見出し画像

歴史は利用物か ——田中 明

冬扇房閑話—『現代コリア』平成17年(2005年)5月号より
 いつも昔の話になって恐縮だが、二〇年ほど前、李朝末期の日韓関係について、小さな勉強会をつづけたことがある。メンバーは五〇代、六〇代(私もその一人)が中心で、九州から参加した大学教師のQ氏は、例外的に四〇代半ばの若手だった。
 あるとき会が終わってから、安弁当をつつきながら「戦後」の日本が話題になったときのことである。Q氏が突然「戦後、戦後と言われますが、それは大東亜戦争の後のことですか、戊辰戦争の後のことですか」と言い出したので、みんなぎょっとした。
 その場の話題が何だったかは、もう忘れてしまったが、そのときのわれわれは、当然のこととして、自分たちが経験した大東亜戦争を頭に「戦後」という言葉を使っていたのである。それが明治維新のさいの「戊辰戦争後」が持ち出されたので、みんなすぐには返事ができなかった。
 ややあって誰かが「あなたは『戦後』というと、まず戊辰戦争の方が頭に浮かぶのですか」と、感に堪えぬように言うと、Q氏はこう答えたのである。
 「私は会津の人間です。小学校の遠足では、行くところ行くところが、みんな戊辰の役の戦跡地です。会津はそういうところが一杯なんです。そこで先生から、戊辰のときのことをたっぷり教えられました。それに比べると、大東亜戦争のときは、B29の爆撃を喰らうわけでなく、子供にとって印象は稀薄です。 だから『戦後』と言われると、どっちの『戦後』かなと、どうしても考えてしまうんです」
 周知のように、維新のさい朝敵とされた会津藩の人たちは、婦女子や白虎隊(少年兵)の自刃が象徴するような悲劇的な敗戦と、その後の新政府による報復的懲罰を経験しなければならなかった。それらの物語は、いまのわれわれにも涙をさそわせる。
 Q氏の話を聞いた夜、私は戊辰の戦跡地へ教え子を引き連れて、ここがどんなところなのかを説いている会津の先生の姿を思い浮かべた。おそらく彼は「自分たちの先祖が、どんな悲壮な戦いをしたのか。敗戦後はどんな苦しい目に遭い、それをどうやって乗り越えたのか」ということを諄々と説いたのであろう。だから、それは四〇年後も、教え子の胸に刻み込まれて消えないのだ、と思った。
 中公新書に『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』という一本がある。 柴五郎は明治三三年、北京の列国大公使館区域が、排外攘夷を唱える義和団に包囲されたとき、援兵が来るまでの五〇余日間、僅かな守備兵で籠城抗戦した沈着献身の指揮官として、各国の称賛を受けた人である。
 右の書は、その柴将軍(のち陸軍大将となる)が、肉親の菩提を弔うためにと記した少年期の記録である(将軍の祖母・母・姉妹は会津落城のさい自刃している)。将軍はその記録の校訂を、親交のあった故石光真清氏(陸軍士官として満州で諜報活動に従事した人。手記に『城下の人』など)の息子・石光真人氏に依頼した。草稿を読んだ石光氏は、戊辰戦争の真姿を伝えるものとして、これは「柴家の筐底に納むべきではない」と思い、筆写を乞うて許された。それがもとに三〇年後、公刊の運びとなったのである(原文は菩提寺に納められている)。
 記録は屈辱と苦難の幼少年期の日々を物語っている。とくに会津藩が下北半島の火山灰地(名目は三万石だが実収は七千石の荒蕪地)に移封され、冬は餓死・凍死を免れるのが精一杯の暮らしを強いられるくだりは凄絶である。
 石光氏は後記で「草稿について説明をお聞きしていくうち……ときおり言葉がとだえてしまう。気がつくと翁はひそかに腰の手拭いを手にして両眼をおおわれていた。その心境が少年時代をただなつかしむ懐旧の情だけではないことを、本書をお読みになった方はおわかり頂けると思う」と書いている。
 悲劇の歴史は、会津人の肺腑に刻み込まれて、いまなお消え去ることはないのだ。二、三年前に新聞で読んだが、旧怨をぬぐい去ろうと、鹿児島市だったか、薩摩のある市と会津若松市とを姉妹都市にしようという企てがあったが、会津側の意向で見送りになったという。
 歴史とは、なんと重いものであろうか。

 こんなことを思い出したのは、このところ韓国で燃え上がっている反日運動が、しきりに歴史を持ち出しているからである。 他国の植民地支配を受けたことが、いかに口惜しいことであったかは、われわれにも(当事者ほどではないかも知れないが)想像はつく。
 しかし、会津人の心情に共感し感動してきた私だが、いま韓国で繰り広げられている反日運動には、共感が持てない。歴史をあげつらう彼らの態度が、あまりにも安易に見えるからである。
 人はよく「歴史は繰り返す」というが、そんなことはない。一人の人間にとって、歴史は一回こっきりのものである。 戦争で最愛の人を失った人間の嘆き悲しみは、それが取り返しのつかぬ事実であるがゆえに深いのである。そこには敗者復活戦などありえない。歴戦の勇士が寡黙であるのは、命を賭けてきた彼の経験が、彼以外には伝達不可能のものであり、手柄話などでは覆うことができないからである。
 それに比して、いま韓国で繰り広げられている反日運動は、歴史についてなんと饒舌だろうか。 彼らは「日本は植民地支配の歴史について反省が足りぬ」と攻撃する。 しかし、世界の旧植民国のうちで、植民地支配の歴史に対して、負い目を覚え謝罪の言葉を繰り返している唯一の国が日本ではないのか。「歴史」を掲げての韓国の反日は、そういう日本の弱みにつけこんだ最も安全な糾弾行為ではないのか。 安全地帯からの糾弾は、おのずと饒舌になる。
 以前書いたことがあるが、私は一九六五年、記者として解放後の韓国を初めて訪れたとき、悠容迫らざる態度で親切に取材に応じてくれた人が、あとで大の反日家であると知らされ、驚いたことが一再ならずあった。
 あとで気づくのだが、あのときの大人たちには、いま反日を語ることは、いまなお自分たちが日本の影響下にあることを認めるようなものだから拒否する、といった凛然たる気概があった。それは日本にやられたという、一回こっきりの取り返しのつかぬ歴史に対する痛切な思いがあったからであろう。あのとき、あの人たちがもし日本糾弾の言葉を投げかけてきたならば、私は無条件で頭を垂れたであろう。しかし、あの人たちは、そんなことをしなかった。そこには誇り――倫理の高みが感得された。 敗北の歴史を日本攻撃の道具にと得々とあげつらう饒舌家にはないものである。
 石光氏によれば、柴将軍は「北京籠城」のことなど、もっと詳しく知りたいと尋ねた氏に対し「軍の一員として働いたまで……」との一言で、ぴしゃりと話を打ち切られたという。一方、戦時情勢については「近頃の軍人は、すぐ鉄砲を撃ちたがる。 国の運命を賭ける戦というものは、そのようなものではない」と「あるときは厳しい気色で、またあるときは淋しい面持ちで語った」。昭和一七年の秋、「この戦は負けです」と言い、さまざまな情報を伝えて反駁しても「いや、この戦は負けです」と繰り返していたとのことである。 無私愛国の心情が発する言葉である。
 いまの韓国の反日家の言動には、そうしたものがない。彼らは歴史はいくらでも書き換えられる利用物と思っているようだ。共産国家は、それを常用してきたが、その結末はすでに出ている。
 従軍慰安婦問題が出てきて以来、私は韓国の歴史論議に、まともに対する気持ちを失った。 慰安婦を国家権力が強制動員したというウソにしがみついて、元慰安婦の老婆まで動員した浅ましく卑しいやり方につきあう必要はないと思ったからである。歴史を安易に利用しようとする饒舌家には、低頭する気になれない。
 この問題は、日本側に同調するグループがあり、政府に識見がなかったため、韓国人に「理は吾にあり」というような錯覚を起こさせているが、それだけにいまの韓国に同調してはならない、と私は思う。 同調して韓国の倫理性を、これ以上頽落させる応援団にはなってはならないからだ。

底本:『遠ざかる韓国 —冬扇房独語—』(2010年、晩聲社)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?