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満洲国協和会

[満洲国協和会とは何か]
 1932年7月に発足した満洲国住民への教化団体。国庫補助金が収入の91%を占めた官製団体で(1939年度)、終戦前年の1944年には、分会数5,185、会員数428万5,414名に達していた。協和会会員の民族構成をみると(1943年上半期)、86.4%を漢人が占め、日本人はわずか8.1%、朝鮮人は4.6%にすぎなかった。

[解釈と論争]
 満洲国協和会の評価については、二つの見解をめぐる論争がある。ひとつは、初期の関東軍と満洲青年連盟から協和会までの「理想主義」を文字通り捉えて、日本軍部や支配層による「権益主義」と対立させて解釈するもの。
いまひとつは、建国以後の満洲国を思想的にも運動論的にも支え続けたという見解。こうした協和会評価の対立は、現在もなお論議されている。また、協和会が関東軍司令官の交替やときどきの紛争で、その性格や機能を変化させたのか/しなかったのかという議論もある。いずれの論争においても、協和会活動を進めていた側から捉えるのではなく、むしろそれを受容していた/させられていた地方の県や村レベルの地元住民の声、さらには民族別による活動の影響の評価などを検証することが解決の糸口になると思われる。

[情勢の展開]
 1933年7月、思想戦を重視した関東軍は、満洲青年連盟系の協和党を評価し、これを満洲国協和会として改組した。こうして成立した協和会の名誉総裁には執政溥儀、名誉顧問には関東軍司令官本庄繁、会長には鄭孝胥総理、名誉理事には橋本虎之助・駒井徳三・板垣征四郎など、満洲国の首脳陣が就任した。発足して間もない協和会であったが、熱河作戦への随軍、新京での日満青年大会の開催、帝政請願市民大会の開催、即位大典の弘報活動のほか、日語学院の開設、協和会講習会の開催など、活発に活動した。しかし、1934年9月の改組で、協和会発足の功労者であった山口重次小澤開策(小澤俊夫・征爾の父)らが辞任し、少数精鋭による理想主義路線は崩れた。
 1935年12月に、南次郎が関東軍司令官に、板垣征四郎が同参謀副長に着任すると、協和会は拡大・強化に転じた。その結果、農村では郷村分会、都市では同業公会を単位とした分会の結成、また民族別分会の組織化にも着手されることになった。翌年2月、関東軍は、協和会を民間団体でなく国家的機構として強化すること、会員は地元の民間人だけでなく、在満日本人も組み込むことなどの指針を示した。協和会は、これに基づいて同月臨時新京特別工作委員会を成立させたほか、5月に大連事務所を開設し、小山貞知を所長に据えて関東州における協和会運動を開始した。
 1937年の6月に治外法権の撤廃が宣言され、翌月に日中戦争が勃発すると、協和会は末端統治機構としての役割をより明確にした。「官民一途の独創的王道政治を実現」(植田謙吉)、つまり二位一体化の方針のもと、中央では全国連合協議会を発足させて国民動員を図った。一方、地方では、国民精神総動員運動に則り会員規則が公布され、満洲国住民以外の者でも入会できるようになり、また職業別・民族別の分会から地域別分会に組織方針が変更されたことで、会員数は急増した。
 さらに、1938年には「青少年組織大綱」が制定され、翌年各地で協和青少年団の結団式が行われるなど、青年運動を担う人材の育成に着手した。加えて、11月には新京や主要都市における自警団体として協和義勇奉公隊が組織され、各地の産物の増産集荷運動、愛労運動、経済倫理化運動が重点化された。1941年3月になると、基層社会を巻き込む目的のため、国民隣保組織の結成が着手されたが、旧社会の有力者層を入会の対象としたにすぎなかった。
 1941年4月の改組により、省長が省協和会本部長になるなど、協和会と行政組織は一体化した。その結果、協和会は、建国時の理念は問題とせず、勤労奉公隊の組織化や物資の配給のための機関になり下がった。また、太平洋戦争勃発の1年後、「満洲国基本国策大綱」が公布されると、戦時動員のための青少年運動や義勇奉公隊組織の強化と、自興村の育成が中心課題となり、1942年からは農産物出荷工作が進められた。さらに、1944年8月、「戦時工作要綱」が公布されると、敬農愛耕運動を始め、農業物資の増産と配給システムを制限した。しかし、このころ急速に人員が増加した協和会には、
中堅幹部が絶対的に不足しており、予定したほどの成果をあげることができなかったといわれている。
 日本の敗戦がラジオから流された1945年8月15日の翌日に、結城清太郎副本部長の手によって協和会の解散が各省本部によって打電され、13年間の活動の歴史に終止符が打たれた。
 なお協和会中央事務局調査室は、1935年12月から翌年6月まで『工作月報』を発行。1936年に『協和会誌』と誌名が改められた(いずれも所在不明)。現在閲覧できるのは、1939年9月から45年4月まで刊行された会誌『協和運動』(緑陰書房の復刊版)である。 

[参考文献]
満洲国史編纂刊行会編『満洲国史』各論(満蒙同胞援護会、1971年)
平野健一郎「満州国協和会の政治的展開」(日本政治学会編『「近衛新体制」の研究』所収、岩波書店、1973年)
塚瀬進『満洲国—「民族協和」の実像』(吉川弘文館、1998年)
神野香織「『民族協和』運動の発展と変容―『協和運動』誌にみる」(『史論』五三、2000年)

—— 二〇世紀満洲歴史事典(貴志俊彦)

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