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如是經(光炎菩薩大獅子吼經)——フリードリヒ・ニーチエ

  一切衆生悉可讀・一切衆生不可讀

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序品一(光炎菩薩 初轉法輪)

 光炎菩薩、御齢三十にして、その故郷を去り、故郷の湖邊を去りて、遠く山に入りたまへり。山に住して禪定に入り、孤獨寂寞を樂しみたまふこと、茲に十年なるに、未だ曾て倦みたまうことなかりき。十年の後、心機遂に一轉、その朝、曙光を仰いで起ち、昇る大日輪を仰いで、語つて曰く、
 「われ、星中の王たる汝に告ぐ。汝は照すを以て汝の生命とす。若し、照さるべきものなかつせば、汝何を以てか汝の幸福となさん。
 汝の來つてわが仙窟を照らすこと、十年まさに一日の如し。しかれどもこのわれなく、わが鷲なく、わが蛇なかつせば、汝恐らくは、汝の光と汝の道とに飽けるならん。
 さはれ、吾等は、朝ごとに汝を待てり、汝の光明を享けて樂めり、樂んで後汝の幸を祈れり。
 見よ、蜜を作りて多きに過ぎたる蜂はその蜜に飽けるならずや。われもまた智を集むること多きに過ぎたり。われは、延ばし來る多くの手を要む。
 かの賢きものゝ、再びその愚なるを曉りて喜び、かの貧しきものゝ、再びその富めるを覺えて喜ぶに至らんまで、希くはわれ、或は施し、或は頒たん。
 かゝらん爲に、われは此の山を降りて谷に趣かざるべからず。ゆふべ夕べ、海の彼方にに沒して猶ほ下界に光を惠む汝の如く。
 われは汝の如く沈み行かざるべからず、沈み行くとは人の語なり、われは、其の人の許に趣かんとす。
 されば、靜かなる汝の眼よ、餘りに大いなる人の幸をも、猶ほ且つ些の嫉妬なく眺め得る汝の眼よ、われを祝せ。
 されば汝、わが盃を祝せ、盃はまさに溢れんとす、水は金色の波を湛へて、盃の外に溢れ出て、八面玲瓏として、汝の快樂を映じ出だすを見よ。
 見よ、盃の水はまさに虚しむらんとす、而してわれ光炎は、再び人と成らんとす。」

 かくの如くして、光炎菩薩の環相廻向は始まる。

序品二

 光炎菩薩。單身山を下りたまふ。途上人なし。深山を出でて、森林に來りたまひしとき、童顏鶴髮の老翁忽然として其の面前に立てり。夙にその精舎を去つて、林間に草根を求むる老翁なりき。翁、菩薩を見て告げて云はく、
 「旅人は未見の人にあらず、幾年の昔なりけん、この道を過りたるは、まさしく彼なりき、彼は光炎子と呼べり、されど、その人今や別人の如し。
 その時よ、汝は汝の灰を山に運び行けり。かゝりし汝は、今や、汝の火を谷に持ち往かんと欲するか、汝は火を放てるものゝ罰を恐れずや。
 然り、われは能く、今の光炎子の人となりを解す。彼の眼は淸らかなり、彼の唇には厭ふべきところなし、彼は舞ふ人の如く踊り往く。
 然り光炎子は別人となれり、光炎子は兒童となれり。光炎子は覺めたる人なり。覺めたる汝よ、かの眠れる人に向つて、今や何を爲さんと欲するや。
 汝の山中に孤獨を樂しめるや、猶ほ渺茫たる大海の中に遊べるが如かりき、然り、汝は海に遊べるなりき、海に遊びたる汝は、再び陸に上らんと欲するか、憫むべきかな、汝は再び佻々として汝の形骸を曳かんと欲するか、憫むべきかな。」
 光炎菩薩答へて曰く、「われは人を愛す。」
 聖者の云く、「果して然らば、われは何が故に世を遁れて無人の境を樂しめりと思ふや。こはわが餘りに人を愛したるが爲ならずや。
 今のわれは、人を愛せずして神を愛す。人はあまりに圓滿を缺く。われ若し人を愛せざるべからずんば、われ恐らくは死せん。」
 光炎菩薩答へて曰く、「愛について、われ、そもそも何をか語れる。われは、人々に法施をなさん。」
 聖者の云く、「人に何物も與ふることなかれ。寧ろ如かんや、人より或るものを奪い取りて、人と興に之を有せんには、汝若し、かくして自ら樂しまば、人は最も樂しと爲さん。
 汝若し强ひて與へんと思はば、人の請ふを待ちて、財施をなせ。されど財施以上を惠むことなかれ。」
 光炎菩薩答へて曰く、「あらず聖者。われは財施をなさず。われは財施をなすが如き貧しきものにあらざればなり。」
 聖者、光炎菩薩を見て笑つて云く、「さらば汝、心を用ひて、衆生をして汝の法寶を享けしめよ。彼等は成心以て道士を迎ふればなり。彼等に布施せんがために趣く吾等をば、彼等は信ぜざればなり。
 街上を歩む吾等の跫音は、彼等のあまりに氣味惡く感ずるところなり。太陽未だ出でざるに先だつこと遠く、人一人、逍遙漫歩、彼等が枕頭夜半の夢を驚かす時のそれの如く、彼等恐らく、吾等を見て、互に相顧み相問ひ、「盜兒何處に行くか」と云はん。
 汝光炎子、人の間に往くことなかれ、而うしてこの森に遊びたまえ。人の間に趣かんよりも寧ろ禽獸の間に遊ばずや。汝は、何が故に、余の如く、熊の中に熊となり、鳥の中に鳥となるを欲せざるや。」
 光炎菩薩問うて曰く、「然らば則ち、聖者、此處に遊びて何をか爲したまふ。」
 聖者答へて云く、「われは歌を作りて之を吟ずるのみ。われ歌を作らば、或は泣き、或は笑ひ、或は嘯く。此の如きのみ。かくして、われは神を讃歎す。或は歌ひ、或は笑ひ、或は嘯き、われは、わが神を讃歎す。わが爲すところ此の如し。さもあらばあれ、汝はわれに何物を與ふるや。」
 光炎菩薩、この語を聞きて、聖者に一揖して曰く、「われ能く、上人に何物か呈し得ん。われもまた、上人より、何物をも享くるなからんがために、速に茲を去らん。」——此の如くして、老翁と中年の人とは、呵々大笑して袖を別ちぬ。その笑ふや、二人の男兒が相笑ふが如かりき。

 光炎菩薩再び孤獨の身となりしとき、われとわが心に語つて曰く、「かの老上人は久しく人の世を遁れたるがために、神の死せるを毛頭聞かざるならんが、かゝることの有り得べきことか、不可思議なるかな。」

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