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朝鮮獨立黨の處刑 ——福澤諭吉

朝鮮獨立黨の處刑(前編)

强者は力を恃て粗暴なり、粗暴なるが故に能く人を殺す、弱者は文を重んして沈深なり、沈深なるが故に人を害する事少なしとは一寸考へたる所にて成るほど左る事もあらん歟(ヤ) と思はるれとも實際に於ては决して然らずして却て正しく其反對を見るを常とす。抑(ソモソモ) 社會の人類を平均して其强弱如何を比較するときは、强者は少數にして弱者は多數なる事、他の智愚賢不肖貧富等の比例に異ならず、愚者貧者の多數なるが如く弱者の多數なるは掩ふ可らざるの事實なり。扨(サテ) 强者の本色は如何なるものぞと尋るに、强き者に敵して勝ち難きに勝つを勉め、苟も己が眼下に在りて制御の自在なる者とあれば敵にても味方にても之を害するの念は甚た薄きのみならず、時としては己が眼下に在りて制御の自在なる者とあれば敵にても味方にても之を害するの念は甚た薄きのみならず、時としては己が快樂を缺きても弱敵を助けんとするもの多し。故に强者の敵する所の相手は常に社會中の少數にして、仮令ひ之を殺せばとて其害の及ふ所决して廣からず、蓋し之を殺すの術なきに非ざれとも之を殺すを要せざるなり、容易に殺すの術あるが故に殺す事を急かざるものなり。之に反して文弱なる者は、其心事仮令ひ沈深なるも力に於ては己が制御の下に在るもの甚だ少なきが故に、苟も人を殺すの機會さへありて自身を禍するの恐なきときは之を殺して憚る所ある事なし。蓋し弱者必ずしも人を殺すを好むに非ざれとも自家に恃む所のものなきが故に、機に乘して怨恨を晴らし、且つは後難を恐るゝの念深くして、一時に禍根を斷たんとするが爲に慘状を呈するものなり。古代の歴史を閲して所謂英雄豪傑なる者の所業を見るに、軍事にも政事にも動もすれば人を殺して殆と飽く事を知らざるものゝ如し。甚しきは無辜の婦人小兒までも屠戮して憚る所なき其有樣は古人の武斷甚た剛毅なるに似たれとも、内實に就て之を視察すれば决して其人の强きが爲には非ずして、却て弱きが爲に然るものなりと斷定せざるを得ず。不開化の世の中に人を制するの方便も乏しければ、一旦の機會に乘して他に勝つときは其機を空うせずして殺戮を逞うし、一は以て一時の愉快を取り、一は以て禍根を斷絶して永年の安樂を偸まんとするの臆病心より出るものなり。往古歴山王が戰爭に幾萬人の敵を殺したりと云ひ、日本の源平の爭に勝つ者は敵の小兒までも刑に處したるが如き、其事例として見る可きものなり。歴山王と源平の諸將と甚だ勇なるが如くなれとも、其實は敵を縱(ホシイママニ) して複た之を伏するの覺悟なきが爲に斯る鄙怯の擧動して殘酷に陷りたるものと知る可し。

世の文明開化は人を文に導くと云ふと雖とも、文運の進むに兼て武術も亦進歩し人を制し人を殺すの方便に富むが故に、治乱の際仮令ひ屠戮を逞うす可きの機會あるも、時の事情に要用なる外は毒害の區域を廣くする事なし。例へば戰爭に降りたる者を殺さず國事犯に常事犯に罪は唯一身に止まりて、父母妻子に及はざるのみか其家の財産さへ沒入せらるゝことは甚た稀なり。例へば近年我國西南の役に國事犯の統領西郷南洲翁の如き其罪は、唯翁一人の罪にして妻子兄弟の累を爲さず。今の參議西郷伯は現に骨肉の弟なれとも日本國中に之を怪しむ者なし。蓋し我政府が南洲翁の罪を窮めて殺戮を逞うせざるは政府の力の足らざるに非ず、其實は文明の武力能く天下を制するに餘りありて、西南の變乱再ひ起るも復た之を征服す可きの覺悟あればなり。一言これを評すれば、能く人を殺すの力あるものにして始めて能く人を殺す事なしと云て可ならん。之を文明の强と云ふ。古今を比較して人心の强弱、社會の幸不幸、其差天淵も啻ならざるを知る可し。左れば彼の古の英雄豪傑が勇武果斷にして能く戰ひ又よく人を殺したりと云ふも,、其勇武や唯一時腕力の勇武にして永久必勝の算あるに非ず、其果斷や己が臆病心に迫られたるの果斷にして其胷中餘地なきを證するに足る可きのみ。文明の勝算は數理に根據して違ふ事なく、野蠻の勝利は僥倖に依頼して定數なし。僥倖にして勝つものは其勝に乘して止まる事を知らず、數理を以て勝つものは再三の勝を制する事容易なるが故に、其際悠々として餘地あるも亦謂れなきに非ざるなり。

源平の事は邈乎たり、吾々日本の人民は今日の文明に逢ふて治にも乱にも屠戮の毒害を見ず、苟も罪を犯さゞる限りは其財産生命榮譽を全うして竒禍なきを喜ぶの傍に、眼を轉して隣國の朝鮮を見れば其野蠻の慘状は我源平の時代を再演して或は之に過くるものあるが如し。吾々は源平の事を歴史に讀み繪本に見て辛うして其時の想像を作る其際に、朝鮮の人民は今日これを事實に行ふて曾て怪むものなしとは驚く可きに非ずや。日本なり朝鮮なり等しく是れ東洋の列國なるに、昊天何そ日本に厚くして朝鮮に薄きや。蓋し人盛なれば天に勝つの古言に違はず、朝鮮國民は數百年來支那の儒教主義に心醉して既に精神の獨立を失ひ、又之に加るに近年は其内治外交の政事上に於ても支那の干渉を蒙て獨立の國体を失ひ、有形無形百般の人事支那の風を學て又支那人の指揮に從ひ、自身を知らず自國を知らず日に月に退歩して益々野蠻に赴くものゝ如し。其事實を計ふれば枚擧に遑あらずと雖とも、近日の一事件として我輩は朝鮮獨立黨處刑の新聞を得たり。依て聊か所感を記す事次の如し。(以下次號)

  明治十八年(一八八五年)ニ月廿三日

朝鮮獨立黨の處刑(去廿三日の續き)

去年十二月六日京城の變乱以後、朝鮮の政權は事大黨の手に歸して政府は恰も支那人の後見を以て存立し、政刑一切陰に陽に支那人の意に出るとの事は普く世界中の人の知る所ならん。彼の國の大臣にして獨立黨の名ある朴泳考、金玉均等の諸士は兼て國王陛下の信任を得て竊に國事の改革を謀り、一旦事を擧けて失敗し、俗に所謂負けて國賊なるものゝ身と爲りて其死生行方さへ分明ならず、現政府は之を搜索する事甚しき其最中、先つ其黨類を處分するとて本年一月二十八日、二十九日の両日を以て大に刑罰を行ひ金奉均、李喜貝、申重摸、李昌奎の四名は謀叛大逆不道の罪を以て死刑に、其父母兄弟妻子は皆絞罪に處す。

李點乭、李允相の二名は謀叛不道の罪を以て西小門外に斬に處し、其家族の男は奴と爲し女は婢と爲す。
徐載昌、南興喆、崔興宗、車弘植、崔英植の五名は情を知て告げざる罪を以て當人のみ死刑に處して家族は無罪。
英昌摸は既に死後に付き其罪を論せず。
洪英植は孥戮の典を追施す。
又金玉均、徐載弼、徐光範の父母妻子は二月二日を以て南大門に絞罪に處せらる。

右は本月十六日時事新報の朝鮮事件欄内に掲載したるものなれば讀者も知らるゝ所ならん。抑此刑戮は國事犯に起りたるものにして事の正邪は我輩の知る所に非ず、刑せられたる者と刑したる者と孰れが忠心にして孰れが反賊にても我輩の痛痒に關するなしと雖とも、今の事大黨政府の當局者が能く人を殺して殘忍無情なるの一事に於ては實に驚かざるを得ず。現に罪を犯したる本人を刑するは國事に至當の事ならんなれとも、右犯罪人の中車弘植の如きは徐載弼の僕にして、變乱の夜提燈を携へて主人の供をしたるまでの罪にして死刑を兔れず。壯大の男子を殺すは尚忍ぶ可しとするも、心身柔弱なる婦人女子と白髮半死の老翁老婆を刑塲に引出し、東西の分ちもなき小兒の首に繩を掛けて之を絞め殺すとは果して如何なる心ぞや。尚一歩を讓り、老人婦人の如きは識別の精神あれば身に犯罪の覺なきも、我子我良人が斯る身と爲りし故に我身も斯る災難に陷るものなりと冤ながらも其冤を知りて死したる事ならんなれとも、三歳五歳の小兒等は父母の手を離るゝさへ泣き叫ぶの常なるに、荒々しき獄卒の手に掛り雪霜吹き晒らしの城門外に引摺られて細き首に繩を掛けらるゝ其時の情は如何なる可きや、唯恐ろしき鬼に掴つかまれたる心地するのみにして、其索の窄しまりて呼吸の絶ゆるまでは殺さるゝものとは思はず、唯父母を慕ひ、兄弟を求め、父よ母よと呼び叫び聲を限りに泣入りて絞索漸く窄しまり、泣く聲漸く微にして終に絶命したる事ならん。人間娑婆世界の地獄は朝鮮の京城に出現したり。我輩は此國を目して野蠻と評せんよりも寧ろ妖魔惡鬼の地獄國と云はんと欲する者なり。而して此地獄國の當局者は誰ぞと尋るに、事大黨政府の官吏にして其後見の實力を有する者は即ち支那人なり。我輩は千里遠隔の隣國に居り固より其國事に縁なき者なれとも、此事情を聞いて唯悲哀に堪へず、今この文を草するにも涙落ちて原稿紙を潤ほすを覺えざるなり。事大黨の人々は能くも忍んで此無情の事を爲し、能くも忍んで其刑塲に臨監したるものなり。文明國人の情に於ては罹災の人の不幸を哀むの傍に、又他の殘忍を見て寒心戰慄するのみ。抑一國の法律は其國の主權に屬するものにして、朝鮮に如何なる法を設けて如何なる慘酷を働くも他國人の敢て喙(クチバシ) を容る可き限りに非ず、我輩これを知らざるに非ずと雖とも、凡各國人民の相互に交際するは唯條約の公文にのみ依頼す可きものにあらず、雙方の人情相通するに非ざれば修信も貿易も殆と無益に歸するもの多きは古今の事實に證して明に見る可し。然るに今朝鮮國の人情を察するに、支那人と相投して其殺氣の陰險なる事實に吾々日本人の意想外に出るもの多し。故に我輩は朝鮮國に對し條約の公文上には固より對等の交際を爲して他なしと雖とも、人情の一點に至ては其國人が支那の覊軛を脱して文明の正道に入り、有形無形一切の事に付き吾々と共に語りて相驚くなきの塲合に至らざれば、氣の毒ながら之を同族視するを得ず。條約面には對等して尊敬を表するも人民の情交に於て親愛を盡すを得ざるものなり。西洋國人が東洋諸國に對し宗旨相異なるがために、双方人民の交際微妙の間に往々言ふ可からざるの故障を見る事あり、今我輩日本人民も朝鮮國に對し又支那國に對して自から微妙の邊に交際の困難あるを覺るは遺憾に堪へざる次第なり

蓋し彼の事大黨衆が支那人の後見に依頼して、斯くも無慙にしてよく人を殺すは必ずしも其殺氣の活發なるに非ず、苟も殺す可きの機會に逢ふて一時其政治上の怨恨を慰ると、又一には獨立黨の遺類を存在せしめては後難如何を慮かり、機に乘して禍根を斷絶せんとするの心算なる可しと雖とも如何せん。爰に一國あれば其國人に獨立の精神を生するは自然の勢にして、之を駐めんとするも留む可からず。故に今度幸にして獨立黨の人を殲して孑遺なきに至るも人を殲すのみ、精神は殲す可らず、數年ならずして第二の獨立黨を生す可きや明なり。第二第三朝鮮國のあらん限りは此黨の斷ゆる事なくして今度折角の殘殺も無益の勞たるに過ぎざる可し。語を寄す韓廷の事大黨、國に獨立黨の禍あらんを恐れなば早く固陋なる儒教主義を一洗して西洋の文明開化を取り、文明の文に兼ぬるに其武を擴張し國の獨立を萬々歳に堅固ならしむ可し。既に文明の强あり、外患尚且恐るゝに足らず、况や内國政治の軋轢等に於てをや。如何なる變乱あるも之を制する事易し、尚况や其變乱の際に無辜を殺して禍根を斷たんとするが如き卑怯策を行ふに於てをや。啻に無益なるのみならず、自から發明して自から耻入るの日ある可きなり。

  明治十八年(一八八五年)ニ月廿六日


底本:『時事新報』明治18年(1885年)2月23、26日
*原文は漢字カタカナ交じり、句読点なし

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