宴の折の宮廷を朗らかにし、天子の心を充ち足一らはせようとしてゐる。其処に、昔の文学の面白味もある。単に昔の文学を、昔だから素朴だとする様な理論は役に立たない。

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飛鳥・藤原の頃には、既に天子即神信仰は、伝承詞章や宮廷儀礼に俤を残してゐるだけになつてゐた。宮廷自身においても其信仰を保つて行かうと言ふ情熱はなかつたと見られる。唯古代の夢の様に過ぎ去つた印象が、古典感を唆る儀礼・詞章の端に残つて、もう現実には見ることは出来なくなつてゐた。
江戸に到つて、急速に国を対象とする学問が開け、進んで来た。さうして何かにつけて、外来の学に対する争闘心や、批判欲が高まつて来た。其が昂じると、我が国を中枢とする学問の建設に執する風が起つて来て、反省深い学風は、段々見られなくなつた。
傑れた学者は、その間にも、心を潜めてよい研究を、国学の上に積んで居るのに、一方にきめのこまかさを失うた、荒つぼい学問が風靡する時になつた。そして、あらひと神・現御神・神ながら・「大君は神にしませば」などが、根拠になつてゐるといへば言へる天子即神論が成立したのであるが、 其等は、右に述べて来た様に、非即神論の証拠にはなつても、御方にはなるものではなかったのである。
却つて、神と人との関係を、もつとはつきりと天子の上に考へはじめて居たのが、明治から後の学風であつた。ところが、数度の戦争の間に、天子即神論が栄えはじめたのである。つまり、常にはさまでもないのに、民族的昂奮の時に、外的な力が、生き神説をあわたゞしく唆り立てようとするのであつた。我々歴史態度を守る者は、どんな事でも、純なる情熱を守り、潔い昔の意味を其まゝ考へ続けなければならぬのである。天子即神論の、この数年間の勢ひは其だけの内容を持つてゐるか疑はしめるものがあつた。其為に、今日に到つては、宮廷のわざはひとなつてしまつたのである。
即、学者及び非学者の認識が深くなかつたのだし、又研究法にも、あやまりが重つて来てゐたのだ。こゝにして思ふ。文学にかゝはり深き学者が、特に神経を繊細に持つことが大事だつたのだといふことを。
私は、神話と言ふ語の用語例を中心として、天子即神論に対して或解決をつけたつもりである。天子は羅馬法王の様な存在か、或は何も障得がなかつたなら、天子即神論のまゝ続いて行く事が出来たであらうか。実は天子即神論は成り立たないのである。その事は、既に歴史上で解決がついてゐて、飛鳥・藤原の頃から、天子は正に人間であらせられると言ふ事が、殆、露はに、宮廷用語の上に、又は伝承詞章の上に、明々白々と顕れてゐるのである。更にもつとはつきりと、文学の上にも出て来たのである。
さうして、其詞章も、文学もみな固定した。そこに数百年後、之が解釈をしようといふ段になつて、詞章・文学自身の持つ意義と関係の薄れた解釈が成立するやうになつた。つまり、凡庸な世俗の言ひ習し・考へ癖に、古代言語を入れて説明して来た。そこに生き神説は成り立ち、天子即神論が恰も永遠に等しい長い年代に様相をかへることなく続いて来た様に、人をして感ぜしめることになったのである。

底本:折口信夫全集 20(1996年10月10日初版発行、中央公論社)

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