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日満議定書

 1932年9月15日に新京で日満間に交わされた議定書。武藤信義特命全権大使と鄭孝胥満洲国国務総理が調印した。リットン報告書の公表に先立って、日本が満洲国を承認したものである。
 1932年3月に満洲国が建国された後、犬養毅内閣は満洲国の承認に慎重な姿勢を示していた。五・一五事件後に成立した斎藤実内閣は方針を変更し、満洲国の承認を閣議決定した。内田康哉外相が8月25日に衆議院で答弁し、「国を焦土にしても此主張を徹することに於ては、一歩も譲らないと云う決心を持って居る」と演説したことはよく知られている。
 日満議定書は、前文、本文二ヵ条、秘密往復文書から成る。前文は、「日本国は満洲国か其の住民の意思に基きて自由に成立し独立の一国家を成すに至りたる事実を確認した」との書き出しに始まっており、満洲国の独立が自由意志だったことを強調している。
 第一条は、「満洲国は将来日満両国間に別段の約定を締結せさる限り満洲国領域内に於て日本国又は日本国臣民か従来の日支間の条約、協定其の他の取極及公私の契約に依り有する一切の権利利益を確認尊重すへし」とされ、日本の在満洲権益が尊重されることを規定した。
 第二条には、「日本国及満洲国は締約国の一方の領土及治安に対する一切の脅威は同時に締約国の他方の安寧及存立に対する脅威たるの事実を確認し両国共同して国家の防衛に当るへきことを約す之か為所要の日本国軍は満洲国内に駐屯するものとす」と記された。日満共同防衛を名目として、日本軍の満洲国内駐屯を定めたのである。
 秘密往復文書は、満洲国執政の溥儀や鄭孝胥国務総理と本庄繁関東軍司令官との間で合意されていた秘密取り決めを有効と確認した。その取り決めとは、国防や治安維持の対日委託、国防上必要な鉄道や港湾などの管理敷設の対日委託、関東軍司令官の推薦による日本人官吏の登用、日満合弁による航空会社の設立、満洲国内における無期限採掘権の設定などであった。 →「溥儀・本庄秘密協定

[参考文献]
日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編著『満州事変』(『太平洋戦争への道 開戦外交史』二、朝日新聞社、1962年)
臼井勝美『満洲国と国際連盟』(吉川弘文館、1995年)
田中隆一『満洲国と日本の帝国支配』(有志社、2007年)

—— 二〇世紀満洲歴史事典(服部龍二)

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