満蒙特殊権益論
日露戦争の結果、日本が満洲に権益を確保して以降、その権益の維持または拡張を求める際に主張されたが、主唱者によってとらえ方が異なり、統一した共通概念がない曖昧なものであった。
当初は、関東州の租借期限(1923年満了)の延長と安全保障面からの朝鮮半島支配の強化を目的として、獲得したばかりの南満洲での権益充実を唱える性格が強かったが(山県有朋「第二対清政策」1909年)、韓国併合による朝鮮半島支配の確立、第二次日露協約よる南北満洲の利益範囲の強化、さらには辛亥革命による中国情勢の流動化を受けて権益拡大論が盛んになる。とくに第三次日露協約(1912年)による内モンゴルの東西分割の結果、日本では南満洲に隣接する東部内モンゴルを含めた「満蒙」という造語が生まれ、対象とする地域概念も拡大された。
こうした流れのなかで「満蒙五鉄道協約」に始まり、対華二十一ヵ条要求による関東州租借・満鉄経営の期限延長および特殊権益の根幹ともいえる土地商租権の獲得、西原借款による鉄道敷設権などによって権益の拡大がはかられた。具体的な満蒙特殊権益は、このような1910年代になかば強引に獲得されたものが中心である。しかし、第一次世界大戦後のワシントン体制下で帝国主義的権益拡張が否定されて米国の影響力が拡大し、ロシア革命による北満洲でのロシア勢力の消滅、さらには中国での国民革命の進展と国権回復運動の盛り上がりによって、1910年代に獲得した権益はほとんど実現されず、逆に満鉄など既存の権益が脅かされるようになった。
こうしたなかで、満蒙特殊権益論は、日露戦争による「十万の生霊と二十万の国帑」(松岡洋右)の代償として満蒙と日本は不可分といった観念的要素が強まり、さらには満洲は中国ではないという満洲の特殊性を強調する主張へと繋がっていった。そうしたなかで、石原莞爾のような満蒙領有論が導き出され、満洲事変の思想的背景となっていく。
[参考文献]
松岡洋右『動く満蒙』(先進社、1931年)
信夫淳平『満蒙特殊権益論』(日本評論社、1932年)
中見立夫「地域概念の政治性」(溝口雄三・浜下武志・平石直昭・宮嶋博史編『交錯するアジア』所収、東京大学出版会、1993年)
—— 二〇世紀満洲歴史事典(加藤 聖文)
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